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 It's easy to make miracle
© 流風 
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日本の夏特有の湿った空気が吹き抜けるホームを、俺は大勢の人の波に流される様に歩いていた。
所謂通勤ラッシュが、僅かに鳴りを潜め始めた時間帯のことだ。
自分と同じ制服がいくつも連なる階段付近を避けて、いくらかは人の少なめな前方の方を目指す。
到着アナウンスが流れ始めたのを合図に、俺は前から三両目に当たる所の黄色いラインを跨いだ。
昨日の野球の結果は、と何とはなしに前に立つサラリーマンの肩越しにスポーツ紙を覗き込めば、再度注意を促す放送が流れる。
突風の様な一瞬の風を起こし轟音を立てて構内に進入した電車は、微妙に位置を外して停車した。
ドアが開いた瞬間、足下に流れ出てくる冷気が肌に心地よく、早く中に入りたいと気分を急かす。
いくつか空いている席が目に入ったが腰掛ける事はしなかった。
ドア付近の吊革に掴まって、目の前のポスターや、大して役にも立たない情報を延々と流し続けている液晶画面をぼんやり眺める。
そうして二駅を通り過ぎた後、俺は持っていた鞄(筆箱しか入っていないから大して重くない)を網棚に乗せ、電車が停まり掛けているホームに視線を走らせた。
ドアが開き乗客が乗り込んでくるその瞬間、見知った顔を見つけ俺は内心でガッツポーズをする。
ポケットに手を突っ込みiPodの音量を最小に下げてから、何事もなかったかの様に吊革を掴んだ。
ぞろぞろと列を成して乗り込む乗客達、視線を下げれば私立校の制服を着た小学生の姿もある。
奥へ進もうとする人波に押し流されないよう足を踏ん張りながら、横目に彼の秀麗な横顔が映る。
肩まである黒髪を一つに結っている彼は、時折長めの前髪を気にしながら窓の外を眺めていた。
彼は決まっていつもこの時間帯、この車両に乗り込んでくる。
二、三週間前に彼をたまたま見かけて以来、俺は彼と同じ車両に乗りたいがために遅刻ギリギリの時間に電車に乗るようになった。
元々口うるさかった担任教師が前にも増してやかましくなったが、そんなことは知った事じゃない。
俺は将来役に立つかどうかも分からない退屈な授業なんかより、この目の前に確かにある存在とか感情とかに一途でありたいのだ。
静かに速度を下げて次の駅に滑り込んだ車両は、数人の乗客を吐き出してから再び動き始めた。
あと一駅で、この朝のささやかな逢瀬も終わりを告げてしまう。
だが今日の俺の胸には、今までとは違う確かな決意があった。
iPodが入っている方とは逆のポケットを、確かめる様に探る。
指先に当たる生徒手帳の感触に、俺は安堵の溜息を付いた。
何度もそれがそこにある事は確認をしている筈なのだが、俺は落ち着かずに何度もポケットに手を突っ込んではその滑らかな革の感触を指先で味わっていた。
さすがにこう頻繁にポケットを探っていては怪しく見えるかもしれない、そう思って俺はさりげなく吊革を持つ手を入れ替えてから、チラリと彼の横顔を窺った。
彼が瞬きをする度、黒々とした長い睫毛がふるりと揺れる。
表情からも余程眠いと見える、こんなに不躾な視線を送っているにも拘らず彼は気付く気配もない。
ついに眠気に負け、涼やかな目元でその双眸がゆっくり閉じられるのを見届ける前に、ガタンと大きな音と同時に強い衝撃が走った。
俺は反射的に吊革に強く掴まったお陰で何ともなかったが、彼は眠りかけていたのもあり衝撃に耐え切れず大きくバランスを崩した。
とん、と軽い重みを乗せ俺の胸に飛び込んできた彼は、一瞬何が起きたのか分からない顔をしたが、状況に気付きすぐ俺から離れた。

「すみません、」
「いえ、」

微かに頬を染めて俯きがちに謝ってくる彼に、俺は気の利いた返事の一つすら満足に出来ず、すぐに会話は打ち切られてしまった。
いくらか冷静さを取り戻した俺の耳に、車内アナウンスが入る。
それによればどうやら人身事故による急停車のようだった。
だがそんな事はどうでも良い。
なによりその時の俺にとって重要だったのは、鎖骨の辺りに残っている彼の唇の感触だったのだ。
彼と俺との身長差を考えてみても、まず間違いないと思う。
何より彼が、さっきからその指で唇の辺りを何度も気遣わしげに撫でてみているのが証拠だと思う。
その仕草をじっと見つめていると、彼の方でも俺を意識していたのか、遠慮がちに視線が重なった。
気恥ずかしげな表情をしながら彼は、電車いつ動きますかね?と取り留めのないことを尋ねてくる。
これは脈ありかもしれないと確信した途端、さっきまでの緊張は何処へやら俺は戦の勝者の様に気が大きくなって、根拠のない自信までもが出てくるのだった。
暫く時間がかかるかもしれない、そう思った俺の予想とは裏腹に電車はすぐ動き出し、降りる駅まで一分と時間は掛からなかった。
良い意味で大きく期待を裏切られた今日の成果を大切に胸に仕舞いこみながら、俺はかねてから考えていた計画を実行する事にした。
ポケットにあった生徒手帳を、彼からは見えない様に手に取る。
ドアが開き人の波が出来るその一瞬の内に俺は前へ踏み出し、細心の注意を払って右手を開いた。
生徒手帳が床に落ちた音は、足音にかき消されて聞こえない。

「拾ってくれますように」

あとの俺に出来る事といえば、ただひたすら祈るのみであった。
駅員に届けられる方が可能性は大きいと言うのに、その時の俺には妙に大きな自信があったのだ。
彼は必ず、俺に渡してくれる。
きっと、そう思った俺の唇の端には、小さく笑みが浮かんでいた。


『It's easy to make miracle』
(奇跡を作る事は簡単だ)


「あの、すみません…」


END







2009/06/30
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