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青い十字架 ゴルコンダというインドのワインを飲んで そのワインは赤だったから その刺激的なタンニンの味が ぼくらの舌を形づくり 太陽と葡萄の結晶物 不定形で流動的な結晶物は やがて咽喉部の暗い通路を まがりくねって降りて行くと (中略) ぼくらの心は インドのワインで燃えていたから創造的な芸術家 つまり批評家も立ち聞きしてくれない泥棒になるよりほかになかった インドの星を瞶めているうちに 青いサファイアの十字架を狙って 神父に化けた大泥棒 その正体を見破ったカトリックの坊さんが云ったっけ――「あんたは理性を攻撃したではありませんか。それはよこしまな神学でな」 太陽がのぼり 青い十字架は消滅する 内なる芸術家も批評家も行方不明になって ぼくと青年は 神々と動物と性とがはげしく呼吸しあい 空に向かって歓声をあげながら墜落して行く高塔寺院の方へ この詩は、1976年、田村が53歳のときに刊行した詩集『死語』に収められています。処女詩集を刊行してから20年。『四千の日と夜』では極めて垂直的だった田村がだいぶ水平的になっていることが分かります。「ゴルコンダ」という固有名の使用。「ワイン」という生活語の使用。田村は、音楽的で倫理的で矛盾をたくさん抱えた初期の詩編の境地には耐えられなくなった。 やはりそれは、私としても現実的な手がかりがどうしても必要なんで、それがなくてはちょっともたないですよ。その意味で、たとえば『四千の日と夜』のようなやり方だけでいったら、とても生命がもたないですね。外的なものをもつということは、だから一つのぼくの健康法だろうと思うんですけど、それはしかし、ただ易きについたわけではないんですよ。現実的な手がかりを得ることによって、もっと違う深みが見つかるのじゃないかというようにぼくは思ったわけです。 「恐怖・不安・ユーモア」より。現実というものは、何よりも一番存在することが確かなものです。そこには家族もいれば友人もいれば住居もあれば生活もある。何よりも、自分自身のありのままの姿がある。その現実の手触りはとても温かい。現実と触れていることは、あらゆる生活の事物と無意識的・意識的な結合関係に立つということであり、人間を安らかにします。現実的な手がかりというものを語ろうとするとき、どうしても必要なのが、現実に存在する人や土地の名前、つまり固有名であり、実際に生きるときに用いる様々な道具の名前、つまり生活語であるわけです。でも、中期以降、田村が現実へと向かってもなお失われなかったモチーフがありました。それが「恐怖」のモチーフです。少し田村の「恐怖」についての考えを聴いてみましょう。同じく「恐怖・不安・ユーモア」より。 自分には確かに恐怖というものが一貫して大きな動機になっています。いわゆる現代的な詩人の詩というのは、恐怖よりむしろ不安、不安というものが大きなモチーフになっているわけですよ。その原動力になるものはというと、欲望なんです。欲望がなかったら不安とか不平不満とかいうものは生れないですからね。 そして、欲望を軸にすると状況に依存した相対的な怒りしか生じない。だが、状況に依存しない絶対的な怒りも必要なのではないか。不安を軸にすると敵が見える。だが、そのようにして敵を存在させるのではなく、「人間の存在そのものに対する本質的な恐怖」が必要だ。不安と恐怖が交わったところで詩がかければ立派な詩が生れる。そんなことも言っています。 ここに見てとれるのも田村の水平性と垂直性の交わりです。欲望を抱くことは、状況に対抗することであり、垂直的なことです。ですが、田村は欲望を抱くなと言う。これは状況に対して受動的であり、水平的なことです。ところが、欲望を抱くことは垂直的でありながら、絶えず状況という水平的なものにからみ取られ、水平的なものに脅かされ続け、不安を感じるということです。それに対して、欲望を抱かず、不安を感じないということは、状況という浅い水平的なものに依存せずに、より根源的な水平性、すなわち人間の本質というものに鋭く刺激され、そこから恐怖という垂直的なものを生み出すということです。状況という水平性は浅く、状況から脅かされることで生み出される不安という垂直性も浅い。それに対して、状況などという相対的なものに翻弄されず、むしろ人間存在という絶対的な水平性に対して神経をとがらせていて、その根源から、鋭く絶対的な恐怖という垂直性を感じ取るということ。これこそが田村の一貫した倫理であり、一見状況に対して水平的・受動的でありながら、人間存在については鋭く垂直的であるという、田村の本質がここにあります。 さて、「青い十字架」を読み返してみてください。「不定形で流動的な結晶物は やがて咽喉部の暗い通路を まがりくねって降りて行くと」とあるように、不定形なものに対する恐怖、暗くて狭い通路に対する恐怖、曲がりくねることの恐怖など、この詩には恐怖が深く刻印しています。そしてこれらの恐怖は恐怖であって不安ではないのです。その都度その都度の社会状況、あるいはこの詩が書かれたもとになった体験の状況、そういうものからは独立し、純粋に根源から湧きあがってくる恐怖、それがこの詩には描かれていて、この「恐怖」のモチーフは、田村の詩においてはずっと維持されるのです。
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