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信はニコニコと自分の話を聞く相手に、内心ため息をついた。友人のひとりとおそろしいほど顔立ちが似ているこの三十そこそこの男――外資系会社の役員、らしい――は、名を小岩雅貴と言って、初期の頃からの馴染み客のひとりだった。彼は張り見世で信を指名してきて以来、必ず週二回は予約を入れるようになっていた。 「―――それで……ウルフの意識の流れ″という技法がどのように読者心理に影響を及ぼすかについての本を読んでみたのですが、直線的な時間軸に乗らせない効果があって、読者は語り手の思いや考えに深く引きこまれてしまうので、時間の間隔を狂わせられるそうです」 「確かに、響きと怒り″でも、視点をずらされる感じがあったね」 「ええ。それが良いか悪いかという議論ではなく、通常の語りと比べて読者をより語り手の意識の中に引き込む効果があるという話です」 「これは信頼できない語り手″に繋がるね。カズオ・イシグロの私を離さないで″のように」 「そうですね。非常に面白い仕掛けだと思います」 小岩は微笑み、君は本当に教養があるね、と言った。そしてさりげなく信の髪を撫でる。そういう相手も、知識のカタマリみたいな人物だった。 「張り見世で本を読んでいるだけある」 「そのことはっ………」 信はギョッとして相手を仰いだ。すると、小岩は唇に指をあてて、頷いた。 「誰にも言わないよ、もちろん」 「ありがとうございます」 信はホッとした。小竹などに告げ口されたら、次から最前列中央に座ることを強要されるのは目に見えていたからだ。前の方には絶対に座りたくなかった。 小岩は手をひっこめ、愉快げに聞いた。 「僕たちの最初の会話、覚えてる?」 「ハイ。何の本読んでるの?″と雅貴さまがお聞きになって――」 忘れるわけがなかった。 「そう。で、君が顔を青くして、内緒にしてくれって言ってね。そこからだよね」 「ええ。ご贔屓にして頂き、ありがたく思っております」 「本当はそんなこと思ってないでしょ? カオに書いてあるよ、弱味握られてるから仕方なく登楼てるだけだって」 「そんなこと、ありません。雅貴さまは皆の憧れの的ですし……いつもやさしくして頂いて、ありがたいです。正直、私など釣り合わないのではないかと思ったりしてしまっているのですが………」 信はそもそも、なぜこの、一樹と瓜二つの粋で知られる上客が、環や津田、その他大勢いる見目麗しい傾城たちの中から自分を選んだのかがイマイチわからなかった。加えて、ありがた迷惑だった。小岩のように金払いのいい客がいると売り上げが伸び、その分張り見世での席次を上げられてしまうからだ。 そもそも最初は最前列に座らせられていたのを、何とか小竹に内緒でじわじわ後退することに成功したのに、その努力が水の泡になってしまう。他の見世に飛ばされない程度に低空飛行で年季明けを待つハズが、そこそこ売れてしまっているのは一重にこの男のせいだった。ひいては、彼に決定的な犯行現場を目撃された自分の迂闊さのせいだった。 「君を選んだ理由、聞きたい?」 小竹は目玉が飛び出るほど高価そうな渋い色の和服の袖に手を入れて聞いた。 「差し支えなければ………」 「カンタンだ。本を読んでいたからだよ」 「っ?!」 「なかなかいないだろう?あそこでアンダスンを読みふけっているひとは。だから、話してみたら面白そうだなと思った」 何と、すべての元凶は本だった。信は軽く眩暈を感じながら、箸を進めた――小岩はいつでも、信の分まで食事を頼む―――。 「読書の件を盾にして来ているのは謝るよ。でも、僕の見立ては正しかったな。君はその気になればお職を取れるよ、きっと」 「買い被りすぎですよ………売れ残っているの、ご覧になったでしょう?」 その気になれば―――小岩はそう言った。見抜かれている、と思った。 「フフッ、病気を持っていることを臭わせて来る客来る客遠ざけているのはドコのどなたかな?」 「…………」 「白銀楼(ココ)が業界一クリーンで検査と予防を徹底している廓であることくらい、ちょっと通じている者なら知っているよ。………悪いことをしてしまったね、乗り気でもないのに」 「客を取るのを心の底から愉しんでいる傾城なんて、この世にはいませんよ」 言ってしまってから信は口を押さえた―――やってしまった。絶対に機嫌を損ねてはいけないはずの相手に向かって、興をそぐようなことを言ってしまった。 しかし相手は怒りもせずに頷いた。 「まあ、そうだろうね。皆色々なモノを背負ってここへ来ざるを得なくなった子たちだ。だから僕は、ここへ来るんだよ」 「地獄でもがき苦しんでいる私たちを見物しに、ですか? 良いご趣味をしてますね」 口が止まらない。信は、今日は調子が悪いな、と思いながら何とか自分の衝動を抑制しようと努めた。が、イマイチうまくいかなかった。 「……そう思われても仕方がないけれど……でも違う。僕は、そういう場所で踏ん張っている君たちの美しさに惹かれて、来るんだ」 「ちょっと綺麗に言い換えただけじゃないですか。……結局やっていることは他の客と変わりませんよ。我々を嬲り者にして、快楽を得る―――もう御託はいいから床入りしませんか?」 そう言って信はさっさと立ち上がった。こんな態度を取ったらどうなるか、それはわかっている。小竹に張り見世でサボっていることを告げ口されて、もっと前へ出させられ、もっと客を取らねばならなくなる。 しかし今この瞬間、信は自分で自分を止めることができなかった。大切な友人――章介の水揚げが迫っていて、どうしようもなく苛立っていたのだ。 「……何かあったのかな?」 「いいえ。さ、いらしてください」 もちろんあったとも、と信は仕掛けを脱ぎ捨てながら思った。小岩は困ったような顔をして立ち上がり、床に落ちた着物を手に取ると、襦袢に手をかけていた信を押しとどめた。 「今日はいいよ。辛そうだから。………何か力になってあげられればいいのだけれど………」 「お気持ちだけ頂いておきます。ではもうお帰りに?」 「ああ。悪かったね、タイミングの良くないときに来てしまって。……何かあったら―――」 「何もありません、小岩さまにして頂けることは」 信は仕掛けを適当に来て、襖を開けようとした。その瞬間、小岩が先んじてそれに手をかける。 「見送りはいいよ」 「そういうわけには………」 自分のために襖を開けた相手に、内心苦々しい思いを抱きながら、信は廊下に出た。 「また……来てもいいかな?」 遠慮がちにそう聞いてくる相手に、信は少しぞんざいに扱いすぎたな、と今更ながら反省し、むりくり笑みを浮かべた。 「雅貴さまならいつでも歓迎致します。今日は失礼を言って大変申し訳ございませんでした。お代はいりませんので………」 「いや、全然。むしろ君の別の面も見られてうれしかったな。怒った顔も格別だね」 「しかし………」 怒った顔も格別″―――斬新な表現だな、と思いながら信は花代を払っていこうとする相手に抗議した。が、効果はなかった。 「じゃあね」 相手はそう言うと、踵を返して去っていった。その背に、次にいらしたときに返しますから、と叫んだが、相手はちょっと振り返って手を振っただけだった。 疲れがドッと出て思わず近くの壁に寄りかかると、誰かが近づいてきた。一樹だった。 艶やかな朱色の仕掛けを少し着崩して、細い首元を晒している。化粧がよく映えていて、女優のようだった。 「よっ! どーした、ンなじいさんみたいなカオして」 回しの最中らしい相手は、その姿態や発散する香りとは裏腹に色気のカケラもない声で言った。 「何でもない」 「今の、小岩さんだろ? 今日はお話だけか? 何で律義に支払い拒んでんの? ありがたく受け取っとけばいーのに」 「そういうわけにはいかない。罪悪感で夜眠れなくなる」 そう言うと、一樹はフッと笑って信の額を人さし指でつついた。 「マジメちゃん。要領わりーよなー、信って」 「だってココの花代、ものすごく高いんだぞ? 話だけして終わりなんて、良心が許さん……」 「そーやって欲がないから小岩さんみたいな良客がつくんだろーなあ。無欲の勝利ってヤツ?」 「良客? そうか……?」 「なに、違うの?」 一樹は腕組みをしていたずらっぽい表情で信を見ていた。その胸元に散った鬱血痕に、信は軽く眉をひそめた。 「個人的にはニガテだ………こう、身ぐるみ剥がされる感じなんだ。……比喩だぞ、わかるか?」 「あー、こっちの領域に土足で踏み込んでくる感じ?」 信は頷いた。 「決して粗野とか乱暴だとかいうんではないのだが、気がつくといつの間にか個人的なことを喋らされていて……不愉快だ」 「それにあっちも疲れるし?」 笑みを湛えてからかう相手に信は蹴りを入れた。 「何だよもー、有名だろ?あのひとがうまいってのは。………っていうか、あのひとっておれにカオ似てねえ?」 「似てる。だからものすごくイヤだ」 「失礼」 「お前だって私みたいな客がいたらイヤだろう?」 「確かに。ものすごくイヤだ」 「それより………章介だ」 そのことばに一樹はヘラヘラした表情をひっこめた。 「つっても何もしてやれることねーしなあ……技術的なことは全部教えたし……がんばれとしか……」 「最近本当に喋らないんだ。夜もよく眠れていないみたいだし、心配だ」 「よしっ、じゃあ今晩お宅訪問でもしてみっか! おれ今日十二時には上がれるからさ。もうちょっと早いかもしんねえ。そっち行くわ」 「わかった」 信は頷き、歩き出す相手に向かって付け加えた。 「あまり、無理しないようにな……」 「りょーかい。じゃーねー」 一樹は片手を上げて回し部屋の方へ向かって歩き去った。信は壁から身体を離し、できるだけゆっくり歩いて張り見世に向かった。 その日の夜更けにふたりが仕事を終えて章介の部屋を訪ねると、相手は案の定まだ起きていた。布団は敷かれていたが、まだ入った形跡がない。彼の、四階南側のベランダ付きの部屋は整然と片付き、ひとが暮らしている気配がなかった。 「こんな夜遅くに、どうしたんだ?」 近所迷惑にならないよう、声量を落として問う章介に、一樹が食べ物を勝手に漁りながら答えた。 「んー、いや何か今日スゲー疲れたからさ、癒されに。な?信」 「ああ。こんな時間に悪いな」 「いや………仕事、忙しかったのか?」 章介がフクザツそうな表情でそう聞く。彼は、信と一樹の仕事″に言及するとき、いつもこういう顔をするのだった。 「おーよ。もー今日は盆と正月が一緒に来たような……煎餅だけ? 何もねーなー、章の部屋」 「………悪い」 「給湯室を見て来よう」 信はそう言って立ち上がった。 「わりーな、頼む。ついでに茶淹れてきてくれる? もちろんノンカフェインのヤツね」 「わかった」 信は頷いて部屋を出、一番近い給湯室に向かった。廊下は静まり返って、人っ子一人いない。 足音を忍ばせて歩きながら、間近に迫った友人の例の日″に思いを巡らせる。誰もが恐れ、来て欲しくないと思うその日―――章介は乗り越えられるだろうか。一樹は涼しいカオでこなしたが、それはあくまでも例外的なケースだと信は知っていた。たいていは打ちのめされ、精神的に追い詰められる。信もそうだった。何とも思っていない他人同然の相手に身体を触られる嫌悪感は耐えがたく、終わってすぐにトイレに駆け込み、胃の中がカラになるまで吐き続けた挙句に発熱し、その後しばらく床に伏せるハメになった。今でもそのときのことは思い出したくもないし、思い出さないようにしていた。 実は男と性的な接触をするのが初めてだったわけではなかったが、それでも耐えがたかった。経験のあった自分でさえそうだったのだ―――性に疎く、潔癖で無垢そうな章介がどうなってしまうのか、心配でならなかった。 信は給湯室に着くと電気をつけ、湯を沸かした。そして棚の戸を開けて発見したヨーカンとチョコを持ってきた袋に入れ、淹れた茶と共に章介の部屋に持ち帰った。 信が戸を開け、中に入ると、それまで話していたふたりがピタッと黙った。 「おー、サンキュ」 「悪いな、信」 「私の悪口か?」 信が盆と袋を部屋の中央のローテーブルに置きつつ聞くと、一樹はイヤな笑みを浮かべた。 「その逆」 「?」 「褒めてたんだよ。あの小岩さんに見初められるなんて信もなかなかやんなってハナシ。どんな手管使ったんだよ?」 「そんな話、章介にするな」 入り口側の席に腰を下ろしながら、左側に座る一樹をギロッと睨みつける。 「おー、おっかねえ。でも君は怒ったカオも格別″なんだろ? 惚れられてんねー」 信は容赦なく相手の耳をつまみあげた。 「イテッ、イテテテテッ!」 「お前はっ!つくづくひとのイヤなツボを突くのが得意だな!」 すると、章介がクスリ、と笑った。信と一樹は目を見合わせた。 「今日も快調だな。……信、そんな上客がいたのか。知らなかった」 「言ってなかったからな」 信は一樹の耳を放し、茶を一口すすった。 「なぜだ」 「え?」 「なぜ……言ってくれなかったんだ? おれが傾城じゃないからか?」 章介の淋しげな表情に信は面食らった。 「いや……聞きたくもないだろうと………」 「言ってほしかった……信のことは、いつも知っていたいから」 「君たち、実はデキてないよね?」 一樹が耳たぶを擦りつつ茶化したが、信と章介は華麗に無視した。 「心配かけたくない、というのはわかる……気を遣ってくれてるのもわかる………でもひとりで抱え込まないでほしいんだ……弱さも脆さも曝け出し合ってこそ、仲間だろう? もちろん、言いたくないことを無理に言う必要はないが………」 「ごめん………正直言うと、小岩さまはニガテなんだ。優しくて粋な上客って捉えられている向きがあるが、何というか……ウッカリしていると身ぐるみ剥がされる感じなんだ……自分のこと、喋らされるっていうか………」 「……そうか」 続きを言おうかどうか迷った末に、信はためらいがちに口を開いた。 「………あっちの方″も、ものすごく疲れるんだ……うまいから、余計………」 「わかるー」 一樹が能天気に頷いた。 「イタイのはヤだけど、どっちかってーとヘタな客のがいいよな。で、早漏ならサイコー」 「一樹、下品だぞ」 信が窘めると、一樹は口をとがらせた。 「何だよ、お高く止まっちゃってさ……内心そー思ってるくせに」 「思っていることを口に出すかどうかはまた別問題だ。品のないことばを使うと自分の品性まで失われるぞ」 「い―よべつに。そーゆー路線で売ってないし」 「まったく……」 「フフッ、本当にふたりは…………信が本心を打ち明けてくれたから、おれも、それに倣おうと思う」 信と一樹は示し合わせたかのようにすばやく章介の方を向いた。 「………正直、怖いし気持ち悪いし、どうにかなってしまいそうだ……食欲もないし眠れない」 「章介………」 「章………」 「でも、ふたりのときほどではない。なぜかな。………がんばるよ」 「おれたちがついてるから、な?………這い上がってこいよ」 「だいじょうぶだ。私でさえこなせたのだからな」 「ありがとう………」 翌々日、章介は水揚げされた。翌日の夜は一緒に眠った。 章介は寝入るまで信に抱きついて苦しげに息をしていたが、その後は静かになった。 やがてふたりは一緒に張り見世に出るようになった。 「声をかけられないようにするコツはだな」 初日、信は格子に向かいながら小声で言った。 「まず後ろの端に座ることが第一だ。それからなるべくうつむいて相手と目を合わせないようにして、笑わない。髪もボサボサにする。更に、万一何か話しかけられたら、病気持ちであることを臭わせる。手に描いた紅斑をチラッと見せたり」 そういって信は袖をするっと引き上げ、先程手首の部分に描いた″湿疹を見せた。 「咳してみせたり、具合悪そうにしてみせたりな。こうしていればまず一日ふたりは超えない。ラッキーな日はゼロだ」 「なるほど。勉強になる」 「それから、文庫だったら読んでても結構バレない」 そう言って信は懐に隠し持っていた本をチラッと見せた。 「ほう」 「ちょっと髪が綺麗すぎるな」 信は手を伸ばし、相手の髪をぐしゃっと崩した。 「よし。―――化粧はもうちょっと濃く。ファンデーションを厚塗りして顔色を悪く見せるようにして、シミを描くんだ。それは明日教える。さ、行こうか」 「信」 突然足を止めた章介に何ごとかと振り返ると、驚くことに相手は笑みを浮かべていた。 「ありがとう」 信は笑顔になって頷き、相手と共に歩き出した。 ~United we stand, divided we fall. 団結すれば生き残れるが、分裂すれば滅びる~ 完
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