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少しずつ目蓋を上げよう。唇の形に広がっていく眼界には自室の玄関から去ろうとする女、幾人ものイメージが重なり識別することができない。色濃いものから抽出してみるか。生島先輩は再び目を閉じた。まず一人目を念じるにマスカラ、アイシャドウ、頬紅、口紅、グロスけば立つ女がなにか言った後ぷいと背を向ける。これは今しがた共に寝た人で名は藤崎なにがし、口説く前は頭頂部にまとめていた茶髪の見事な形へと惚れ込んだものだが、解いてみれば見る影なく平凡な女でガリガリと胸も小さかった。これはいけないと思った。やはりある程度のボリュームは欲しいものである。励む際の声は鶏のようだったが知性は人並みに優れており就職先には大手新聞社を希望しているものの、激しい競争を勝ち抜けるほどの才気は感じられない。生島先輩にとって重要なのは胸よりも才気だった。もう会わないだろう、と彼は思う。右膝を後ろへ曲げて指でハイヒールに踵を滑り込ませるとき下ろしたままの髪が幾房か震えてさようなら。この状況を鶏肋と言葉にしてしまうだけの才気しか生島先輩も僕も持ち合わせていないけれどもさようなら。扉が閉じる音。 叫ぶ。反応ない。一人のようである。意識はぶれて音なく、雲の中を飛行する旅客機のように不安を醸す。一瞬だけ眠りに落ちたものの空一面を巨大な狐面が旋廻する様に驚いて起きた。さて先ほど出て行った多重の女その二人目を引っ張り出してみよう。なぜそんなことをしなければならないのかは漠然と、明瞭でなく、分かっている。一五〇センチもないだろう小柄な輪郭、よく着ていた赤いカーディガン、厚い唇とくりっとした大きな目が浮かんでくる。髪型は複数が例によって半透明に重なった状態、前髪を下ろした直毛と、デジタルパーマで緩やかにウェーブさせた茶髪と、金髪のボブ。演劇サークル「輪大弧」に所属しており、公演も二回ほど観たことがある。将来的に俳優で食べていきたい彼女、田原恵との交際は一年ちょっと、「輪大弧」で脚本を書いていた友人、谷口からの紹介で知り合った。そしてふられた、というか彼女が谷口と二股していたことが判明し問い詰めたところ逆上された。あまりの剣幕に生島先輩は恨みを忘れた。過呼吸にて聞き取り不明の叫びを発しながら一升瓶を振り回す阿修羅様とどのようにコミュニケーションを取ったものかという問題で、判断を誤れば殺されていた。殺されていたらば僕もRからせっつかれることなく、この文章も書かず、世の快楽を安穏と享受できるのだが結果はご覧のとおり。恵は必ず右手を壁について靴を履く。左手でノブを捻る。扉が閉じる。 よかった。忘れちゃったかと思った。 午前十時、正午にS駅で待ち合わせ。眠る時間も起き上がる意欲もない。三人目になるとかなり透けて扉の暗緑さえ見える。青い生地にラベンダーがうっすらと重なったキャミソール、鼻をつく香水、アナスイだかキクスイだか要領を得ない情報が想起される。肝心の顔かたちが判然としない。会ったのが一回だけなので当然といえば当然か。その商売女の名は覚えていない。名刺も捨ててしまった。欠勤日とメールアドレスが確か記されていたような気がする。初対面の人にメアドとか珍しいんだよ? 知ったことではないし実際に知ったことでなくなってしまった女を買ったのはこれが最初で今のところは最後である。確かオプションでAFが一万円、さらに内緒の出血大サービスを持ちかけられたのだが一年と半年を経た現在となってはやったかどうか定かでない。わき腹の丸いかさぶたを手のひらで時折やんわり覆っていた。その肌の冷たさといったら傷が思わず錆に見えるほどで、無機物を愛すのにためらいを感じる人種の生島先輩は遊戯に熱中できなかったみたいだ。射精産業はセックスではない。さて件の女は白から小麦へ色がプリズムみたいに変化する肌とキャミソールを不器用に動かしてサンダルを履く。ノブに右手を掛け振り返り忘れないでねと言う。そして微笑む。顔がない。緑して。扉が。 アビヤント。アビヤント。それから? 青空の下。お祭り中の神社へ石階段を上ると、鳥居の下に女がいる。赤い生地に梅の花を散りばめた振袖、帯は紫の抽象文様、両のまなじりから紅が二本、唇の端まで走り、白粉を施した頬と対照的に光を放つ。椎名。生島先輩は声をかけようとして、やめる。乾いた轟音が耳を突く。射的に実弾を使っているらしい。なにを話せばいい。祝祭の日に昔を語る愚行など椎名は許可しないはずだ。虚ろに塗りつぶされた瞳がこちらを捉える。まぶたは見開かれても二重の線を残し、少し困ったような印象を与える。生島先輩は吸われるように寄る。間近で見る二年三ヶ月ぶりの彼女は怖気が立つほど美しかった。相変わらずか否か、生島先輩にはわからない。しばしの沈黙、胃の反転するような感覚に耐えられなくなった彼はなんでも構わないので挨拶しようとする。どもる。椎名のおどけたような表情、生まれつき顔面に張り付いた悲しみを隠しきれていないような脆さが懐かしく、生島先輩は次に発する言いを変わったのは顔だけかよにしようと決める。右手を軽く上げた椎名から、はじめまして。 艶やかな香りがした。奥の広場では真っ裸の子らが男女、輪になって歌い踊る。再度の乾いた爆発音と共に一人の女児が砕け散る。敷地を囲む木々が知らぬ間に密生しており空を覆わんと葉を広げていく。椎名は浮かせたままの手で円を描き、その中心をこちらへ向けて貫く。どこへ連れて行ってくれるの、天狗さん。 顔に手を当ててみると鼻が伸びてやたら硬い。面を被っていたようだ。外す。風が頬を冷やしきれない。椎名が面と素顔を交互に見やる。おれだよ、おれ。声、出ない。眉根に寄せた皺も麗しい。誰。 壁掛け時計の針が午前十一時四十分を指している。ユニットバスへ向かうために立ち上がる。玄関では、殆ど透けてしまって存在感のない、赤い振袖を着た影が座って草履を履いている。生島先輩は洗面台へ入る。ああ、無理。部屋へ戻り携帯電話を開く。ごめん、五分くらい遅れるわ。扉。
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