メッセージの編集
お名前
メールアドレス
※変更する場合のみ入力
本文
だから「白痴」が重要だったのだ。「なまじいに人間らしい分別」に身を縛られ、幼く素直な心を抑圧し、社会の定めた道徳の中で疲弊し消耗してゆく。社会生活を穏便に送るためには、確かにそれは必要な苦行だ。しかし芸術にそれはいらない。むしろ社会生活が不健康なぶん、健康な呼吸を担当しているのが、芸術の領域ではないか。心臓は定期的に動かなければいけないし、指が本心に忠実になって膵臓に割り込んだら困る。だがその分、口は吸いたいものを吸い、食べたいものを食べ、朗らかに笑い、酸素を取り入れ、二酸化炭素をはき出すよう、それを担当するよう自然の神秘的な合理性により配分されたのが芸術の領域なのではないか。だから、そこでは、血管にチョコレートを詰めるような真似をしては、むしろ周りに失礼なのだ。周りが困るのである。 ツァラの生きた時代は、サロン主体の芸術から、新しい芸術へと、時代の波がちょうど動き始めた時期であった。印象派から、キュビズム、未来派。しかしどの「イズム」も、始まりは健康だったが、それが確立されてくるにつれ、次第にアカデミックに、会社員より会社員的になっていく。組織が出来上がるとは、どの分野でもそういうことだ。だからダダは短命だった。ダダは、組織を作り上げる前に自滅した。一体何を守りたいがための、この花火のような一瞬の煌めきであったか。それは、その煌めきそのものだ。魂の健康だ。おいしい空気だ。ダダは富士山頂のおいしい空気、そのものである。 おいしい空気は、缶詰になって市場に出回る。スモッグや排気ガスにまみれた都会で、おいしい空気を吸うために、人はありがたがって缶詰を買う。ツァラの詩集は、その缶詰みたいなものだ。しかしそれを消費しているだけでは、生産的でないし、買ってばかりでは、いずれお金もなくなる。だから、私たちは、自分が自分で、おいしい空気の発生装置にならなければならない。健康の自家発電である。むしろ植物のようになれたら一番いい。二酸化炭素を吸って、酸素を作り出す部分を自分の中に持っていれば、そうして作った酸素を自分で吸えるのだから、経済的だ。ツァラは言っているではないか、「誰でもがダダイストになれる」と、「人は嬉しかったり悲しかったりするように、ダダである」と。ダダはどこか遠くから私たちの生活リズムを直撃した否定と破壊の運動ではない。そうではなく、私たちのいちばんの中心にささやく魂の声、すこやかな声に人権を与え、自由に呼吸させようとしたのである。それが「白痴の復権」であろう。
設定パスワード
画像ファイル
編集する
削除する
[
掲示板ナビ
]
☆無料で作成☆
[
HP
|
ブログ
|
掲示板
]
[
簡単着せ替えHP
]