吉田群青 短編集


手に入れることと、失うこと。




日曜日
キチンで
冷たいバタがトーストに染み込むのを見ていた
僕はまだ
ひどく幸福だった

1、

その日の夜
僕は愛する人に小さな嘘をついた
邪気のない小さな嘘である
ほんの少しだけ
独りになりたかっただけである
それなのに
風が吹くようにして
彼女は去っていってしまった
涙も出やしない

そういうわけで僕は
愛する人の代わりに
両腕でも足りないほどの時間を手に入れた

でも こんなつもりじゃなかったのに

2、

時間をリュックに入るだけ詰めて
丁度百歩歩いたところで並べた
そこはビジネス街で
僕は突然降り立った異星人のようだった
それでも
時間が足りない人は沢山いるようで
僕の時間は瞬く間に売り切れた

それで何度か自宅に時間を取りに行き
日暮れ
ついに手に入れた時間をすっかり売り切った

翌日から僕の一日は一時間ほどで終わるようになった
今日なんか蒸しパンを食べ終わらないうちに夜が来てしまって

そういうわけで僕は
時間の代わりに財布に入りきらないほどのお金を手に入れた

でも こんなつもりじゃなかったのに

3、

自宅のダンボールにお金を入れておいて
適当につかんで出かける日を繰り返していた
しかしろくに何も買えないままに
どんどん齢を取る
なにしろ一年が三百六十五時間だ

ケーキも食べないまま誕生日は幾度も過ぎて
そんなとき
暴徒が自宅にやってきた
僕は床に蹴倒され
ダンボール箱はすべて持ち去られた
正直 厄介な荷物が無くなってホッとしたんだ

そういうわけで僕は
お金の代わりにひどい傷を手に入れた

でも 本当は こんなつもりじゃなかったのに

4、

しばらく床に臥せっていた
気の毒に思ったのか
友人がバレエの観劇チケットを一枚くれた
起き上がれるようになってから行ってみた
バレエは僕にとっては早回しを観るようなものだったけど
得るものはあった
白鳥を踊るバレリーナをひと目見た瞬間に
僕の傷は瞬く間に癒えてしまったのだ
なんて素晴らしい
恋をしてしまった

そういうわけで僕は
ひどい傷の代わりに新しい恋を手に入れた
一日はひどく早く過ぎてゆく
お金が無いのでアパートを追い出された
それでも僕は バレリーナ 君を

路上で生活をはじめた

こんなつもりじゃなかったのに


5、

バレリーナへプレゼントを買うために
名前を売ることにした
名前は質屋で二束三文で買い叩かれたが
それでも
バラを幾輪か
それと簡単なディナーをご馳走するだけの貨幣は手に入れた

うきうきとバレリーナを誘いにゆくと
風邪をこじらせて死んだ
という
嘘だと思ったけど
本当だった
かわいい墓もちゃんとあった

こうして僕は名前を失った
あの美しいバレリーナをも



6、

雪が降ってきて寒い
路上で手をひらいて見てみた
すっかり痩せてしまっている

名前を売ったお金で
野菜の種を買った
やさしく埋めて水をやる
いずれは芽が出るだろう
そして春になる頃には小さな野菜が獲れるだろう
それを市場で売って

そしてトーストと冷たいバタを買おう

キチンでひどく幸福だった頃のように

お金が貯まったら南の島にゆこう
と思って
そうして
もう何も考えないことにした

くしゃみをして
毛布にくるまった
今夜はひどく冷える

練習しているのだろうか
どこからか聖歌が聴こえる







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