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序章 薄くけむる霧のほさきが、揺れている。 墨を散らかしながら、配列されて褐色の顔をした、 巨木の群を潜ると、 わたしは、使い古された貨幣のような森が、度々、空に向かって、 墜落するという、眩いひかりを帯びた、 大きな門に、夕暮れのように、 流れ着いた。 門の前では、多くの老婆が、朽ち果てた仏像にむかって、 滾滾と、経文を唱えている。 一度として声が合わされることがなく、 錯乱した音階が縦横をゆすり、 ずれを暗く低い空にばら撒いている。 うねるように恍惚する呟きは、途絶えることがない。 わたしは、風船のように膨れた足を癒すために、 曲折するひかりを足に絡ませて、草むらにみえる、 赤い窪みに、眼から横たわる。 それから、徐に、長い旅の記憶を攪拌して、 老婆たちの伴奏で、追想の幕をあげるのだ。 1 海原の話から始めよう。 それは、真夏であるのに、ほとんど青みのない海である。いや、その海は色を持 って いたのだろうか。どこまでも、曲線の丸みを拒否した、単調な線が、死者の心電 図の 波形のように伸びている海である。時折、線の寸断がおこり、黄色の砂を運んで いる 鳥が、群をなして、わたしの乗る船を威嚇する。わたしは、その度に、夥しい篝 火を 焚いて、浅い船底に篭り、母のぬくもりの思い出を頬張りながら、子供のように 怯え ていた。 そのとき、いつものように手をみると、必ず、父がくれたしわだらけの指がひか って いる。わたしは、熱くこみあげる眼差しで、その手のくすんだ欄干を握りしめる の だ。 線が繋がるまで。 気まぐれか。少し経って、線は太く変貌する。 一面、靄を転がしている浅瀬ができる。船は座礁して、汽笛を空に刺す。林立す る陽 炎が、立ち上がり、八月の色をした服を纏う少年たちが、永遠の端に、立ち止ま って いる、みずの流れを渇望して、わたしに櫂をあてがう。わたしは、櫂を捨てよう とす ると、少年たちは、足首を掴み、なにかを口走っている。彼らの後ろには、仏典 の文 字のような重層な垂直の壁が、見え隠れしている。わたしは、少年たちが、なに を話 ているのか、言葉がわからずに、かれらが眠るのを待って、急ぎ逃走するが、い けど も声は、遠くから聴こえて、わたしから、離れなかった。それは、なぜか、遠き 幼い 頃、聴いたことがある懐かしい声に似ていて、気がつくと、目の前を、幼いわた し が、広い浅瀬のなかで、ひとり泣いているのだ。 線が細さを取り戻すまで。 やさしい日々も思い出す。 船上でのことだ。 古いミシンだっただろうか、 わたしが、失われたみどりの山河の文字の入った布を織る。 恋人は潤んだひとみで、書いてある文字を、わたしに尋ねた。 わたしは、生涯教えないことが、愛であると思い、 織物の文字を、夜ごと飛び交う、海鳥の唾液で、 丹念に、白く消していった。 線は、さらに細くなり、風に靡いて。 老婆たちは、経文を唱えつづけている。 仏像にむかって。 眠りながら、唱えている。 門にむかって。 * **** わたしは、門を眺めながら、棘のようなこめかみを、 過ぎゆく春に流し込む。 2 そうだ。都会の話をしよう。 それは、楕円形のようにも見えたかもしれない。整然としたビルの窓が、いっせ いに 開かれていて、カーテンが静かな風に揺れている。暑い夏の眩暈のなかで、人の 姿の 全く見えない街が、情操的な佇まいを見せている白昼。街の最も中央の方から、 甘い 感傷の酒に酔った音楽が流れてくる。わたしは、寂しさと、湧きあがる思いを感 じ て、その音色を尋ねてゆくのだが、音色の下には、瓦礫の廃墟が一面、広がって いる のだ。 逆光線だけが、わたしの眼を刺して、優しく包んでくれている。 溢れる汗を浴びて、振り返ると、世界は、時計のように、着実に、冷たく、賑や かに 普段着で立っていた。 こうして、二度目の訂正された始まりから、 楕円形は色づけされながら。 わたしは、耳のなかで、立ち上がる ぬるい都会の喧騒を、眺望すれば、 やわらかい季節の湿地に、 殺伐とした抒情詩の唇がせりだしてくる。 にわかに、門は轟音をあげて、閉じる。 老婆たちの口は、唯ならぬ勢いを増して、 読経の声がもえだしている。 凍る古い運河の記憶がよぎる。逝った父は昏々と眠っている。 蒼白い炎が、門を包む。 その熱によって、 わたしの血管の彼方に滲みこんでいる春の香かに、 きつい葬列のような月が、またひとつ、浮ぶのだ。 わたしの溢れる瞳孔をとおして、 音もなく、復員はつづいている。 闇のなかに遠ざかる感傷の声が、 書架の狭間で俯瞰する鳥の声が、 沈黙してゆく門をみつめて。
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