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そう考えると、「ダダは何も意味しない」はますます深淵な意味を持って私たちを包みだす。私は常々、この言葉が一人歩きをし、何も意味しなければ何でも良いかのように受け取られたり、反対に、何も意味していないのなら読んでも意味がないと、ツァラの詩が敬遠されたりすることを非常に残念に思っていた。果ては「Dada means nothing」は「nothing」を意味しているのか、何も意味していないのかどっちだ、などという、一見哲学的で、実はそれこそ意味不明な話題に頭を悩ませてみたり。またブルトンと比較して、「何も意味しない」というのを一つの終末的な方法論と見なし、ツァラは天才だから、何も意味しないことの向こうに世界を見ることができた、などと、問題は、そういうことではないのである。 シンプルであること。これだ。「ダダ宣言1918」に登場する力強い一節、「活発な単純さ。」まずもう、これだけである。だから、考えても無駄なのだ。考えないということが、「白痴」である。しかし「白痴」は復権されるべきなのだ。「道徳性とは、すべての人間の血管にチョコレートを注入することだ」と彼は言う。考えるだに恐ろしい、ドロドロの血液、コレステロールに充ち満ちた、緩慢な赤血球の歩み。その意味するところは、魂の死である。なんて不健康だろう。健康に生きたい。みんな健康に生きたがっている。生きるとは、健康ということだ。すこやかにあれ。 ダダイズムは、魂の健康を求めた運動であったと、私はここに言おう。否定と破壊の運動、などというから、妙な誤解が生まれたり、誤解のもとに妙なものが作られたりするのだ。そうではない。ダダイズムは健康のための運動だった。有名な「ダダ宣言1918」の締めの言葉、「自由、ダダ、ダダ、ダダ、それは痙攣する苦痛の叫喚、相互背反と、あらゆる矛盾と、グロテスクと、不条理の錯綜体、生だ。」とあるように、ダダが最終的に持ってきたもの、何を否定しても最後まで守り通したものは、「生」であった。生とは、健康であることである。血管にチョコレートは詰まっていない。血液はサラサラと軽快に流れ、筋肉は酸素を機敏に呼吸し、体は朗らかに動く。それ即ち「活発な単純さ」。これである。
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