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ところで、田村は詩において多くの思想を語った詩人であります。特に詩や詩人についての思想を、詩の中で多く語っているのが特徴的です。「四千の日と夜」は、その意味でも田村の詩の特徴が見えやすい詩です。詩を書くこと、詩人のなすべきことについて書いているのですから。ところが、初めに言ったように、ここで語られる思想は難解です。理解するためには解釈が必要で、その解釈も絶対に正しいとは言い切れません。僕は、この詩の思想の解釈として、詩を書くためには、戦後の発展を殺し戦争の記憶に回帰すると同時に、戦後の記憶への執着も殺し前進することが必要だ、という解釈を提示しましたが、これが正しいという決定的な根拠はありません。 このような思想、つまり、何か思想を語っていそうだが、当の思想をよく理解しようとすると肩透かしを食わせられて、結局思想の真の意味が良く分からない、そういう思想のことを「擬思想」と呼びましょう。まがい物の思想、という意味です。なぜそう呼ぶかというと、思想というものは、本来論理的で説得的で体系的で明快でなければならないからです。論理性などを備えていないけれど思想の外観だけは備えている、そういう記述のことを「擬思想」と呼びましょう。 思想を詩で書くためには、擬思想にならざるを得ないと思います。本当の思想を書いてしまったら、つまり、論理性・説得性・体系性・明確性をそなえてしまったら、それはもはや論文であり詩ではなくなってしまうからです。そして、詩というものは反省や熟考を重ねて整合的な体系を備えるようなものではありません。むしろ、詩というものは、人間の脳裏をよぎる刹那的な思想や感情や認識などを、その原初的で揺らぎを含みいささか極端である、そのままの状態で写し取るものです。言葉がない状態から言葉が発生する状態への動的な移動、言葉が様々な不確定な要素を含んで混沌としているその原初的な状態を写し取るのが詩であるわけです。だとしたら、そこで現れてくる思想というものも、体系性などを備えた本物の思想になるわけがありません。思想の萌芽、つまり、まだ十分整備されていず、思いつきの熱がさめやらない、いささか極端で多義的である、そういう擬思想こそが、まさに思想が詩の中に現れるときの正しい在り方なのです。 そして、田村の気質が、擬思想によく合っていた。著書『若い荒地』を読むと分かると思いますが、田村の散文は飄々としていて軽妙であり、逆に言えばとても浅いです。優れた批評意識や、物語をちゃんと構成する意識、物事を熟考する意識などは乏しかった人です。また、田村はお酒が好きで、お金を借りても返さない人だったようです。生島治郎によると、田村は、早川書房の編集長をやっているときでも、いつも酒気を帯びて出勤し、ただ編集室の奥の三畳間で横になっていたばかりだったそうです。「おい、そんなに仕事をしすぎるとオテント様のバチが当たるぜェ」などと言っていたそうです。(「酔っ払い編集長〜田村隆一氏のユーモア」より)。つまり、田村は社会に対する責任意識というのが薄かったのです。その責任意識の薄さが、詩にも反映されていて、熟考しない思想、体系のない思想、不明確な思想、というものを可能にしたのだと思います。責任意識が強ければ、思想を語る以上擬思想であってはならず、本当に論理性や整合性を持つ明確な思想を語らなければと思いがちだと思います。 とりあえず第一冊目はここまで。ぜひ現代詩文庫『田村隆一詩集』を手にとってお読みになることをお勧めします。
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