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先日の帰宅時、アパートの階段下に猫がいた。 野良だろうか、首輪をしている様子もなく、毛並みも少し荒れている。 何故その猫に気付いたかというと、大きな瞳がこちらをじっと見ていたからだ。見返しても反らすことなく、じっと。 (腹減ってんのかな) 何か猫にやっても問題ない食料が部屋にあっただろうかと思案しつつ、上りかけた階段を下りて近づこうとする。と、猫はじりっと後ずさった。全身を強張らせて警戒心を露にする猫に、できるだけ優しく話しかける。 「大丈夫だよ」 じり。声を聞くと、猫はまた距離を取る。 「おいで……あ、」 手を差し出すとびくりと戦いて、走り去ってしまった。 「なんだよ…おかしいな、猫の扱いなら慣れてるはずなのに」 一人残された和臣は、首を傾げて呟いた。 若いからといって肉ばかり食べている訳ではなく、恋人のリクエストもあって晩の主菜は焼き魚だった。皮一枚のみ残してきれいに平らげられた皿を片付け、魚の匂いがこもった部屋の窓を開けて風を入れる。そのまま腰を下ろして雑誌を捲っていると、隣から視線を感じた。 「ん?」 見返すと一瞬見開いて、ぱっと反らす。抱えた膝に顎を乗せて、小さな声でさむいと呟く。ああ、と開け放した窓を見た。バルコニーに続く足元までの窓だ、夜の冷たい空気が気になるのだろう。朝矢は真冬生まれのくせに夏が大好きで、寒さに弱い。 「くっつけば寒くないよ」 暗にもっと側に来いと言ってみれば頬をうっすらと赤らめるのに、自分から近寄ってこようとはしない。ほら、と手を出すと、ひどいことなどされないと分かっているのにびくびくする。そして、いつまでもその場を動こうとしない体を抱き込めば、一層赤い顔をして固まってしまう。でも逃げない。 それが、和臣の慣れた猫の行動だ。 うなじに鼻をつけて吸い込むと、 「魚のにおい……」 調理を担当した自分にこそついているのだろうが、焼いている最中にまだかまだかと和臣の周りをうろうろしていた朝矢にも、しっかりとその匂いが移っていた。 「風呂入るし、って、ちょ…っと、」 首筋をぺろりと舐めてそっと甘噛みすると、緩みかけていた強張りがまた戻った。宥めるように頬を寄せて、風が当たらないようにすっぽりと腕の中に収めて温める。しばらくこうしていると次第に落ち着いて、時にはうとうとと微睡み始める若い雄猫。そうなると無理に起こすのは可哀想だから、この時ばかりは一切の警戒を解いたあどけない寝顔を眺めて過ごすのだ。 が、今日はこのまま寝かせる気はない。トレーナーの裾から手を入れて腹をまさぐると、朝矢はいよいよ毛を逆立てんばかりに抵抗し始めた。 「ちょ、捲くんなっ……」 「寒くないだろ?」 ざわざわと鳥肌を立てた温かい肌を撫でながら、上気した頬にキスをひとつ。 「食べたばっかだし……、」 あれこれと言い訳をしながら、朝矢は腕の中で縮こまる。体の割によく食べる朝矢の胃のあたりはなるほど、少し膨れているようだ。さすがにこの状態を組み敷くのは気の毒なので、悪戯していた手を抜き出してトレーナーの裾を直してやった。 そうは言っても服の上から腹を撫で続けて、耳元に息を吹きかけて発情を誘発しようという魂胆だ。しばらく続けていると朝矢はぷるぷると震え出して、やにわに立ち上がった。 「ふ、風呂、入ってくる」 そそくさと風呂場へ逃げて行く後ろ姿を見送って、和臣はにんまりと口の端を上げた。 あの猫は、逃げても戻ってくる。そして、少しでも一人にすると戻る頃には痺れを切らして、遅いと文句を垂れるのだ。それを宥めて甘やかして、溶かしてしまうのが和臣の役目。何度こうしてきただろう。 「さて」 部屋の空気が随分澄んで来た。朝矢が湯冷めしないよう、窓を閉めて膝掛けを用意する。それから、朝矢がちらちらとこちらを気にしながらいるであろう風呂場へと向かうのだった。 Fin.
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