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丑三つ時を過ぎた都は日中の喧噪が嘘の様に静まり返っていた。 しっとりと露に濡れる庭の草木から、芳ばしい夏の匂いが漂う。 それに混じって部屋に香るのは、男の側に無造作に転がされた数本の徳利から立つ酒気であった。 漆の盃に並々注がれた日本酒の水面に、満月が姿を映している。 天空では丸く輝いているそれも、漆塗りの朱い空の上では歪(いびつ)な形に歪んでしまっていた。 下戸では盃一杯飲みきるのも辛い酒を有りっ丈飲み干しておきながら、男は酔った気色もない。 紫陽花が淡い色の花をそこかしこに咲かせる庭を眺めやりながら、男はふと口元を緩めて笑った。 「来ているんだろう?妖怪」 「……な、なんで分かった」 ひょこ、と紫陽花の艶めいた大きな葉を揺らしてそこから顔を出したのは、やっと齢十五になるかならないかくらいの童子だった。 焦点も定まらぬまま曖昧にしていた目線を其方に移した男は、やっと童子に気が付いたという様に大げさに驚いた顔をしてみせる。 「何だ、本当に来ていたのか」 「なっ!俺を填めたのか!」 「こんな手に掛かる方が悪い」 口調は冷淡、言葉は辛辣、だが男の表情は極めて穏やかだった。 細められた目元からも、からかい戯れてやっているのが一目で分かる、童子もまたその愛情に応えて心を開き良く男に懐いていた。 童子がむうと頬を破裂する程膨らませ男を睨むも、男は一向に親しげな雰囲気を崩そうとしない。 それに苛立ったのか童子は妖怪と呼ばれる所以を発揮し始めた。 見る見る間に身体にふさふさの尻尾と耳を生やし、身体を取り巻く真っ青な狐火を浮かべたのだ。 それでも男の余裕が崩れることは無かったが、京の都を灰燼に帰しかねない狐火の威力の程を知っている男は、彼なりの方法で童子の怒りの炎を鎮めようと努めた。 「そう腹を立てるな。一々狐火を出されては此方が鬱陶しい」 止めなければさもないとお前を嫌うぞ、と人知を越えた狐の耳には何故だかそう聞こえたらしく、青い炎は煙も残さず鎮火した。 泣きそうな顔でいじけた様に紫陽花の葉をむしり始めた狐の耳に、油揚げを乗せた狐うどんはさぞ美味かろうと追い打ちがかかる。 紅葉の葉のような手の平から切れ切れになった青葉が零れ落ち、狐は衝撃に目玉が零れ落ちそうなほど目を見開いて男を見つめた。 実際狐うどんと狐は何の関わりもないのだが、そんな事は妖怪である童子には分かりようがない。 微かに潤んだ瞳を揺らしながら男を見つめる狐に、男は込み上げる笑いを噛み殺しながら呟いた。 「……冗談だ」 「ふ、ふん!それしきのこと、分かっていて当然だ!」 「クク、そうか」 喉の奥で低く笑い声を上げる男に、狐は顔を朱に染めて俯いた。 先程の言葉が虚勢である事を男にいとも簡単に見抜かれ、羞恥でいてもたってもいられないのだ。 男が笑いを堪えようと下を向いた瞬間、着物の袖でごしごしと乱暴に目元を拭ってから、狐は縁側の男の隣にちょこんと腰掛けた。 尻尾と耳は何時の間にか消え、姿は人間のそれと全く同じである。 漸く笑いの発作を克服したらしい男は、せめてもの慰みに狐の茜色の髪を指で撫で梳いてやった。 「……また戦か」 憂いを帯びた表情でそう呟いた狐に、男は其方へ視線を遣った。 「戦乱の世だ、仕方あるまい」 こうして男の瞳を見つめていると、深い井戸を覗き込んでいる気分になる、狐は密かにそう思った。 しかもこの男からは普通の獣では耐えられない程の強い、あまりに強い血の匂いがするのだった。 「だが夜明け前の空は最も暗いという…朝日はそう遠くない」 どこか寂しげな狐の頭を撫でてから、男は夜空に目を向けた。 数え切れない無数の星が明滅し、二人を上から見下ろしている。 「混乱を極める世は直に一つとなろう。私の手によって、な」 右の手の平を月明かりに翳した男は、強くその手を握り締める。 男の敢然たる決意が表情に表れているのを見て取った狐は、それ以上男に何も言う事はなかった。 静かに鳴き始めた松虫の声を聞きながら、頬を撫でては過ぎる心地良い夜風にそっと身を任せる。 それからどれ程の時が経っただろうか、突然廊下を走る大きな足音が聞こえ狐は驚き顔を上げた。 ぴんと張った狐の耳が些細な音も逃すまいと周りを探って動く。 廊下と男の部屋とを隔てる襖の前で足音はぴたりと止まり、焦りの滲む若い男声が聞こえてきた。 「信長様、御起床下さい」 「騒がしいぞ、蘭丸。寺中の者を起こすがそなたの使命か」 眉根を寄せて襖の向こうに声を放った男は、端正な顔を不機嫌に歪めながら悠然と立ち上がった。 身を隠すのも間に合わず、狐は男の後で石の様に硬直している。 襖が開かれ、廊下に座す蘭丸と呼ばれた少年が男を見上げた。 白磁の肌と林檎の様に赤い唇、彼を目の前にすれば遊女も裸足で逃げ出すであろう美少年だった。 信長も何度か夜伽を命じた事がある、信頼できる小姓の一人だ。 彼が抜ける様に白い肌を蒼白にし己を見つめているのを見て、信長は尋常でない事の次第を知る。 「明智光秀様、ご謀反」 震える唇から告げられた言葉は余りに重く、蘭丸は奥にいる狐の存在にすら気付いていなかった。 一秒にも一生にも感じられる重い沈黙が二人の間に横たわり、先に口を開いたのは信長であった。 信長は通常の平静を失わず、落ち着き払った様子で指示を出す。 「急ぎ兵を集めよ」 朗々とした声には不安や翳りと言ったものは感じられなかった。 それが勝ち戦であろうと負け戦であろうと信長は信長であった。 その力強さに背を押された様に、蘭丸もまた冷静さを取り戻す。 「人間五十年…」 蘭丸の後姿を見送った信長の唇の端から洩れたのは、清州城で彼が舞った敦盛の唄の一節だった。 枕元に置かれた刀を腰に差し弓矢を手にした信長は、狐を振り返り先刻と変わらぬ調子で尋ねる。 「……そう言えば、まだそなたの名を聞いていなかったな」 「し、七宝。七宝だ」 「七宝……良い名だ。冥土の土産に、覚えておくとしよう」 記憶に刻む様に狐の名を舌で転がしてから、信長は踵を返した。 そのまま立ち去ろうとする後ろ姿に、狐は思い切り声を上げる。 「待て!俺も一緒に行く!」 「ならぬ!そなたがいては足手まといだ。一刻も早く立ち去れ」 「嫌だ!本当は足手まといなどと思っていないのだろう?こういう時にだけ優しくするな!」 泣きそうな声でまくし立ててから、狐は殆ど体当たりに近い勢いで信長の腰の辺りに抱き付いた。 ぎゅっと力を込めてくるその腕を振り払う事も出来ず、信長は苦笑と呆れの混じった表情をする。 「聞き分けのない小狐だ……そなたも立派なうつけ者よな」 溜め息混じりに吐かれた言葉は、殆ど諦めに近い嘆きだった。 深夜の静寂を切り裂いて、微かだが馬の蹄の音が聞こえてくる。 事態は一刻を争う状況だった。 「仕方あるまい…ならば七宝」 小さな頭に大きな手の平を乗せ、男は七宝の顔を上げさせた。 男の滾々とした深淵の様な瞳の奥に燃えたぎる焔を見た七宝は、息を呑んでただ男を見つめる。 凄まじい覇気と威圧感を放ちながらも、男の唇は弧を描いていた。 「第六天魔王、信長の最後の戦、しかと目に焼き付けるがよい」 END
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