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栗の木 そのとき ジョージ・オーエルの『一九八四年』を読んだばかりの彼女が云った 「お店の名前は栗の木がいいわ」 ぼくはグレアム・グリーンのスパイ小説『密使』に夢中になっていた 「いやD(デイ)がいいよ 反革命と戦うために 石炭を買いにイギリスへ渡る 『ローランの歌』の研究家Dがいいな」 ちいさな論争のあげく DからDAY(デイ)ということになった DAYは銀座裏の酒場(バー)の名前である 小説の題名でもなければ 孤独な中年男の頭文字(イニシアル)でもない 「そのとき」から七年たった むろん、彼女もDAYもぼくの夢から消えてしまっている 四十歳の夢にあらわれるのは 一本の栗の木 十月の栗の実 あの 六月の栗の花の匂いだ この詩「栗の木」が収められている『緑の思想』という詩集は、1967年、田村が44歳のときに出版されています。『田村隆一詩集』で取り上げた「四千の日と夜」が収められている『四千の日と夜』という処女詩集は、1956年、田村が33歳のときに出版されています。その間、1962年、39歳のとき、翌年高村光太郎賞を受賞することとなる『言葉のない世界』という詩集を出しています。『言葉のない世界』は『田村隆一詩集』に所収されているのですが、重要なので、ここで同詩集のタイトルともなった「言葉のない世界」の部分を引用します。 2 言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかって 真昼の球体を 正午の詩を おれは垂直的人間 おれは水平的人間にとどまるわけにはいかない 「垂直的人間」とは何でしょうか。あるいはそれと対比されている「水平的人間」とは。これも擬思想、つまりまがい物の思想であり、多様な解釈を許すと思います。ですが、「垂直的人間」というとき、その「人間」は第一次的には「詩人」であると思います。だから、田村は第一次的には「垂直的詩人」であったわけです。あるいは、「垂直的人間」とは第一次的には「詩人」のことを指していたと考えることも可能です。そうすると、田村の作品の中から垂直性を読み取るのが無難ではないかと思われます。 垂直であるということは、まずは、水平的なものの流れをせき止めるということです。水が水平に流れている水路に垂直に板を差しこみ流れを止める。つまり、垂直ということは一つの停止であると同時に、その停止の際の衝突から物事が上昇していく、新たな発展を見せていく、そういうことです。水路の水は板でせき止められたとき、それでも流れようと垂直に盛り上がっていくはずです。垂直ということは、何らかの障害を設定することにより、その障害とぶつかるものを運動させ発展させることだと思います。 さて、では田村の詩の垂直性はどのような点にあったのか。まず、「四千の日と夜」にあったような、倫理性。それは「水平的人間にとどまるわけにはいかない」という倫理性にも表れています。つまり、水平的人間であってはならないという規範、つまり水平的に流れてしまうことに対する障害、を設定し、それを自己にも他者にも向ける。この規範こそが垂直性なのです。そのことによって、水平的に流れてしまう態度を絶えず反省し、垂直へ向かうように田村自ら運動を続け、他者にも運動を続けさせる。 次に、田村の詩に頻出する矛盾。「言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかって」これは一見矛盾するように思われます。あくまで言葉を使っている以上常に言葉は存在するのであって、それによって言葉の存在しない世界を発見することは不可能なのではないか。読者はこのような矛盾に直面し、判断停止・宙吊り(エポケー)の状態に置かれます。この矛盾こそが垂直性なのです。読者は、言葉を使うからこそ、その言葉で覆えないものが見えてくるのだ、そして言葉で覆えないものはただ感覚され発見されるにすぎないのだ、例えばそういう解釈に導かれます。矛盾、つまり垂直性を詩の中に提示することによって、読者の水平的な読詩の流れを遮断し、読者に解釈や反省を強いる。 さらに、詩の異化作用。「異化」とは、日常的なものを日常的ならざるあり方で再提示することです。異化こそが文学の本質だと論じていた学派(ロシア・フォルマリズム)もありました。異化とは暴力の行使でもあります。つまり、水平的に何のつまずきもなく滑らかに流れていく日常的な言葉のやりとりを破壊し、中断させ、異様な言葉を生み出すことで言葉の受け手に衝撃を与えます。「真昼の球体を 正午の詩を」この部分は、まさに詩の異化作用が如実に表れている部分です。日常的な言葉のやりとりで「真昼の球体」などという言葉はまず出てきません。真昼に何か充実するものを感じる、真昼に何かまとまっていくものを感じる、そしてその充実するもの・まとまっていくものは、なんとなく球体のようななめらかさ・完全さを備えている、そんな感覚を異化することによって「真昼の球体」という詩句は出て来たのです。この異化作用も垂直性だと思われます。 さて、「栗の木」をもう一度読み返してみてください。ここには、倫理性も、矛盾も、異化作用もほとんどないことに気づくでしょう。つまり、田村はバーの成立の経緯を何の障害もなく、つまり垂直性に直面せずに、ただ漫然と思い出し、また、現在の日常的感覚を、これまた何ら垂直性に直面することもなく漫然と語っています。「栗の木は」その意味で極めて水平的な詩なのです。中期から後期に向かっていくにしたがい、田村の詩にはこのような水平性がどんどん現れていきます。佐々木幹郎は、「肉眼へ向かう感性の反乱」という対談の中で以下のように語っています。 「腐敗性物質」までは、水平的な資質にもかかわらず、垂直的な人間への憧れがあふれている。垂直にまっすぐ立つためには、骨格を持たなくてはいけないから、骨格を持った人間にあこがれるということですね。『緑の思想』(一九六七)以降は、骨格をなくした「クラゲ」になろうとしたという感じがするわけね。クラゲになると水平も垂直もありはしない(笑)。 僕の言葉でいえば、「骨格」とは倫理性であり矛盾であり異化しようとする意志であるわけですが、いずれにせよ、中期以降の田村においては、垂直とか水平とかそういう契機が混ざり合っていて、混沌としていきます。
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