吉田群青 短編集


空き地のイーガさん


空き地に何時も居る身元不明の老人は、イーガさん、と云う名前だ。
若しかしたらイガさん、と云うのかも知れないが、イーガさん、ときちんと発音しないと怒る。
イーガさんは乞食では無い。家はちゃんとあるのだ。
それなのに態々隣町の空き地にまで毎日遠征してくるのはどうしたわけだろう。
訊いても答えては呉れない。と云うかイーガさんは少し惚けているので、質問をちゃんと把握できないのである。
「どうして空き地に何時も居るの」
と訊いても、返ってくるのは
「ウメ子はいい女だった、そう云えば」
みたいな益体も無い台詞ばかりだ。
ならばウメ子、と云うのはイーガさんの妻なのかと云えば、そうではない。
イーガさんの妻は、まつ、と云うのだ。
その辺りの錯綜した人間関係と云うか、そう云う複雑な三角関係みたいなものなら渋谷あたりに行けば幾つも転がっているので、殊更に知りたいとも思わない。

わたしの家は空き地の隣にある。
落ち込んだときにはぬいぐるみやMDなどが散乱している自分の部屋よりも、この殺風景な空き地に来た方が心落ち着く。
ある日、何時ものように深く落ち込んで、空き地の象徴とでも云うべき土管に寄りかかって煙草をふかしているときに、
「何をしておる」
と声を掛けてきたのがイーガさんだった。
「いや、別に、ちょっと」
何故か焦燥感を感じて煙を吐き出すと、イーガさんは
「貴様、もしやサイトーではないか」
と言ってきた。
わたしの名前はサイトーではなくヨシダであるが、訂正すると面倒なことになりそうだったので、
「はい、サイトーです」
と答えた。けどイーガさんはわたしに質問したことなど忘れたように、ぼんやりと空を眺めていた。
そりゃねーべ、と思った。
そのうちイーガさんとは、仲良くもないが敵対しているわけでもない、日向でまどろんでいる二匹の猫のような間柄となった。

「おれは釣りが好きでな」
イーガさんは何時もそこから話に入る。
「しかしこの辺りはあゆどころかめだかすら釣れない」
しわしわの手が指差すのは用水路である。
「イーガさん、それ川じゃなくて用水路だよ」
と訂正するのだが、イーガさんは人の話を聞かぬこと夥しい老人なので、もう次の話に入ってしまう。
「サイトー、貴様、何だか若返ったように見えるが気のせいか」

サイトー、と云うのは齋藤のことである。
イーガさんの小学校時代の友人であるらしい。一緒に戦争にも行ったらしい。
けど齋藤は、戦死した。イーガさんは年数を経て、親友が死んだことは忘れてしまった。
これは父に聞いた話だ。
「伊賀さんも可哀想な人だよな」
と父は云った。
伊賀さんじゃなくてイーガさんだよ、と訂正しようと思ったが、伊賀でもイーガでも大した差異はないと思ったのでやめた。
それより問題はわたしがサイトーと云う男性に間違えられていることだ。
確かにわたしは背が大きいし、髪もあまり長くないが、それにしても間違えるならウメ子と間違えてくれればよかったものを。

「おれは釣りが好きでな」
今日もイーガさんはそこから話を始めた。
「しかし獲物にはいつも逃げられた。サイシにも逃げられた。だが釣りとは楽しいものである」
「へえ、サイシっていう魚がいるの。珍しいね」
わたしが適当に答えると、イーガさんは顔を紅潮させて怒鳴った。
「馬鹿者、サイシとは妻と子のことに決まっておるではないかっ。まつとゼンタローのことだっ。サイトー貴様、馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、そこまで馬鹿だとは思わなんだぞっ」
珍しく人の返答を聞き取ったらしい。
それにしてもサイトーは随分な言われようでちょっと可哀想である。
「御免御免」
軽い口調で謝ってみる。だがイーガさんはそのときにはもう、人の話を聞かないモードに入ってしまっていた。濁った斜視気味の眼を、空に向けて黙っている。
こういう人っているよな、と思った。小学校のとき、いたよな、クラスに一人は。
そう思いながらわたしも黙る。

ウメ子の謎が解けた。
ウメ子はサイトーの婚約者で、イーガさんが横恋慕をして奪ってしまった女性のことらしい。
そのウメ子が原因でまつに逃げられたらしい。つまり、不倫である。
ある日イーガさんがぽつりと言ったのだ。
「サイトー、おれを許してくれるか」
何時になく弱々しい口調だったのでイーガさんを振り向くと、イーガさんは眼をうるませていた。
「おれはあんなつもりじゃなかったのだ。人の婚約者をとる考えなど毛ほども無かった。だが、ウメ子とて思わせぶりな態度をとったのだ。つい魔がさしたのである。貴様はあのあと結婚したのか。それともウメ子を忘れられずに独身でいたのか。どうだ」
どうだ、と言われてもわたしはヨシダだからサイトーの人生など全く知らない。
黙っているとイーガさんは、がば、と抱きついてきた。
「済まなかったサイトー」
とか言っている。
掛けるべき言葉を思いつかなかったので背中をぽんぽん叩いて、
「いいよいいよ」
と言ってみた。
体を離したイーガさんは怪訝そうな顔をして言った。
「サイトー貴様、おなごのように柔らかいが、どうしたことだ」

そのうちわたしは空き地には行かないようになった。
イーガさんが厭になったわけではない。恋人が出来たのである。
つまらないことで落ち込んで、煙草をふかしながらイーガさんと並んで言葉を交わす生活から、うきうきお洒落をして、空き地の前を素通りし、恋人の元へ走るような、そんな生活に変わってしまったのである。
最後にイーガさんに会ったのは年末だった。
久しぶりに空き地で煙草をふかしていると、イーガさんがぶらりとやってきたのである。
「イーガさん、久しぶり」
と言ってみるとイーガさんは未知の生物を見るような眼をして、
「どちらさまですか」
と答えた。

イーガさんは伊賀さん、と云うごく普通の老人になってしまったような感じがした。
と同時にサイトーもウメ子もまつも、みんな架空の登場人物だったように思えた。
わたしは「イーガさん」という題名の物語の中に、ほんの少しだけ登場した脇役だったのかも知れない。

「いえ、人違いでした」
少しだけわたしは悲しそうな顔をしたと思う。
イーガさんは一瞬だけ、わたしを見つめると、何時ものように視線を宙に彷徨わせた。

空き地から立ち去り際、わたしはイーガさんにもう一度声を掛けてみた。
「あのわたし、吉田と云います。」
イーガさんはゆっくり頭をめぐらし、吐息を漏らすような音を立てて
「よしださん、ごきげんよう」
と言ってかすかに頭を下げた。

家に戻る途中、着信音が鳴り響いた。
液晶を確認すると恋人からだった。
「はい、サイトーです」
そう言って出てみようかと思いながら、わたしは携帯をぱちんと開く。



[編集]
[前ページ][次ページ]
返信する

[戻る]













[掲示板ナビ]
☆無料で作成☆
[HP|ブログ|掲示板]
[簡単着せ替えHP]