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 初夏の風
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「今年も来ました」

 渚は墓石に水をかけながら呟いた。日に日に暑くなってきたので持ってきた仏花もすぐに駄目になってしまうだろう。生前、あんなにたくさん仲間がいたのにここに来るのは僅かなのか、いつ来ても寂しい。線香が細く空に向かって立ち昇る。じりじりと太陽が墓石を焼き付けるかのようで、残り水でもう一度水を掛ける。お酒を備え、彼が吸っていた銘柄の煙草を咥えて火を点ける。線香に交じって昇って行く煙が彼の元に届けばいい。

 ゆらゆらと立ち昇る煙を見てももう涙の一つも零れない。

 あれから何年経ったか、当時高校生だった渚も彼の年を越してしまった。いくつか年上だった彼はいろいろと有名な人だった。通っていた高校の卒業生で、比較的真面目だった渚の耳にも入ってくるくらいに不良だった。とは言っても入学した時にはすでに卒業していたので交流があったわけでもなく、まして顔を知っていたわけでもない。普通に生活していれば一生接点がないはずだった。

 別段珍しい出会い方をしたわけでもない。当時男子高校生の平均を遥かに下回る貧弱な体躯に、いかにも絡んで下さいと言うように着崩すこともなく着られた制服が導く厄介事と言えば、かつあげだったり、いじめだったり、想像に容易い。友達と寄り道をして少しばかり遅くなった渚の前に現れたのは正しくそのような状況で、憂さ晴らしをしたかったのか、殴る蹴るの暴行を受けた。それを助けてくれたのが彼である。誰もが見なかったふりをして通り過ぎていく中で、彼は何の気紛れか、足を止め助けてくれ、途絶えかけた意識の中で病院に行きたくないと言った渚を自分の家に連れて帰り看病してくれた。

 渚が隠しておきたかった体中の傷は彼に見られ、ただ黙って家に置いてくれた彼はとても優しかった。飛び交う噂がどれも嘘だと思う頃には渚は彼に恋をしていた。彼が支えとなったから家を捨て、彼に諭されて学校を卒業し、悪いことも少しばかり教えてもらい、自分で立ち向かっていくだけの力をつけても彼は出て行けとは言わなかったが、決して付き合うことはなかった。嫌われては無かったがどう考えても弟に対する態度だったように思う。

 彼との別れは唐突にやってきた。朝、いつものように言葉を交わし、戻ってきた彼は怜悧な顔をさらに冷たくし、ただの一言も言葉を発してくれなかった。人間はあまりにショックなことが起こると自分の身を守るために逃避することがあると言う。渚は、彼の死を受け入れることができず、茫然と最後の別れを他人事のように眺めた。現実が襲ってきたのは、彼の遺品整理をしながら今後のことを考えた時。この部屋を出ていかなければ、実家に戻らずに生きていくにはどうすればいいか、どうして彼が死んでしまったのか。込み上げてくるどうしようもない悲しみに、けれど渚は涙の一粒も零せなかった。

 数日後に届いた養子縁組の決定通知書、死んでも尚彼は渚のことを守り続けた。その時初めて渚は人目も憚らず大声をあげて泣いた。彼がどれだけ渚のことを思っていてくれたのか、遺して行くことにどれだけの心配をかけたのか。

 父となった彼の職業を継ぐことはなかったが、それでもなんとか生きてきた。そこに彼の残した人脈という財産はあったが、渚は我武者羅に自分の力で這い上がった。ただ一日端午の節句の時だけは、彼の元へ行き、存分に彼と話をし、精神的に彼に甘える。

 最後の煙を空に向けて吐き出した頃、時を見計らったかのように毎年必ず声をかけてくる人がいつの頃からか現れた。今年もまた、

「今年も来たか」

と、渚に声をかける。暑くなってきたこの時期に必ず黒いスーツに黒いネクタイを締め、喪に服す男は彼の墓前で手を合わせる。この男がこの日に来るようになってから彼の仲間がこの日にやってこなくなったことを渚は知らない。いつも一人で墓の前に立つこの男が、駐車場で数人待機させていることも知らない。

「いつもありがとうございます」

 丁寧に頭を下げる渚に男は微かに笑い、いやと告げる。渚は男のことを知らない。男は彼のことを知っている。毎年数分の逢瀬で、いつも今年こそと思っていることを、渚は口にしてみた。

「あの、もし時間があったら養父のことを聞かせていただけませんか?」

 少し驚いた顔をした男が目を細めて彼の墓を見、

「ああ、俺もこいつの思い出話がしたい。 できればお前のことも聞きたい」

と告げた。ひゅうっと少しきつめの風が二人の間を通り過ぎる。男はにやりと笑う。

「奴はお前のことが心配だと」

「……相変わらずですね」

 呆れたように渚は言い、墓石をそっと撫でた。

「また来ます、父さん」

 それは決別の言葉だったのか、風が凪いだ。まるで、次は二人で来いというように。







2015/05/06
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