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私はこの「白痴」を理解するためには、やはり「白痴」という名前の本を読んだらいいと思う。ドフトエフスキーと、坂口安吾がいるけれど、時代性、地域性を鑑みても、いや鑑みなくても、坂口安吾のほうがすてきだ。しかし戦争の中で生まれてきたなにものか、という点では、やはり鑑みてみてもいいかもしれない。安吾の「白痴」は、ツァラの「ダダ」と通底している気がする。「白痴」は戦争中の物語で、主人公はテレビ局の演出助手、芸術を志しマスコミの愚かさに嫌気がさしている青年だ。この青年がある日仕事から帰ってくると、押し入れの中に、白痴の女が隠れていた。この白痴の女は、彼の下宿の隣に住む気違いの妻で、夜中に人妻を帰すのも気が引けて、一晩泊め、それから空襲で辺り一面が焼けるまで彼はずっと白痴の女を隠して一緒に生活する。 この短編の中に、次のように書かれてある。「なまじいに人間らしい分別が、なぜ必要であろうか。白痴の心の素直さを彼自身も亦もつことが人間の恥辱であろうか。俺にもこの白痴のような心、幼い、そして素直な心が何より必要だったのだ。俺はそれをどこかへ忘れ、ただあくせくした人間共の思考の中でうすぎたなく汚れ、虚妄の影を追い、ひどく疲れていただけだ。」 この青年の心情は、「ダダは総力をあげて、いたるところで白痴の復権に努める」、「そしてみずからもますます白痴になろうと志向する」と叫んだツァラのそれと、同じではないだろうか。「なまじいに人間らしい分別が、なぜ必要であろうか。」ダダが知性を放棄したがり、あらゆるシステムを破壊しようとした根底にも、この思いがあったのではないか。
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