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動物の受難 あおぞらのふかいところに きらきらひかるヒコーキ一機 するとサイレンがウウウウウウ 人はあわててけものをころす けものにころされないうちに なさけぶかく用心ぶかく ちょうど十八年前のはなし 熊がおやつをたべて死ぬ おやつのなかには硝酸ストリキニーネ 満腹して死ぬ さよなら よごれた水と藁束 たべて 甘えて とじこめられて それがわたしのくらしだった ライオンが朝ごはんで死ぬ 朝ごはんには硝酸ストリキニーネ 満腹して死ぬ さよなら よごれた水と藁束 たべて 甘えて とじこめられて それがわたしのくらしだった 象はなんにもたべなかった 三十日 四十日 はらぺこで死ぬ さよなら よごれた水と藁束…… 虎は晩めしをたべて死ぬ 晩めしにも硝酸ストリキニーネ 満腹して死ぬ さよなら よごれた水と…… ニシキヘビはお夜食で死ぬ お夜食には硝酸ストリキニーネ まんぷくして死ぬ さよなら よごれた…… ちょうど十八年前のはなし なさけぶかく用心ぶかく けものにころされないうちに 人はあわててけものをころす するとサイレンがウウウウウウ きらきらひかるヒコーキ一機 あおぞらのふかいところに。 言語というものは反復可能なものです。本来、物事というものは、一回限り、唯一のものであり、例えば昨日の私と今日の私は別物であるはずです。それでも、そのような違ったものさえも同じ「私」という言葉で反復してしまう。これは、それぞれの時点での私の差異を度外視した一種の暴力であります。本来なら、唯一でかけがえがなく、それぞれ異なっているはずのものを、同じ言葉で同一化してしまうのですから。言語は、ものごとの唯一性・かけがえのなさを破壊するのです。 ですが、本当にそう言い切れるでしょうか。 辞書によれば、「既視感」とは「実際は一度も経験したことがないのに、ある体験を以前にしたことがあるという感じがするような錯覚」である。(中略)さきに引いた辞書の説明を敷衍すれば、わたしたちのあらゆる体験は厳密にいえば一回きりのものである。にもかかわらず、日常的手順のなかでは体験は何度でも繰り返されるもののように見える。つまり、新しいのに新しくない体験をつねに強いられている状態、それがわたしたちの日常である、とでも言えるだろうか。(中略)既視感の定義を裏返すなら、新しくないと感じられる体験は、つねに新しいのである。(「誉むべき錯覚」より) ここで岩田は、経験もまた反復可能であることを述べています。つまり、本来は違っているはずの経験を同じ経験だと認識してしまう、人間にはそのような錯覚があるのだ、と。それが既視感です。ですが、岩田はそこで発想を逆転させます。既視感とは、かけがえのない個別の体験を同一のものとしてしまう暴力なのではなく、むしろ、同じものを新しくとらえなおすことなのだ、と考えるのです。過去の経験と現在の経験が同じように思われるけれども、実際は違う、現在の経験は新しいのだ、そのことに改めて気付かせてくれるのが既視感なわけです。 さて、岩田の詩に戻りましょうか。この詩にはリフレインが多用されています。「さよなら よごれた水と藁束」以下や、動物の死、ヒコーキの襲来と獣を殺すこと。リフレインは同じものを繰り返すことですが、まったく同じ言葉が繰り返されていても、それは実は違ったものを指していると言えましょう。それはまさに既視感と同じ理由によるもので、言語という反復可能なものは、実は同じ言葉を反復しながらも違うものを指示しているからです。そして、岩田は、リフレインにおいて言葉を微妙に変えていきます。「さよなら よごれた水と藁束/たべて 甘えて とじこめられて/それがわたしのくらしだった」これが、「さよなら よごれた水と藁束……」になり、さらに「さよなら よごれた水と……」になり、さらに「さよなら よごれた……」となります。これは明らかに同じ詩行の繰り返しなのですが、その繰り返しのごとに差異が組み込まれていっているのが分かるでしょう。言葉を少し変えていくことによって、同じ物事を違った角度からとらえなおしていく。つまり、同じで新しくないものを、リフレインすることにより、新しいものへと変えていくのです。岩田は一見同じものを退屈に繰り返しているかのようですが、実はそこでは、同じものをつねに新しい角度からとらえなおそうという彼の詩的態度がうかがえるのです。
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