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一人でいることに、何年も飽きなかった。シートの、海に伝わる神話を読みながら、永く暇をつぶしていた。精霊の女、の横顔の表紙。空腹の中、海に向かう道、カセットで、オペラを聴きながら、わたしは車を走らせた。食事をとる場所を探す。風が、目に当たる。細める。道の脇、女の顔が転がる。ブレーキを踏む。ハンドルを横に切る。 女の顔は白い。軋むかのような声で、鳴いている。翼を抱えて、鳥の体の女はわたしの目を見て、鳴く。光る目が、心に残る。ドアを開け、風が流れ込み、鳴く。それに近寄る。歯が白いが、鋭く、わたしのほうに転がる。わたしは屈み、抱きかかえる。 シートで、女の顔を押さえる。鳥の体は羽毛が柔らかい。片方の翼を痛め曲げている。 「ハーピーか」と、わたしの声に女は鳴く。 それは、ひとの食事を邪魔するだけの存在だが、わたしは後ろのシートから、乾いたパンを出し、カップの牛乳に浸し、与える。女は笑うような目で、わたしを見上げる。わたしの股の上で、喉を動かす。次第に、激しく、水分をふくんだパンを、くらう。髪は赤茶で、ウェーブがかかる、その線にわたしは触れる。女の体は重い。 わたしは、女と車を走らせる。風が、女を喜ばせる。笑い声がする。ただ走っているだけなのに、うれしいらしい。海が眼下に広がる。崖。ブレーキを踏む。ハンドルを静かに回す。鍵のアクセサリーの翼を、女は唇でつつく。わたしを見ては、何か言いたげに、ねえねえ、と目で話す。 どうすれば、この時間を延ばせるか、わたしは、女の頬に指をあて、撫で続ける。 雨でも降るのか、窓からの風は湿り、辺りは薄暗い。無言の時間が過ぎる。サーチライトをつける。舗装された道が続く。何年かぶりに女と話したくなる、が言葉はない。車内の沈黙に、ラジオをつける。 DJの声はなく、歌声がある。 ラジオに、女は聴き入る。女の横顔は、本の表紙の精霊に似ている。首を伸ばし、翼を拡げる。目が青く、海を思わせる。その深み、に触れたくなる。 女は歌う。白い喉が震えている。その声は、わたしを眠りに誘う。ひとに死をもたらす、セイレーン、であるかもしれない。 向こうから、ひとをおそう、女の仲間が来る、前に、わたしは、ラジオのボリュームを上げる。アクセルを踏む。女を窓から放り捨てるべきか迷う。片手で女の口をふさぐ。女が指にかみつく前に、わたしの体は眠りに傾く。 (死ぬな、これは) ハンドルを切り損ね、道の脇に落下する。 女はそこにいた。シートに、挟まれ身動きできない、わたしの胸の上でうずくまり、頭をこすりつける。頬と頬がすれあう。女は鳴いた。わたしは夜の曇った空に、女の仲間が来ていないことを知り、はぐれた者同士、そのままの姿勢で、朝まで眠ることにした。携帯電話、を持たないわたしは、誰にも連絡をとれない。遠く、で波の音だけがする。キーを回す、がエンジンは動かない。キーの、折れ曲がった銀の翼が揺れる。本を台にして、コップに水を注ぐ、暗がりの中で。二人だけの沈黙に、女はむせぶ。 女の目は濡れている。その縁を指で、たどり、こもるような声をかける。寒い暗がりの中で、わたしと女は互いの体温だけを頼る。片方の翼を、わたしは撫で続ける。 女は笑うように、目をつむる。
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