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少し技術的な点を見ていきましょうか。まず気付くのは、この詩が非常に倫理的であるということです。「倫理的」とは、人がなすべきことを多く告知したり、人の間違いを非難したり、そういうことです。つまり、人が従うべき規範を提示して、それに反してはならないと命令し、それに反した場合はその違反を告発するということです。「われわれは殺さなければならない」という規範(ルール)の定立。「見よ」「聴け」「記憶せよ」という命令。一方で、「われわれは暗殺した」というような罪の告発もあります。倫理的であるということは、読者に対して攻撃的であるということです。読者に命令したり読者を非難したりするということです。つまり、この詩は読者に対する働きかけが非常に強い。読者の身を正したり、読者に反省を強いたり、読者の心を引き締めたりします。ところで詩というものは、多くの場合読者の感情への何らかの働きかけをするもので、読者の感情を揺り動かす抒情性が、多くの詩の存在条件となっています。ところが、田村の読者の感情を動かす仕方は特異なのです。それは単純に、読者を感動させたり読者に甘い感情を抱かせたり読者を戦慄させたり、そういう感情の動かし方をするのではなく、むしろ読者の感情を引き締め、読者の感情を純粋なものとし、さらには感情を超えて読者に意志すら抱かせます。つまり、「詩を書くためには何かを犠牲にしなければ」という意志です。倫理的であるということは、ありがちな抒情を生み出すことではなく、読者の感情を引き締めたりという特殊な抒情を生み出すことであり、それにとどまらず読者に意志すら抱かせるということでもあるわけです。 それを踏まえた上で内容面に立ちかえりましょう。田村は、一方で、詩を作るためには愛するものを殺さなければならない、という規範を示しています。他方で「一羽の小鳥のふるえる舌がほしいばかりに、/四千の夜と四千の日の逆光線を/われわれは射殺した」と語り、詩を書く欲望のために愛するものを殺した、その詩人の罪を非難しています。「小鳥のふるえる舌がほしい」とは、結局詩を書きたいということの喩えでしょう。これを見ると、田村は倫理的態度においても分裂し、ジレンマに直面していたことが分かります。詩を書くためには殺せ、と能動的に命令する一方、詩を書くためにはしぶしぶ殺さなければならないのだ、と受動的に世界に屈服しています。そして、殺すことは結局詩を書く欲望に駆られてのことであり、それは罪なのだ、と能動的に断罪する一方、自らもその罪を犯したのだ、と受動的に懺悔もしています。結局田村は、詩を書くということがそれほどまでに倫理的なことであり、そしてその倫理性は複雑なジレンマの渦中にあるということを示しています。そして、そのジレンマを問題として読者、特に詩人に投げかけることが、結局はこの詩が最も成功裏になしえていることであるのでしょう。 さらにもう一つ技術的な話として、この詩が定型と音楽性を備えていることを挙げる必要があると思います。まず、音楽の構成要素は原則的に楽音と呼ばれるものです。楽音とは、音の高さが明確に分かる音のことで、音の高さが良く分からない噪音と区別されます。噪音とは、自然に起こる雑音のようなものです。初期の田村の詩には、楽音に対応するような単語が好んで使われています。逆に言うと、噪音に対応するような固有名や生活語が排されているのです。固有名はあまりにも強く対象と結びついているので、対象の雑多なあり方まで詩の中に持ち込んでくるので、音楽で言ったら雑音に対応するようなものです。例えば、「岩手」というと、あの岩手県と直接に結び付き、岩手の風物やら歴史やら文化やらあらゆる雑多なものが詩の中に舞い込んできます。そして生活語はあまりにも読者の雑多な実体験と結びつきすぎて、これも雑音になります。例えば、「シャンプー」と言うと、あまりにも読者の生活と密接につながり過ぎて、生活の生々しさや煩わしさや、シャンプーにまつわる様々な雑多な実体験を呼び起こします。それに対して、「小鳥」という言葉のなんという抽象性。どんな特定の小鳥とも結びつかないゆえに、対象の生の雑多なあり方を詩の中に持ち込まず、ただ観念的に小鳥の抽象的で普遍的な性質を指し示すのみです。初期の田村の詩には、このような抽象的で観念的で、音楽を構成できる楽音に対応するような単語が好んで用いられているのです。だから、まず、構成要素の次元で、田村の詩語は、楽音に対応し、そもそも音楽を可能にします。 次に定型の問題。「見よ、/四千の日と夜の空から/一羽の小鳥のふるえる舌がほしいばかりに、/四千の夜と四千の日の逆光線を/われわれは射殺した」第二連のこの構造は、第三連、第四連でも繰り返されています。「聴け・・・暗殺した」「記憶せよ・・・毒殺した」、ここでは、同じ構造の繰り返しにより、その構造が一つのメロディーを明確に形成し、さらに「見よ」「聴け」「記憶せよ」にアクセントが置かれることで明確なリズムが形成されています。もちろんどんな文章にでもメロディーやリズムを読み取ることは可能ですが、同じ構造、同じ型の繰り返しは、繰り返しにより強いリズム感を生み、また繰り返されることでその構造のメロディーが強調されます。定型はメロディーやリズムを明確な形で生み出すのです。 だから、田村の詩は、そもそも音楽を構成することのできる抽象的な語によって構成され、さらに定型を持ち込むことによりメロディーとリズムを顕在化させていて、まさに音楽を奏でていると言っていいでしょう。田村の詩を読んだときの心地よさは、まさに音楽を聴いたときの心地よさと似ているのです。
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