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甘く冷めていく、最後の逃げ道が、
R指定:無し
キーワード:中学生モラトリアム/最後の話/同級生/エロなし
あらすじ:×というより+寄り/日常系
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南西から、黒い雲がやってくる。
雨と風の気配を連れて。
「降るかもな」
入野が言った。制服のズボンの裾をすねの中ほどまで捲り上げて、裸足のままだ。白い足の裏も踵も砂にまみれている。
陽が翳り、砂浜は暗いねずみ色になった。
夏にはまだ早く、春と呼ぶにも中途半端な季節だった。柱だけでがらんどうの海の家を風が吹き抜けている。侘びしいと言えば侘びしいが、誰も居ない海というのはなかなか気分がよかった。
登校中の入野を学校の靴箱前で待ち伏せて、強引に引っ張り走って、別方向の電車に乗せて、特急とバスを乗り継いでここまで連れてきたのは俺だったけれど、
「ちゃんとした砂浜が見たい」
と言ったのは入野だった。
海岸線はわりと長く、遠くの白い岬のほうまで続いていて果てが見えない。
辿り着いた砂浜に立って、入野は「合格」と笑ってくれた。2時間半の道のりも特急とバスの運賃も、その瞬間におつりが来る程報われたと思った。
さっきよりも少し高くなった波が足元に打ち寄せる。細かく泡立った海水は濁ったソーダのように見えた。ちぎれた海草がくねる動きで浜に打ち上げられていく。
2m先を歩く入野が両腕で体を抱いた。急に気温が下がってきた。
俺は入野が脱ぎ捨てた皮靴をぶら下げていた。羽織れるようなものは持っていなかった。じゃあ後ろからいきなり抱きすくめて、と思ったけれど、すぐに絶対無理と打ち消した。そんなドラマみたいなこと出来なかった。俺にはどうしたって、入野の制服の白いシャツ越しに浮かぶ肩甲骨を、物欲しげに見ていることしか出来なかった。
潮が満ちるのは思ったより早く、気付いたらスニーカーが浸かりそうになっていて俺は慌てて避難した。
波打ち際ギリギリを歩いていた入野のくるぶしまでが灰緑色の波に洗われた。ひいていく波に砂がさらわれて入野は少しよろけた。白い足の甲は砂に埋まっている。
突然、入野が体の向きを変えたかと思うと、俺に向かって濡れた砂を蹴り上げた。笑っている。俺が飛びのいたので砂はもう少しのところで届かなかった。
入野は毒づいてまた砂を蹴ろうとした。俺は浜に鞄と入野の靴を置くと波打ち際へ走り、海水をすくって入野に放ってやった。あまり濡れないようにちゃんと加減した。けれども。
「てっめ、出川! ざけんな!」
飛沫を手で遮り、入野はまじになった目で今度は思いっきり波を蹴り上げた。俺の体の前面がもろに濡れる。
「げっ」
「ははっ、鈍臭えの」
入野が勝ち誇った笑いを上げた。海水が俺の前髪を伝って顔を濡らした。
「もー怒った!」
口許にまで垂れてきた海水を舐めると俺は入野に掴みかかった。
入野は襟を取られないように俺の手から逃げながら、抜け目なく脚を払おうとしてくる。ここで転ばされたらずぶ濡れだ。入野は冗談じゃなくそういうことをやる上に、喧嘩慣れしているから油断ならない。
暫く揉み合い、入野が俺の胸倉を掴み、俺が入野のベルトを掴んだところで膠着状態になった。おおきく波が打ち寄せた。あ、スニーカー濡れる、と気を取られた隙に、入野がぐいと手を引いた。俺は思わず目を瞑る。
ぺろ、と猫がするように、唇を舐められた。
「……塩っかれえな」
入野は不味そうに顔を背けて唾を吐いた。引き寄せていた手を、反対に突き放す。俺は混乱に目を見開いたまま後ずさり、スニーカーの片方を思いっきり海に突っ込んでしまった。
何が起きたんだろう。俺はおそれに近い気持ちで茫然と入野を見た。吹き荒れる風に乱れる髪が、入野のきれいな顔の半分を隠していた。真っ直ぐに唇に目が行き、今更自分の頬が極限まで熱を持つのがわかった。喉がカラカラになっていて、俺は咄嗟に口がきけなかった。
入野が視線に気付いて、なんだよ、と言った。
俺はこぶしで口許を隠して、何でもねえよ、と、掠れ声を出した。乾いてしまう前に唇を舐めとるのも忘れなかった。
「出川、出川。あそこまで歩こう」
入野はマイペースに岬を指差した。キスらしきものの余韻はゼロだった。俺は自分が変態なんじゃないかとうしろめたかった。もうだいぶ近くに見えてきた岬は、岩肌が露出していて見上げる程におおきかった。まさか登るつもりだろうか──こんなに空が暗いのに?
「やめとかね?」
「折角ここまで来たのにか」
入野は不満げだったが、意外と素直に進行方向を変えると防砂林に向かって砂丘をのぼり出した。荷物を拾って俺もあとに続いた。頭の中はキスのことでいっぱいだった。何とかして今日中にもう1度、もっとちゃんとしたのをしないと帰れないと思った。
海風に長いことあたっていたせいか、心なしか脚が重かった。髪も服も水気を帯びてべたついている。踏みしめると厚い砂が崩れて、湿ったスニーカーの中に入ってくる。俺も裸足になっておけばよかったな、と思う。
砂の上に大量にちらばる松の小枝をよけて入野は歩く。ますます砂まみれになっていく入野の素足を後ろから見ていると、何とも言えない変な気持ちになった。きれいなものが汚れていく光景は、いやらしいのだと知った。
「腹減った」
入野はいつもより幼い口調で言った。そういえば、俺も死ぬ程腹が減っていた。最後の乗り換えのときに、バス停で菓子パンを食べたきりだったことを思い出した。
シーズン前だから、売店はすべて閉まっている。俺の鞄の内ポケットに、かなり前に買ったガムが何枚か入っていた。入野は嫌そうな顔をしたけど、空腹には抗えなかったようで何も言わずにその口に入れた。
絶賛休業中の海の家の横に水道があったので、入野は足の砂を流した。ハンカチで拭って靴を履く。俺は濡れた靴下を丸めて鞄に突っ込んだ。ふたりとも飢えているせいで無口だった。今はもう2度目のキスどころじゃあなかった。
防砂林を抜けて、コンクリ舗装された道に出た。白い防波堤の上を俺は歩いた。ガムの甘さはすぐに消えてなくなり、ただのゴムの塊を噛んでいるのと変わらなくなったけど、ないよりはよかった。
防波堤の横を歩く入野を見下ろすと、誰に教わったのか器用にガムをふくらませていた。尖らせた唇を見て俺は唾を飲んだ。見詰めるだけで気持ちがわかれば苦労はしない。
海を左手にして道なりに行くと、こじんまりした喫茶店や古臭い売店が並んでいた。売店でカレーパンとアンパンとコーヒー牛乳を買った。店のおばさんは俺たちの制服と顔をじろじろ見た。突っ込まれないことを内心祈っていたら、去り際に声をかけられた。
「あんたたち、このへんの子じゃないね」
おばさんのイントネーションは、東京のものとは微妙に違っていた。俺は黙ったまま愛想笑いした。
「どこの学校だい。授業はもう終わったのかい。まだお昼過ぎたとこだよ」
おばさんは疑わしそうだった。このまま捕まって根掘り葉掘り聞かれて、最悪学校に連絡されたりしたらまずい。てきとうに言い訳しようとしたら入野が、
「模試で、昼までだったんですよ」
目の眩むような完璧な笑顔で言った。俺はぎょっとした。おばさんも何も言えなかったところを見るとよっぽど不意を突かれたのだろう。
「行こう」
入野はおばさんに1度だけ頭を下げるとすたすた歩き出した。おばさんは心臓が止まったような顔をしていたので俺は少し心配になった。完璧な美はヒトを沈黙させる。
ちょっと離れてから入野が俺に耳打ちした。
「おまえよりも、俺が言ったほうが説得力あるんだよ」
抑えた声が心地よく耳を震わせ、電流に似た感覚が体を貫通した。近づいた体からは海の香りがした。きっと俺にも染み込んでいるのだろうが、入野から香ってくるそれはどうしようもなく俺の胸をざわつかせた。
「みんな今頃授業中だよな」
入野がそう言い、忍び笑いをした。無邪気な様子に俺はだらしなく見惚れた。学校をさぼらせるという反則とも言える俺の奇襲作戦が、思いの他、効力を示したことに浮かれていたのだ。
そのとき、パトカーのサイレンが辺りに響いて、ふたりして同時にびくっと肩を竦めた。
サイレンは見当違いの方向に遠ざかった。肩の力を抜くと、同じようにほっとした顔の入野と目が合い、顔を見合わせてふたりで笑った。
堤防に腰掛けてパンを食べてコーヒー牛乳を飲むとすることがなくなった。海は迫り来る雨雲のおかげで鈍色をしていた。俺たちは話して時間を潰した。学校の友達や先生のこととか昨日のテレビのこととか、どうでもいいことを喋った。俺はクラスメイトの物真似をした。あまり似ていないと思ったが、ガリ勉委員長の真似が1番ウケた。海側に積まれたテトラポットに小さなカニが這っているのを見て、入野が白い歯を見せて笑った。太陽は出ていないのに眩し過ぎる。この時間が永遠に続いて欲しいと心底思った。
ぽた、と鼻の先に雨が当たった。空を仰ぐと無数の水滴が顔面めがけて降り注いできた。あっという間に堤防の表面がどす黒く変色する。俺たちは走って、喫茶店の入口のひさしに駆け込んだ。ひさしはトリコロールカラーで陽に焼けていた。俺は白木のドアを押し、入ろう、と言った。
「いま何時だ」
ホットコーヒーに大量のガムシロップを投入しながら入野は言った。案外甘党なのだ。俺の脳はぬかりなく入野について知っていることをひとつも逃さずメモっている。
「んー、3時40分くらいだ」
「じゃあ、授業終わったな」
部活、と入野が言いかけてやめた。
帰ったほうがいいのかも知れない、とは俺だって思ったが言い出せなかった。はっきりと気持ちを聞きたいとも思ったけど、それも口に出せなかった。オレンジジュースに付いてきたストローの入っていた細長い紙袋を、俺は弄んでいる。入野は空のガムシロップの容器の先を噛んで、黙って窓の外を見た。
雨はもう、あがっていた。
外に出てまた堤防沿いを歩くと、自転車に乗った地元の高校生3人とすれ違った。妙にだぼだぼしたズボンを履いていた。その3人は俺と入野を交互にじろじろと見た。絡まれるかと一応警戒していたが、何事もなく素通りした。
さっきまで誰もいなかった海岸にはちらほらと人影があった。犬を散歩させている女の人も居た。
空は晴れて海面が輝いている。
浜に続く急勾配の石階段を俺たちは下りた。
「泳げたらいいのにな」
遊泳禁止の立て看板を横目に入野は言った。海開きは随分先だ。
「夏にまた来ようぜ、入野」
俺は熱を込めてそう言った。入野は少し驚いた顔をして、でも、頷いてくれた。夏は部活最後の大会でそれどころじゃねえよ、と言われかねないと思っていたから、俺は嬉しかった。
夏になったらどうなるのだろう? 中学最後の関東大会も全国大会もいつかは終わるのだと思うと、何だか変な気がした。俺たちは全国で優勝なんてしているんだろうか? そんなわけがなかった。それらが全部終わったら、俺と入野はどうなっているだろう? 同じ学校の同じ部活でも、対戦する可能性はゼロではない。し、ほんとうに全部終わったら、俺たちは──。
俺は考えるのをやめた。始まる前から終わったあとのことを考えても仕方がない。誰も変わらないでいることなんて出来ないのだ。
入野は鞄を下ろすと、後ろに手を組んでゆっくりと浜を歩いた。空では夕焼けがはじまっていた。入野の輪郭がオレンジ色に照り輝いた。映画のワンシーンのように理解を超えて美しい光景だった。この手の美しさの前では、キスしたいとか抱き締めたいとか、邪まな心もたじたじになってしまう。
「おい」
無遠慮に後ろから声をかけられて、俺の陶酔は破られた。
振り向くと、さっきの3人の高校生だった。全員、おっさんかと思う程、老けた顔をしていて、背が高くガタイがよかった。俺は柔道部の高橋くんを思い出してかすかに笑ってしまった。
「何がおかしいんだよ、ああん?」
1人があまり抑揚のない口調で、しかし凄んできた。俺は、まずいなァ、とだけ思った。入野が見ている。怯むわけにはいかなかった。
「見ねえ制服だな、おまえら東京から来たのか」
「はあ」
「東京の学校は随分終わんのが早えんだな」
高校生たちは俺に近づき、身をかがめて低い声で言った。
「サボりだろ? え?」
面倒臭えことになったな、と思った。
「おいおい、中学生って義務教育中だよなァ」
「だよな、大事な学校サボッちゃいけねえよなァ」
「おまえらどうせ、金持ち学校のボンだろォ?」
「学校やママにバレたら困るよな」
3人はにやにや笑いながら交互に口を開いた。恐喝が始まるに違いなかった。俺は急速に腹を立てていた。入野との貴重な時間をどうしてこんな奴らに邪魔されなければならないのだろう。でも今、傷害事件を起こすわけにはいかなかった。殴ったりしたら中学最後の夏は終わったようなものだ。
「おら、何とか言え」
1人が砂の上の入野の鞄を蹴った。
入野は黙って腰をかがめて鞄を拾い、砂を払ってみせる。
「こいつ! 舐めやがって!」
鞄を蹴った男が入野の手首を掴んだ。入野が不快げに顔を顰めた。俺の我慢は限界に達した。おまえ如きが触って良いわけないだろう。俺は一瞬立場も忘れてそいつに殴りかかりそうになった。
そのとき、鈍い音がした。入野が、男のむこうずねに強烈なローキックを食らわせた音だった。
「さわるな」
一瞬現場の空気が凍りついた。
誰よりも早く我に帰った俺は、入野の手を掴んで駆け出した。でこぼこの砂浜に足を取られながら全速で走った。石段を上がり海岸を出て防波堤沿いに500mは走った。部活の走りこみでもこんなに一生懸命走ったことはないというくらい走った。
「手、痛えよ」
立ち止まると入野に言われ、ずっと手を握ったままだったことに気付いてやっと離した。手のひらが汗まみれになっていた。
「離せなんて言ってないだろ」
入野は俺の指を強く掴んだ。俺も痛いだろう程に握り返した。
「さっきのおまえの顔!」
入野は腹を抱えて笑いだした。
「絶対ちょっとびびってただろ、だっせえ」
「びびってねえよ、別に」
「嘘つけ」
「入野こそマジギレだったし、俺、焦ったよ」
「むかついたんだよ」
邪魔されたから──と入野が俺の耳許で言った。うおおおお、と俺は心で絶叫した。手と膝が震えた。早くキスするんだ早く早く早くと脳が言ったが体はなかなか言うことをきいてくれなかった。
「あ」
声を上げた入野の視線は海に向かっていた。夕暮れのフィナーレが始まっていた。海は黄金に呑み込まれようとしていた。
「変わらねえもの、あった……」
つい俺がそう口走ると、入野は冷静に言った。
「星にも寿命あるの、知ってるか?」
「知ってるけど! そんなの思い出させなくてもいいだろ今!」
「悪ィ、冗談だよ。怒るなよ、出川」
入野はとても優しい顔をしていた。そして美しく微笑んだ。俺はなぜか涙が出そうになった。
この気持ちの中にも、変わらないものがあると思ってもいいだろうか。信じてみてもいいだろうか。入野とふたりで居るこの瞬間が、俺にとっては永遠なんだと、そんな恥ずかしいことを告げたら、入野は笑うのだろうか。
「入野、」
なのに顔を見たら何も言えなくなった。きっと、言う必要はないのだ、と思った。
言葉の代わりに俺は溶け合う太陽と海を見詰めた。入野が気付くよう──入野にも、よく見えるよう。
今度こそ、2度めのキスがしたい──終わりが始まるより前に。
そう思ってしまう俺にきっと気が付いて、入野は何かを諦めたような顔で、甘く甘く笑った。泣きそうになりながらも繋ぎ続けていたふたりの頼りない指先はもう、いつの間に、こんなに冷たくなってしまったのだろう。
俺には全然、まるきり全部、ほんの少しも、わからなかった。
2026/07/22
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