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パルテニアスはずっと彫像を彫り続けている。梟の形をしたやつ、がっしりとした枝に喰らいつくような鉤爪と、どこか間の抜けた大きな目。僕はコーヒーが冷め過ぎる前に、彼の口に運ばれることを小さく祈っている。そんな奇跡があれば、きっとこの世界にも変化が訪れるかもしれない。そんなわけで、僕は毎日パルテニアスのためにコーヒーを淹れて、彼の作業テーブルの端っこに置いておく。 ☆ 寒い季節が終わりに近づいている、ストーブを使うのも今月一杯だろう。僕たち(僕やパルテニアスやイサーン、それにマロやミア…それ以外にもたくさんの人たち)は樹形図のように広がる細い川だらけの土地、このアイデスに住んでいる。一年の半分は冬で、深く雪が降り積もる。夏になれば魚達が日陰に逃げ込むくらいまでは熱くなるけれど、くろくま達が熱中症になるというほどのものでもない。 ☆ 川は、一番大きな流れで川幅100インチほど、小さな流れになると幅は10インチも怪しいほどになる。だから、ここで暮らすということは飛び石のスペシャリストになることとほとんど同義だと言っていい。なにせ、きみが足の裏に痛みを感じるほど歩く間に、飛び越えた川の数はきみの年齢をとうに超えている筈なのだから。(もちろん、年齢なんて概念はほとんどここでは意味がないけれど…)アイデスはそういう土地だ。 ☆ 僕とパルテニアスは、比較的幅の広い流れのほとりにログ・ハウスを建ててくらしている。三角屋根のこの建物には部屋が四つある。僕とパルテニアスのそれぞれの寝室、ベッドと机を一つずつと書架を一つ置けばスペースはほとんど残らない。そして、リビング兼パルテニアスの作業場であるこの場所。僕の身長よりも2インチほど長い作業机兼食卓テーブルが据えつけられ、簡素だが十分なキッチンから湯気が上がる。燃料は薪だが、かまどのつくりはしっかりしているので煙がこもるなんてことはない。炊きつけのためのシラカンバの樹皮もたくさん蓄えてある。 ☆ もちろん、僕をなんと呼ぶかは諸氏に委ねられている。というのも、僕にもパルテニアスにも本来的には名前はない。僕たちは(記名されぬ者)という階層に属し、名前を持つことを許されていない。ぼくたちにはこれから、はない。これまで、もない。凍死寸前の身体を引きずってここに渡って来た日、僕たちは全てを与えられ全てを剥奪された。さもなければ、この邪悪な湿地帯に家を与えられることなど出来ない。どのような建築法を用いても、この土地は許されざる家を飲み込んでしまう。実際、アイデスに許されない方法で入り込む者は稀にある。でも、そういう人間は全て地の底へ落とし込まれてしまった。 ☆ 僕たちは、家を与えられたときにお互いの渾名を決めあった。でも、何度も言う通り僕らにはこれまでも、これからもない。だから、この名前が何かを意味するなんてことは考えないで欲しい。ただ、きみたちになら意味を汲み取れる可能性はある。というのも、僕たちは全てを断ち切られているけれど、きみ達は断ち切られていないからだ。僕のことは(川鱒)と呼んで欲しい、少なくともパルテニアスは僕をそう呼ぶことに決めている。僕が彼を(パルテニアス)と呼ぶように。 ☆ 僕の仕事は書くことに他ならない。ここに来たときからずっと書き続けている日記が、僕の唯一の仕事だ。ある程度溜まると、官吏がやってきて残らずそれを持っていく。だから、僕の手元には数冊のノートがあるだけで、これまでもこれからもない。そして、この日記は読者に向けて書くように義務付けられている。パルテニアスの仕事が彫ることであるように。ここにある全てのものは、一義的な意味以上のものへは絶対に接続されない。例えば、僕は日記を書いているだけであって、それ以上の何もしていない。それが僕たちの仕事だ。それをしている限り、僕たちには暖房用の薪も鱒を釣る釣り針も、砂糖や粗く挽いた大麦も必要なだけ与えられる。日記のできが気に入られた時にはコーヒーだってもらえる。 ☆ ここにはおはようがある。こんばんはもある。はじめましても(本当に稀なことだが)ある。ただ、さよならだけがない。アイデスはそういう土地だ。そして、僕は(川鱒)に過ぎない。語るべきことは一つもないということが語るべきことなのかもしれないと、梟の彫像を彫りながらパルテニアスは言う。僕もそうかもしれない、と思う。官吏が、皮のブーツで泥を踏み散らしてやってきた、彼らの足音は常に聞き分けることが出来る。歩幅の調子が一切狂うことがないからだ。野の花にみとれることも、大鱒の身じろぎに見惚れることも、彼らには絶対にありえない。 ☆ (川鱒)という響きが僕はとても好きだ。(パルテニアス)という響きも、きっと気に入ってもらえているんだと思う。ただ、それぞれの言葉が魚の名前や、人名のようなものであること以外、僕たちには何もわからない。でも、とにかく語れといわれたのだから語り始めなければならないのだろうと思う。雪の季節の終わりはいつも心地いい、からからに乾いた靴下に足を通す時みたいな気分にもなれる。官吏さん、よければもう少しだけこれを読み返す時間をくれないか、と僕は言ってみる。どこか間違った箇所があったかもしれない。でも、ここにはこれまでやこれからのように間違いというものもありえない。パルテニアスが冷たいコーヒーを啜り、戸口に泥を残して官吏が去っていく。陽が落ちる。
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