メッセージの編集
お名前
タイトル
本文
いやな唄 あさ八時 ゆうべの夢が 電車のドアにすべりこみ ぼくらに歌ういやな唄 「ねむたいか おい ねむたいか 眠りたいのか たくないか」 ああいやだ おおいやだ 眠りたくても眠れない 眠れなくても眠りたい 無理なむすめ むだな麦 こすい心と凍えた恋 四角なしきたり 海のウニ ひるやすみ むかしの恋が 借金取のきもの着て ぼくらに歌ういやな唄 「忘れたか おい 忘れたか 忘れたいのか たくないか」 ああいやだ おおいやだ 忘れたくても忘れない 忘れなくても忘れたい 無理なむすめ むだな麦 こすい心と凍えた恋 四角なしきたり 海のウニ ばん六時 あしたの風が くらいやさしい手をのばし ぼくらに歌ういやな唄 「夢みたか おい 夢みたか 夢みたいのか たくないか」 ああいやだ おおいやだ 夢みたくても夢みない 夢みなくても夢みたい 無理なむすめ むだな麦 こすい心と凍えた恋 四角なしきたり 海のウニ 海のウニ! この詩では、「いやな唄」は疑問の問いかけの形をしています。「ねむたいか」「眠りたいのか たくないか」。それに対して岩田は率直な答えを返しません。「眠りたくても眠れない/眠れなくても眠りたい」のように、問いかけから上手に身をかわしながら、眠りたい欲求と眠れない現実の分裂を語っています。岩田は、自分自身が眠いとか眠りたいとかそういうストレートな答えを返しません。「いやな唄」の問いかけに対して、答えを留保するのです。 さらに、この留保の態度は、自分や人間の備えている分裂に対しても向けられています。岩田は、眠りたいという欲求と眠れないという現実、そのどちらかを選択するわけではありません。つまり、眠くて仕方ないのだが眠れなくて腹が立つ、として欲求の方に軍配を上げたり、眠いけれど眠れないのは仕方がない、として現実の方に軍配を挙げたりはしません。岩田は、自分や人間の分裂についての態度も留保します。そして、自分が分裂しているというそのことについても、それを承認したり拒否したりという態度を取らず、態度を留保しています。 さて、このような留保の姿勢は詩にとって本質的です。 張りつめた対峙の中でサディストは苛立つ。かれは対象を分析的にではなく、一挙に把握したいのだが、そうしようと焦れば焦るほどかれの対象は霧に包まれ始める。それは存在の不明瞭さから湧きあがってくる霧であるのかもしれない。(「サディストの苦悶」より) ここにおいて、「サディスト」とは詩を書く者のことです。詩を書くものは対象を一挙に把握しようとするため、逆に対象をあいまいにしかとらえられない。対象は隅々までよく見えて理解できるものではなく、不透明で、それについての判断を下しがたいものとして現れます。詩というものはそのようなサディズムによって書かれるために、対象を分析できず、対象の荒々しい存在の現場において対象の不透明さの前で屈服するのです。 だから、詩は必然的に様々な態度を留保しなければならない。例えば結論付けること。評論や論文は結論付けることに意味があります。そのことによって、対象に理解の筋道を与え、対象を透明にします。また、例えば結末をつけること。小説や戯曲はたいてい明確な結末があります。それは物語の終了であり、そこまでに語られてきたことについて一応の決着を与えるものです。ところが、詩には結論も結末もない。理解の筋道が明確に与えられることもなければ、語られた内容について決着も付けられない。岩田の詩には、そのような詩の本質が如実に表れていると言えます。 ところが、岩田も、ある一点においては留保しませんでした。 もともと詩人とは憑かれるべき存在だった。神が、自然が、霊感が、信念が、時には社会科学が、詩人というボイラーにとり憑くと、ボイラー内部の温度はどんどん上って、じきに圧縮された熱いことばが吐き出された。いわば詩人は一箇の道具であり、超越的なものの通過する道に過ぎなかったわけである。だが、現代の詩人たちは、このような巫女的な存在から、字義通りの創造者へ変貌する道程を、徐々にではあるが確実に歩んでいる。ことばによる被創造物を自由にコントロールするためには、憑かれる者であった詩人が、憑く者、積極的に対象へ乗り移るものにならなければいけない。(「演劇性について」より) 岩田が留保しなかったのは、詩を書くということ、歌うということです。詩を書くべきか書くべきでないか、歌うべきか歌うべきでないか、そのような迷いは岩田には感じられません。そのような迷いにおいて受動的に歌ってしまうのではなく、自ら積極的に、神・自然・霊感・信念・社会科学に乗り移っていき、迷うことなく歌うのです。 ところで、歌うという一点においてのみ留保せず、しかし歌うことをめぐる様々な問題について留保せざるを得ないというのは仕方のないことでしょう。サディストとして積極的に迷うことなく情熱的に歌う場合、余りにも対象を一挙にとらえようとするが故、対象は一層不透明になってしまうのです。岩田にとって詩人はサディストでしたが、サディストであるがゆえに、逆にいろんなことについて留保せざるを得なかったのです。
設定パスワード
画像ファイル
編集する
削除する
[
掲示板ナビ
]
☆無料で作成☆
[
HP
|
ブログ
|
掲示板
]
[
簡単着せ替えHP
]