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 冴えない Light Blue
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 R指定:無し
 キーワード:幼馴染み/ブロマンス(?)中学生日記/エロなし
 あらすじ:キスはするけど健全です。でも不健全でもあります。
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 グラウンドでサッカーをしている生徒たちの笑い声が聞こえてくる。それもずっと下のほうから。
 頭の後ろで組んだ手がコンクリートの固い床に擦れて不快感1歩手前で痛い。快感と不快感は絶対にどこかで繋がっている、って、僕はそう思っている。ボーダーラインを探りあてるみたいにゴリゴリと頭の位置をずらしたり傾けたりしていると、屋上に続く鉄製の錆付いたドアが開かれる音がした。

(来た)

 再び目を瞑った僕は咄嗟に寝たふりをする。

「りゅうせい?」

 上履きをぺたぺた鳴らしながら近付いて来た相手は暫く僕の名前を呼び続けていたが何度呼んでも反応がないと理解るとやっと諦めてくれたようだった。ちょこん、と横に座る気配がする。
 ちょこん──実際にそんな音が出るわけでは勿論ないが、こいつの仕草はどれもこれもいちいち音が付きそうなくらい丁寧だ。物を扱うときも、ヒトと接するときも、投げやり感や乱暴さがちっとも見当たらない。つまり僕とは正反対の人間ということだ。違うところばかりだ。かろうじて同じところといえば性別、年齢、それから出身保育園と出身小学校。
 つまり僕とナルハヤは幼馴染みというものであるわけだ。
 僕が薄っすら片目を開けて確認するとナルハヤは空を見ていた。
 白んだ青を背景にナルハヤの髪の薄茶色はしっくり馴染んで、ずっとコントラストを下げたそのシーンは漸く開けた僕の目にやさしい。

「ねえ、龍成。どうしてドラマとか漫画だと学校の屋上に入れるんだろうね」

 不意に話しかけられて僕は慌てた。
 瞼を閉じてしまったからあとのことはわからない。
 真っ直ぐ、という他ないナルハヤのまだ保育園児みたいな瞳はいま僕を見ているかも知れないし、空を見ているかも知れないし、自分の上履きのつま先の色の付いたゴム部分か、もしかすると町並みを眺めているかも知れない。ナルハヤの瞳や眼差しは疑うことを知らなくて、偽ることを諦めさせる力がある。他の人間にとってどうかは知らないが、そんなふうに、少なくとも僕は思っている。

「俺はね、物語の冒頭における虚構宣言だと思うんだよ、あれ」

 尚も黙っていると次の瞬間、額と額がぶつかった。

「……ってえ」

 思わず目を開けた僕はナルハヤを押しのけて上体を起こす。

「何やってんだよ、馬鹿じゃねえの。誰かに見られたらどうすんだよ」

 と、僕がいうと、

「だって龍成、何回呼んでも起きないんだもん」

 ナルハヤは悪びれず返してくる。

「だからってその起こし方はやめろって言ってんだろ。もう子供じゃあないんだから」

 制服の袖で唇を拭ってみせてやろうかとも思ったが、思い直して、手の甲を押さえつけるに留めておく。
 正直、不快感はない。単純に感触だけを考えて感想を述べるなら、柔らかくて気持ちいい──もっとも僕はナルハヤ以外のくちびるをまだ知らないけれど。でも行為として考えた場合、それが一般的な常識とは少しかけ離れている点は否めない。そして僕は常識を無視して我が道を進んでいける程まだ強くはない。その点でいえばナルハヤのほうが僕よりずっと強い。放課後とはいえ、いつ誰が訪れるかわからない場所で、こんな。こんな。
 もう子供じゃあない──そう言ったあたりでナルハヤの顔が既に泣きそうになっていることに気付く。ヒトに気を遣わせたり心配をかけることを何より嫌うこいつのことだから、放っておけば持ち堪えることは確実で、疑いようもなかったが、その選択肢を取ったとして後悔するのは間違いなく僕のほうだった。

「……ごめん」

 で。結局僕が謝る。

「ええと。だから、屋上が、何?」
「いやだ」
「いやだって何が」
「わかんない。でも、もういい」

 なぜか話を続けたがらないナルハヤの隣で僕はあぐらをかいた。眠いわけではないのにあくびが出る。じゃあ、矢張り眠いのだろうか。何だかもうわけがわからない。

「龍成は今朝も、バイトだった?」

 あぐらをかいた僕の隣で体育座りをしたナルハヤが尋ねる。ああ、と頷いた僕は、何でこいつ僕がバイトしてること知ってんだ、と思ったが、その件に関してはもう追究しない。
 自分のことを自分以外の誰かが知っている、ということを自分が知らない、ということはよくあることだ。

「最後の数学の時間、寝てたよね」
「簡単なとこだったし。大丈夫。余裕」
「……龍成、あんまり無理しないでね」

 無理なんか、そう言いかけた僕はナルハヤの視線を感じて口を噤んだ。
 僕の母親は僕がまだ幼稚園に通っていた頃、交通事故で死んだ。それ以来、僕は父親とふたり暮らしを続けている。母親の不在をまだぼんやりとしか認識していなかった当時の僕を幼稚園から保育園に預け直して、父親は毎日お弁当を作ってくれた。朝と夜のご飯を作ってくれた。どんなに疲れて帰って来ても、愚痴なんか絶対に言わないで、食事だけは必ずいっしょに摂った。寝る前は絵本も読み聞かせてくれた。そのうち僕は自分で出来ることは自分でするようになった。今度は僕が父親のお弁当を作って、朝と夜のご飯を作って、洗濯や掃除をこなし、町内会の行事にも参加した。自分で言うのも何だけど理想の父子関係だと思う。本人が聞いたら嘆くか怒るか拗ねるかしそうだけど、母親の存在が欠けたからこそこれは手に入った関係だと思う。三角形ではなく直線の家族。思いやる心が釣り合うように、貰った恩は必ず返した。与えた分は必ず何らかの形で戻った。不自由はなかった。
 僕は早く大人になりたかった。いつも大人になりたがっていた。今だってそうだ。
 大人になっていろんなものを見ていろんな人間に会って色んな体験をして複雑な思考回路を構築出来れば、父親の気持ちをもっと推し量ってやれるのに。僕のために頑張ってくれて、僕の気持ちを大切にしてくれて、僕の話を静かに聞いてくれて意見を尊重してくれて、自分のために何かを優先させたりなんかしないで。

(人間なんだからもっとぐちゃぐちゃでいいのに)

 言葉でいうのは容易い。言うだけなら。だけど僕がほんとうに伝えたいことはそれじゃあ足りない。父親をぐちゃぐちゃにするためには、僕が、見せてくれ、と頼んだりするのじゃあなく、自分からぐちゃぐちゃになって貰わなきゃ意味がないのだ。頼って欲しい。もう大丈夫だってわかって欲しい。あんたは俺を立派に育てたよ、父さん、って。──まァ、実際はぐちゃぐちゃな部分なんかどこにもなくて、子育てに没頭することが慰安になっていたのかも知れないけど。

「……龍成?」

 ナルハヤが首を傾げている。
 父親と過ごした時間と同じくらい、保育園で出逢ったナルハヤとも同じ時間を過ごしてきた。驚くべきことに小学校に上がってから中学2年生の今まで僕たちふたりはずっと同じクラスだったのだ。保育園時代を入れると実に10年間もいっしょの教室だったことになる。

「バイトっていっても早朝の3時間だけだから」
「2時半くらいに起きてるんでしょ?」
「そうだな」
「その時間、俺まだめちゃくちゃ寝てるよ」
「寝坊魔だもんな。ナルハヤは」
「龍成だって1回寝たら起きないじゃん」
「それいつの話だよ。起きるって。起きなきゃいけないときはな」

 問題は、ナルハヤが僕を気遣っている点だ。
 母親という存在が恋しい時間がまったくないといえば嘘かも知れない、でも、今の生活はそれはそれで幸せなのだ。こんなこと言ったって、強がりにしか聞こえないかも知れないけれど。

「なあ、ナルハヤ」
「うん?」
「おまえさ、もう、僕のこと見放していいよ」

 グラウンドから聞こえてくる生徒達の声がその一瞬大きく盛り上がった。ナルハヤは、え? という顔で僕を見ている。

「面倒臭いだろ、僕。ナルハヤに気ィ遣わせてるし教室でも浮いてるし」

 ナルハヤの顔に、え? え? 、と書いてある。

「何で? 何でそんなこと言うの? 意味わかんない。全然、浮いてなんかないってば。龍成がかっこよすぎてみんな近付けないだけだよ。女子だってそんな話してたよ、龍成くん格好いいから遠くから見てるだけで満足だ、って」
「ふうん?」
「男子も龍成に憧れてるんだよ。龍成だってみんなと仲良く喋ってるじゃん。でも単独行動が多いから、みんなでわいわいするのがあんまり好きじゃないタイプなのかなあ、ってみんなそう考えてるだけだよ。龍成がみんなから浮いてるんじゃなくて、みんなが龍成から浮いてるんだよ。って、あれ、俺、何言ってんだろ」
「ふうん。で、ナルハヤは?」

 身の潔白を証明するみたいに必死で言葉を並べ立てていたナルハヤが、その質問で意表を突かれたような顔をする。

「ナルハヤはどうしてそんなに僕が好きなの」
「俺が?」

 一瞬固まったナルハヤは数秒後元に戻った。目を伏せて視線を地面に彷徨わせる。

「……だって、龍成が俺を好きなんだもん」

 今度は僕が固まる番だった。

「は、僕? 僕はそんなこと言ってねえよ」
「俺だってそんなこと言ってない!」
「だったらヒトの気持ちを勝手に決めんなよ」
「でも、だってわかるんだもん。龍成だってそうでしょ、」

 ここでナルハヤは息を大きく吸った。

「だからさっき龍成は寝たふりをしたんだ。なぜなら俺に起こして欲しかったからだ!」

 そんなわけないだろ、馬鹿かおまえ。

 否定したかったのに、するつもりだったのに、おや、と思い当たらないでもない。勿論、そんなふうな素振りは絶対に見せていないのだけど。

「いいよ、もう」

 僕が黙っているとナルハヤは立ち上がった。来たときと同じように上履きの踵を鳴らしながら歩き出す。来たときと違っているのはその音が近付いてくるのではなく、遠ざかって行くところだった。
 空の色が変わってゆくのを眺めながら、僕はコンクリートの床に両手を付いていた。立ち上がっていた。歩き出せば追い風。ドアの手前でナルハヤに追いつく。

「ナルハヤ」

 ナルハヤは振り返らない。

「いっしょに、帰ろう? ナルハヤ」

 暫くすると、うん、と頷いたのが見えた。
 僕はナルハヤを追い越して先にドアに触れた。錆付いた鉄製が、ぎぎぎ、と音を立てる。ドアの前には現在は使われていない机や椅子があって、その先に地上に続く階段が下っていた。振り返った僕はナルハヤの背後で空がまた色を変えていることに気付く。青から赤へ。それなのにどうしてその間は紫じゃないのだろう。

 わからないことが多い。
 多過ぎる。

 どうやら僕はまだ大人じゃあないみたいだ。そのことがもどかしくもあるし、嬉しくもある。

(不自由は不幸なのかな)
(拙さは不憫なのかな)

 ──そうじゃあない。必ずしも、そうじゃない。

 欠けていなきゃ得られなかったもの。失わなければ見つからなかったもの。たくさん、たくさんあるよ。

「おい、ナルハヤ」

 愛され甘やかされてきたこいつには僕みたいにちょっと強引なのが丁度良いのだろう。その手を掴んでボーダーラインを跨がせる。虚構と現実を乗り越えて、背中でひとつの世界が閉ざされて、ナルハヤが顔を上げる。

「龍成」
「うん」
「やっぱり数学のノート貸してあげるね。余裕、じゃないでしょ」
「そうだな。ありがとう」

 整いたくない。
 こいつと話していると、僕はもう少しぐちゃぐちゃになりたいと思う。不安定に満ち満ちたこの自分は果たして何らかの病気に罹っているんだろうか。見え透いた嘘は振り出しに戻る。背伸びした足が痛くなる。望み通りのスピードは出なくても、時は怠慢にだらだら流れているように感じられても、僕もナルハヤも大人には遠くて、これはただ恵まれた日々の、ただただ不安定な日々の、ふたりしか知らない、いつまでも終わらない物語なのかも知れない。





 昨日の雨で校庭の桜が散っている。今も風が吹く度、樹から落ちた花びらが吹き溜まりに集まって、僕はその真ん中を横切って登校した。
 柔らかくて真っ白でどこも汚れていなくて、一見、何も問題ないのに桜の樹はこれをもう落とすのか、と思う。思うのは、僕の貧乏性だろうか。
 校門をくぐったいつもの付近に来るとさりげなく左右に視線を走らせるが駆け寄ってくる人影は見当たらない。ホッと息を吐いた。教室に入り自分の席に着くと肩に掛けていたバッグを机の横に提げ、数学のノートを広げる。
 宿題の問題を終えてから教室を見回す。ナルハヤの姿はまだない。時計を確認しようとしたところで、ホームルームが始まった。

(……珍しいな。あいつが遅刻か)

 頬杖をついた僕は窓から外を見る。1年生の校舎が見える。
 先週の入学式からあまり日が経っていない。1年前の自分はあの場所にいたときどういう気持ちだったかな、なんて考える。
 新しい制服に初めての教室。出会ったばかりの同級生の全員どこか緊張した顔ぶれ、配布された教科書の匂い。自己紹介の文章を頭で組み立てつつ、状況がこれだけ揃っていながら、それでもまったく真新しい気分にならなかったのは、同じクラスにあいつがいたからだ。
 幼馴染みなんて、ヒトから羨まれる程良いもんじゃあない。
 それも、小学校からずっと、何かの陰謀じゃないのかってくらい同じクラスだったりなんかすると。しかも僕とあいつの場合、小学校以前から、保育園時代からの縁だ。こうも付き合いが長いといっしょに暮らしている家族よりずっと自分のことを知られているし、まァその分こっちだって相手を知ってしまっているわけだけどそのおかげで甘えが拭えなくなったり、事件に巻き込まれたり、深刻な悩みを持ちかけられたりと、義理が生じる。適度な距離を保つことが出来れば良いかも知れないし、僕だってそれを望んでいる。が、あいつは──ナルハヤは逆だ。保育園時代からちっとも変わらない。追いかけて話しかけてくっ付いて。構って構って構って。黙れと言えば黙るけど、態度に出る。甘やかされて育ってきたから仕方ないのだろうが。

 別段、眠くないのにあくびが出た。
 きっと春のせいなんだろう。
 春と、たぶん、あいつのせいなのだ。

 担任が、昨日の雨はすごかったですね、などと話している。
 そうですね。
 僕は疾っくに終了したお昼の番組みたいな相槌を頭の中で打つ。
 春はお天気が崩れやすい季節です。
 そうですね。
 体調も崩しやすい時期なので気をつけましょう。
 そうですね。
 成早くんは今日は風邪でお休みだそうです。
 そうです、

「えっ!」

 僕は思わず声をあげてしまった。
 教室に響く程の大声ではなかったが斜め前の生徒が驚いたように振り返る。何でもない、と顔の前で手を振って見せた。
 休憩時間、僕はスマホからメッセージを送ってみる。

(あいつでもちゃんと風邪ひくんだなァ)

 因みにナルハヤが風邪で学校を休んだことは今まで1度もない。ずっと同じクラスだった僕がいうのだからほんとうに1度もないのだ。ただ、風邪以外で休んだことならある。親戚の葬式とかだ。

「……寝てんのかな」

 メッセージに返信は来ない。
 下校時にもう1度スマホを開いて見るが、父親とバイト先の店長から1件ずつあるだけで、ナルハヤからの返信はなかった。そればかりか未読のままだ。
 父親のメッセージの内容はいつも通り、本日の予定帰宅時刻。ずっと続いている、父子家庭の我が家の習慣みたいなものだ。店長からは、シフトを教えて欲しいということだった。平日の朝と週末。その場で返信する。店長からは、

「龍成くんが居てくれて助かるよ」

 と返ってきた。どうやら週末の休みを希望するバイトのひとが多かったらしい。
 花見かな。校庭の桜を見やった僕は吹き溜まりがなくなっていることに気付いた。掃除の時間にどこかへ持って行かれたらしい。


 翌日もナルハヤは休みだった。
 2日も続けて休むとは思わなかったので油断していた僕は斜め前の生徒に宿題のノートを写させて貰うことにした。

「え、数学? いいけど。ほら、」

 バスケ部の朝練を終えてきたからかそいつはシャツの前を開けた格好だ。4月とはいえまだ肌寒いこの時期にひとりだけ真夏のようなスタイルをしている。僕の視線に気付くと、いやん、などと言って身体をくねらせたから放置してやった。

「りゅうせーくーん、もっと構ってよー」
「あとでなら」

 素っ気ない僕の返事にそいつはなぜか嬉しそうにした。体格はまるで違うが性格の上ではナルハヤのようなところがある。最初から馴れ馴れしい奴だった。最初に話しかけられたのは入学式でだった。

「なー、俺といっしょにバスケ部入ろうぜー」
「僕バスケとかやったことないんだけど」

 と、答えると

「出来る、おまえなら絶対出来るってー!」

 と、根拠もなく励まされた。僕はバイトを始める予定だったので、部活には入らないつもりだと断った。因みにバイトのことは言っていない。学校にバレたら辞めさせられるだろう。中学生でも雇ってくれた、新聞配達。
 どうしてあのとき僕に声を掛けたんだ。あとになって理由を訊くと

「新入生の中で1番、流川に似てたから」

 と、答えが返ってきた。その話を僕から聞いたナルハヤは腹を抱えて笑っていた。

「成早、大丈夫かねえ」

 そいつの言葉に僕は顔を上げた。

「ほら、1日だって休むの珍しいじゃん? 遅刻もしない奴なのに」
「まァ確かに」

 頷く。

「やっぱり成早が居ないと何か落ち着かないよねえ」

 今度は頷かない。

「そうか? 僕は久々に落ち着いている」
「またまた。りゅうせーくんってば強がっちゃってえ」
「どういう意味だよ」
「ほんとうはものすごく心配してるんじゃあないのー?」

 そいつの視線が僕の足許に落ちる。椅子から腰を浮かせて身を乗り出した僕は自分が間違ってナルハヤの上履きを履いていることに気付いた。そうだ。今朝、学校に着いた僕は真っ先にナルハヤの靴箱を確かめたんだ。そこにスニーカーが入ってないことを見た僕は、無意識にナルハヤの上履きを取り出して履いてしまった。らしい。らしい、というのは無意識だった証拠だ。少なくとも最も妥当な推測だろう。自分以外の何者かに履き替えさせられたとするよりは、余程。

「見舞ってやればァ? りゅうせーくん」

 面白がるような声がどこか遠くから聞こえる。
 僕は項垂れた。そういえば、上履きのサイズが少しきつい。


 その日の放課後。
 担任から預かったプリントを手に僕はナルハヤの部屋の入口に佇んでいた。

「お待たせしました。入っていーよ」

 目の前のドアが開けられ、上気した頬のナルハヤが顔を出した。

「あんま動くと、熱上がんじゃねえの」

 3分間で片付けられた部屋はところどころおかしな点が目立つ。

「……別に、見逃してやるけど」
「あ、そうだ、飲み物。何か飲み物持って来るね」
「いいよ別に。病人だろ。じっとしてれば」

 僕が寝ているよう促すと、ナルハヤは漸くベッドに腰掛けた。

「今、どれくらい?」

 床に腰を下ろした僕が何気なくテーブルの下を覗き込むとゲーム機や雑誌が詰め込まれていた。余程散らかっていたのか。

「体温だよ、体温」

 きょとんとした表情で首を傾げているナルハヤに向かって僕は主語を補足する。

「……あ、測ってないや」

 ナルハヤは僕に申し訳なさそうな目を向けた。

「体温計、どこ?」

 取って来るから、と僕が立ち上がるとナルハヤは暫く考えたあとで

「わかんない」

 と、答えた。

「でも、もう大丈夫だと思う。ちゃんと治ったと思う。うん。痛いところなくなってきたし、身体も軽いし。あ、でも身体が軽いのは龍成が来てくれたからかもね」

 最後は笑いながら言う。
 呆れたまま睨んでいるとナルハヤから笑顔が消えていく。

「わかんないだろ」

 僕が歩み寄るとナルハヤの身体が強張った。

「ひゃっ! 冷た、」
「じっとしてろ」

 額に手をあてられている間、ナルハヤは僕に言われた通りじっとしている。目を閉じてろって言われれば次に開けろって言われるまでずっと閉じているタイプだな、こいつは。
 わかりづらかったので僕はナルハヤの脚の間に屈む。自分の膝をしっかり掴んでいる両手首を握る。案の定、後ろに下がろうとする力が働いていた。その手を前に引き寄せる。額同士をくっつけ合わせてじっと測っていると、ナルハヤが耐えられなくなったように薄目を開けた。

「あ、あのさ……これ、龍成にとってはふつう?」
「ん? ああ。我が家ではそうだけど?」

 事実だった。僕が風邪をひく度、父親はこうやって熱を測る。もっとも、最近は滅多なことでは体調を崩さなくなったから測って貰う機会も全然ないけれど。

「何で?」

 僕が質問するとナルハヤの目が宙を泳ぐ。宙を泳ぐっていってもたぶんこいつの視界にはいま僕しか入っていない。

「……そうだな、熱は下がってるみたいだな」

 僕が身体を離すとナルハヤは溜めていた息を一気に吐くように深呼吸した。

「ナルハヤ。夕飯、なに食べんの?」

 勉強机の前に置かれている時計を見る。もうすぐ19時だ。この部屋へ上がってくるときに確認したのだが、家の中には他に誰も居なかった。あれから誰かが帰ってきた気配もない。

(まあ、もう中学生だしな)

 ナルハヤの家は共働きだ。幼児なら兎も角、中学生の息子が風邪だからといって態々はやく帰って来ないだろう。

「何か、作ってやろうか」

 僕の言葉にナルハヤは驚いた顔をした。

「ほんとうに?」
「だって親、遅いんだろ?」
「うん。あ、でもお腹空いてないから大丈夫だよ」
「ふうん」

 僕がもう1度、時計を確かめているとナルハヤがテーブルの下からゲーム機を取り出した。

「龍成。ゲームしよう、ゲーム」
「ん? ああ、別にいいけど」
「じゃ、しよう」

 ナルハヤにしては珍しく強引に誘って、いそいそと準備を始めた。何かおかしいな。そう思ったが病み上がりってのはこんなものか。気にしないことに決めた。
 ゲームを続け、気付くと20時になっていた。

「まだ帰ってこないな、おまえの両親」

 僕の言葉にナルハヤが頷く。

「え、うん。我が家ではずっとこうだよ」

 ナルハヤが笑った。そのとき僕は、さっきの自分も同じだったと気付いた。額で熱を測る方法。

「我が家ではそうだけど」

 僕がそう言ったときと同じ表情で、ナルハヤは

「ずっとこうだよ」

 と言う。
 2階建ての大きなマイホーム。2台の車と、3台の自転車と、1台の単車が入る駐車場。芝生の庭は広く、家庭用の小さなゴルフ練習場もある。正しく片付いた玄関。広くて立派な大窓のあるリビング。L字のキッチンは清潔できれいに保たれている。それに比べて、散らかったナルハヤの部屋。広い家の中で、そこにだけはちゃんとヒトが住んでいる気配。テーブルの下に押し込まれたゲームや雑誌。ガキっぽいな、とからかったベッドには何だか色褪せたクマのぬいぐるみが転がっている。僕はそれに見覚えがあった。僕の鍵にはゾウのぬいぐるみのキーホルダーが付いている。保育園の先生に貰ったものだ。僕がそれを貰う前から、クマのぬいぐるみはこの家にあった。
 こいつは絶対甘やかされているのだと思っていた。だからいつまで経ってもこんなんなんだって、勝手に思っていた。

「なあ。僕んち来るか」
「え?」
「メシ。そろそろ帰ってくるから」
「あ、龍成のお父さんのこと。龍成が毎日ご飯つくってるんだよね」
「今日は中華にするんだけど。ナルハヤ、好きだろ。麻婆豆腐」
「うん、好き。あ、でも……」
「親にはメッセージ送ってれば良いじゃん。僕の名前出せば安心するだろ」

 そっかそうだよね、と納得したように言いながらも煮え切らない様子のナルハヤを急かして着替えさせる。

「ナルハヤ。おまえさあ、」

 引き出しから引っ張り出したトレーナーに頭を通したナルハヤが顔を向ける。

「何?」
「これから先もし彼女が出来たとしてさ、この部屋に呼ぶ日が来たらまず僕に言えよ」
「龍成に? 何で?」
「何で、って……」

 僕はベッドに転がったクマのぬいぐるみを抱きかかえてそれとなく示すがナルハヤはわからないようで不思議そうにしている。僕は深い溜め息と共にクマを元の位置に戻した。

「……その日が来たら、教えてやるよ」

 それから1時間後、僕とナルハヤは帰宅した父親を加えた3人で麻婆豆腐とギョウザの皿を囲んでいた。

 そしてその晩、ナルハヤは僕の家に泊まった。
 御連絡を差し上げておかないと。そう言って僕の父親がナルハヤの家へ電話を掛ける。留守番電話に繋がった。時刻は22時過ぎだった。仕方なくメッセージだけは残しておく。ナルハヤからもメッセージで宿泊を知らせるとそれには返信があった。

「ナルハヤ。おまえさ、毎日疲れない?」

 和室で布団を並べて寝ていた。畳で寝たことがないのかナルハヤは

「布団からはみ出しても落ちない!」

 と、感激していた。この調子だと明日は大丈夫だろう。行く途中で制服に着替えさせないといけないからナルハヤの家に立ち寄らないといけない。勉強道具も必要だ。

「いつもへらへら笑っててさ。もっと迷惑かければいいじゃん。親とか。折角ひとりっ子なんだし」
「それを言うなら龍成だって毎日お父さんにご飯つくってあげてんじゃん。ひとりっ子なのに」
「僕の反抗期は保育園時代に終わったんだ。今はナルハヤの話」

 隣の布団が、もそり、と動いた。ナルハヤが僕に背中を向けたのがわかる。

「無視すんなよ」
「……だって……じゃん」
「え、何」
「だって、怖いじゃん」
「怖い。何が?」
「龍成は、そういうのない? 学校をお休みしてるときにさ、俺は怖いんだよ」
「だから何が」
「俺が居なくても何にも変わらないなァってみんなが気付いちゃうこと」
「……何だよそれ」
「例えば親にだってすごく反発してさ、でも誰も構ってくれなかったら、とか。怖いじゃん」

 そのとき僕は、ナルハヤにも怖いものあるんだな、と暢気に考えていた。

「だから俺は平気なんだ。ほんとうに怖いものからは逃げてるから」

 僕は目を瞑った。洟をすする音が聞こえて、何だ泣いてるのか? と尋ねる。
 鼻水が出てきただけだよ。ナルハヤが答える。

「じゃあさ、ナルハヤは僕のことも怖いのか」

 その質問に回答が来る。

「怖いよ」

 即答だった。

「何で」
「だって龍成は強いもん。誰より早く大人になれる奴だもん」

 拗ねたようなナルハヤの声に苛立った僕はついに身体を起こした。電気の紐に手を伸ばすけど届かなかったから、暗闇の中でナルハヤの肩を掴んでこっちを向かせる。突然の出来事に驚いたナルハヤが毛布に隠れようとするのを剥がして妨げた。
 どうにも逃げられないと気づいたナルハヤが声をあげる。

「だから龍成はいろいろ狡い!」
「何がいろいろ狡いんだよ、おまえそうやって言いたいことぼかすのとかナヨナヨしいところとかそろそろ改善しろよ、もう中学生なんだから」

 クマのぬいぐるみとか、と云いかけて僕は口を噤んだ。
 あれだけはまだ奪っちゃいけない。ナルハヤに必要な物だ。いま取り上げちゃいけない。僕の中に微かに残った冷静な部分が、だからそれだけは奪っては駄目だ、と自制を効かせる。
 かろうじてあれを否定することまではしなかった。ナルハヤは何か察したかも知れないけれど、僕は言わなかった。

「……あ、ごめん」

 そのとき、自然と僕の口から漏れた言葉。
 自分がさっき言ったことに対してではなくて、ナルハヤの髪を掴んでいることに対してだった。そこまで怒ることでもないだろうに。
 病み上がりのこいつ相手に何やってんだ、僕は。これじゃあ連れて来ないほうがましだったじゃあないか。
 その隙を待っていたようにナルハヤが口を開く。

「龍成は俺が居なくても平気だから、龍成は狡い!」
「……ナルハヤ」
「龍成は俺を怒っても殴っても良いんだ。だって俺は龍成になら何されても、龍成のこと好きだもん!」

 そのとき、和室の襖がそろそろと開いて光が漏れ込んで来た。

「ふたりとも、静かに。うちの壁は薄いんだから、お隣さんに迷惑だ」

 姿は見えないが父親の声だけが聞こえる。

「……ごめんなさい」

 僕が謝ると襖が再びそろそろと閉まった。
 ナルハヤの身体から力が抜ける。父親の登場で毒気を抜かれた気分の僕は布団の上であぐらをかいた。

「……買い被り過ぎだよ、ナルハヤはいつも。僕はまだそこまで完成してない。することも、ないだろうと思うし。あと、僕は何があっても、おまえを殴らない」
「……わかってる。龍成は優しいもん」

 おまえのほうが優しいよ。
 そのことは皆、クラスメイトだって教師だってきっとおまえの両親だってちゃんと知っているし、僕だって知っている。
 そして、誰にでも優しくあることは誰よりも強くあることより難しい。
 だけど僕はそれを態々口にはしない。僕がただ思っただけだ。敢えて教えてやったりは、しない。

「なあ、ナルハヤ。僕の秘密教えてやろうか」
「龍成の?」
「そう。僕はね、何かがなくなっても怖くないんだ。悲しいけど、怖くない」
「……どうして?」
「ほんとうになくなっちゃいけないものは絶対なくならないからだ」

(きっと、そこまで神さまは、意地悪じゃあない)

 僕が布団に入ると隣の布団が、もそり、と動いた。ナルハヤがこちらに身体を向けたようだ。

「いいね、それ」
「そう、いいだろ。やるよ」
「……ありがとう。大切にするね」

 数分後、ナルハヤの寝息が聞こえた。なんて羨ましい奴だ。
 さっきの言い合いですっかり目が覚めてしまった僕は翌朝寝坊しないことを願いながら無理矢理目を瞑った。
 心臓が、どきどきしている。





 翌日、校庭の桜は緑の葉を付けていた。

「うわ、美味しそう」

 隣を歩くナルハヤが不可解な感想を述べる。

「…美味しそう?」
「ほら、ああいう和菓子、売ってるじゃん。スーパーのパンコーナーの横とかに」

 あったような、なかったような。てきとうに、そうだったかな、と答えておいた。

「龍成、今朝もバイトだった?」

 ナルハヤの言葉に僕の足が止まりそうになる。
 不覚。まさか、気付いていた? いや、それはないない。
 バイトをしていることではない。僕が今朝、寝ているナルハヤにやったことだ。
 あまり沈黙が続いても気まずくなると思い、僕は平然を装って、うん。それが。と、別のほうに気を取られたように目を逸らす。

「……起こしてくれて、ありがとう。龍成」

 余所見をしていたらいつの間にかナルハヤの顔が近くて驚いた。
 僕はうっかり柔らかそうな茶色いその髪に手を伸ばしてしまう。丁度、頭にくっついていた白い花びらを取ってやる。

「おまえさあ、天然?」

 ナルハヤは髪のことだと思ったらしく

「龍成の髪は黒くてさらさらだから、くっつかないね」

 と、見上げてくる。
 まァいいか。
 僕は再びポケットに手を入れた。

「……他の奴には言うなよ」
「うん?」
「だから、起こし方だよ」
「うん?」
「あれは、」
「“我が家の”だもんね」

 へらっと笑うナルハヤを見ていると心配になってくる。こいつ常に見張ってないと誰かにぽろっと漏らしそうだ。

「何が我が家のだってえ?」

 来た。
 後ろから追いついてきたのはバスケ部の生徒だ。僕は、何でも、と歩く速度を速めるが無意味だった。ナルハヤが捕まっている。

「おはよう、成早。風邪は?」
「もう治ったんだよ」
「そっかァ。なら良かったー。成早が居ないと何か寂しくってさ。みんな、心配してたぜー」

 背後から聞こえてくる会話に僕は聞き耳を立てる。

「ゆうべは龍成と寝たんだ」

 ナルハヤの自慢げな声が聞こえる。
 僕は振り返ると数歩戻ってナルハヤの肘を掴んだ。

「早くしないと遅刻するから」

 戸惑うナルハヤとバスケ部員の会話を残し、ナルハヤの腕を引っ張りながら靴箱へ向かう。

「龍成、どうしたの」
「おまえが何か漏らしそうで怖い」
「俺、朝ちゃんとトイレ行ったよ」
「そうじゃなくて」

 靴箱の前で僕は漸くナルハヤの肘を離した。
 立ち止まると登校してくる生徒たちと身体がぶつかる。
 クラスメイトたちがナルハヤの登校に気付いて逐一声を掛けて行った。ひとりひとりにナルハヤが笑顔を振りまく。

「……ナルハヤ」

 漸く僕に向き直ったナルハヤが、うん、と首を傾げたあと、

「ああ」

 と笑顔になった。この一瞬で何がわかったんだ。今おまえの頭の中で何がどう解決されたんだ。尋ねたくなる欲求を押し殺し、次の言葉を待つ。
 春の空を背景にした茶色の瞳に吸い込まれそうになる。

「大丈夫。龍成が、俺の1番だから」

 僕は頭を抱えてその場にうずくまりたくなる気持を堪え、傍らの靴箱に手を添えるに留める。

「ほんとうだよ」

 ナルハヤが繰り返す。
 わかっている。
 中学生になってもクマのぬいぐるみを手離せないこいつより、こいつを手離せない僕のほうが重症なのかも知れない。
 わかっている。
 だけど。
 そんな秘密、知りたくなかった。




 5つめの小石を拾い上げて顔を上げると、カーテンが開かれた窓辺にナルハヤが立っていた。
 振り被っていた腕を下ろした僕は、来い、と口を動かす。声は出さない。陽はまだ昇っていない。家や近所の誰かに気付かれても面倒だ。
 あいつにとっては夢の続きを見ている気分だろう。むにゃむにゃと唇を柔らかく噛んでは目をこすっている。
 僕はナルハヤの眠気が覚めるのを待ってナイロンジャケットのジッパーを引き上げた。
 窓が開く。

「りゅうせい……? おはよお……」
「黙って降りて来い」

 僕の言葉にナルハヤがこくんと頷いて2階の窓からパジャマ姿を乗り出した。自転車に跨っていた僕は慌てて屋根の下に移動する。

「おい、ふつうは玄関からだろ。馬鹿」

 だがもう遅い。ナマケモノみたいに1階の庇にぶら下がったナルハヤの下で僕は待機する。ふくらはぎが目の高さに来たと思ったら、ナルハヤはそのままずるずると僕の腕の中に落ちてきた。

「……あれ。おまえ意外と軽いな」

 それはそうと急がなければならない。道の脇に倒した自転車を起こし、跨る。荷台に座ったナルハヤが後ろから腕を回してきた。

「誘拐って簡単なんだな」

 いつもより重いペダルを漕ぎながら呟く。
 夜明け前の街は肌寒い。僕はさっき来た道を戻る。肩から斜めに提げた鞄はぺたんこだ。寝惚けているナルハヤが勝手に中を覗き込んで、何もない、と嘆いている。

 その家に着いたのは僕がナルハヤを屋根の下で受け止めてから10分後のことだった。漸く意識がはっきりしてきたナルハヤを連れて門をくぐる。

「……ねえ、龍成。ここ誰の家なの」

 自宅ではない他人の家に無断で上がっていく僕をナルハヤは心配そうに呼び止める。玄関口で振り返った僕は、来い、とだけ言って手招いた。ナルハヤは頷いてついて来た。
 玄関を上がってすぐ脇が台所でその奥に6畳の和室がある。年中出しっ放しの炬燵はこの家の住人の布団代わりだ。禿げかかった白髪頭はさっきと同じ位置にあった。漸く老人の姿に気づいたナルハヤが声をあげる。

「りゅ…龍成、このひと、死ん…っ!」

 僕は振り返ってその口を塞いでいた。状況を説明する。

「この家は僕が毎朝新聞配達している。そこに居るじいさんとは顔見知りだ。毎朝会うからな。今日はいつもと違う様子だったから部屋に上がらせて貰った。許可は事前に取ってる。ていうか、じいさんのほうから頼まれている。もしも郵便受けの前に自分が立っていない日があったら、この鍵をつかって様子を見に来てくれ、と」

 僕はナルハヤの顔の前でポケットから取り出した鍵を振って見せた。ナルハヤは、わかった、と言うように大きく頷く。僕は頷いて鍵をポケットに仕舞った。

「見ての通り、じいさんはもう死んでる。おまえを連れて来たのは、いっしょに葬式するためだ」

 僕の言葉を聞いていたナルハヤの目がじわっと潤んだ。こいつも顔見知りか、と訝った僕はその意味に気付いて慌てて手を離した。漸く呼吸が戻ったナルハヤは2、3度だけ咳き込んだあとで立ち直り、

「なんで」

 と首を傾げた。

「老衰だろうな」
「そうじゃ、なくて」
「何だよ」
「なんで俺なの」

 僕は一瞬考えたあとで言った。

「そうだな。丁度おまえの家の前を通りかかったから」

 ナルハヤが落胆したように肩を落とした。

「……家族、居ないの。おじいさん」

 そちらを直視しないよう慎重になりながらナルハヤは僕の顎のあたりを眺めている。ん、と顎を引くと、そっか、と小さな返事が返ってきた。
 そのあと、僕とナルハヤはじいさんのために葬式を挙げてやった。葬式と言っても傍らに正座して両手を合わせてやったくらいだ。じいさんの遺体を引き取る親戚の居ないことは以前から話を聞いて知っていた。県外に住む子や孫とも疎遠になっているそうだ。毎朝新聞を届けに来る中学生だけが、束の間でも耳を傾けてくれる話し相手だった。
 その家を出るとき、僕は初めてナルハヤがそれまで裸足だったことに気が付いた。窓から出て来たのだから靴を履いていないのも無理はない。怪我しなかったか、と尋ねると、龍成は優しい、と言われた。
 優しい人間は寝ているおまえを起こして赤の他人の死体を見せたりしない。
 僕はひとりで向き合うのが怖かったのだ。母親の死を、思い出すから。


 夜明け前のささやかな葬式から数時間後、僕とナルハヤは葉桜の下を横に並んで歩いていた。あまり良い天気ではなかった。空は白いのに光が濁っている。雲も太陽も見当たらない。

「なあ、ナルハヤ」

 僕の呼びかけに、隣を歩いていたナルハヤは待ってましたとばかりに顔を上げた。いつにも増して無口だったから、余計に心配されてしまったのだろう。自意識過剰ではなくて、ナルハヤはそういう奴だと僕は知っている。両親の喧嘩が絶えない家で育ったこいつは相手の顔色に敏感だ。争うよりも折れるを好む。平和であるに越したことはないと思っている。そしてそれを手に入れるために自分を犠牲にしても構わないと考えている。僕はナルハヤが笑顔ではない日に出くわした試しがない。いつもどこかで笑っていた。義務のように。努力のように。昔から。何か、願うように。

「世界のどこかで毎日紛争が起こってさ、自分と同じくらいの年齢とかさ、もっと小さい子、赤ちゃんとかもさ、ばんばん死んでんの。勿論、大人もな。だけど僕は、どうにかしてやろうとは思えないんだよ」

 いきなり何を言い出すのかとナルハヤは内心不思議がっているだろう。それでもナルハヤは律儀に頷いている。
 ポケットに手を入れてスニーカーの先を見つめながら、僕は1歩1歩を踏み出した。視界の左端にナルハヤのスニーカーが見える。僕のを真似て買ったやつだ。教室で斜め前の席に座るバスケ部のあいつには散々からかわれた。それで腹が立ったから

「おまえの名前何だっけ」

 と言ってやった。島崎だった。あ、そう。僕は答える。僕は自分に寄って来る人間の傷付け方を知っている。不思議なことにあいつはめげなかった。ナルハヤと同じだ。

 ────龍成の目は格好いいね。

 いつだったかそう言われてナルハヤの尻を蹴ってしまったことがある。僕は自分の目が嫌いだった。ふつうにしているだけなのに不機嫌なのかと恐れられる。かえってそれが都合の良いこともあったが、褒められるものでもないものだ。

「自分に関係のない人間っていっぱい居ると思うんだけどさ、どこからどこまでが自分に痛いんだろうな。どのあたりのひとまでなら自分は助けてやれるんだろう」

 どうしてナルハヤ相手にこんなことを。
 そうか天気のせいだ。先日は初夏のような陽射しだった。グラウンドで体育だった僕たちはジャージを脱ぎ捨てて額の汗を拭っていた。それが今日はどうだ。初夏に進むどころか先月あたりに後戻りした感さえある。2カ月後にはもう水泳が始まっているなんて思えない。
 僕は定規なしで直線を引こうとして結局ぶれてしまう手許みたいに、少しずつ少しずつ論点をずらしていく。
 ここで終えておけばまだ大丈夫。頭はそうわかっていたのに、口が裏切った。

「ナルハヤがもし独りで死んだら、僕が葬式してやる」

 え、と驚いた声が耳に届いた。この遠回しな表現をどこまでこいつが理解しただろう。しなかっただろう。それは今じゃあないだろうに。僕の目から熱いものが零れていった。それはたったひと粒で、縁にも肌にも留まることなく、生まれてすぐに砂地に落ちた。草も花も生えていない砂地に。何の糧になるでもなく。無意味さそのものみたいに。何かを残すでもなく。
 独りで亡くなったじいさんの新聞受けには、ちゃんと新聞を届けたのだ。今日の日中にあの部屋は片付けられてその内しばらく空き家だろう。だけどまた届けてしまうかも知れない。
 母親が死んでから僕は1冊の絵本を手離さなかったと云う。生前の母親によく読み聞かせてもらった1冊だそうだ。父親に聞いた話だ。その絵本は今も押入れの奥にあって、取り出して眺めるようなことはもうないけれど、開いたらきっとそのときの思いが蘇って僕はまた子供に戻るだろう。それがわかるから開かない。いつか開ける日までは。

「ありがとう。でも俺は龍成より先に死なないよ」

 一瞬、辺りが鮮やかに色付いた気がして僕は顔を上げた。雲の切れ間から薄青色が覗いている。それは僅かな変化でしかなかったが、変化には違いなかった。

「だから龍成は何も心配しなくていいんだよ」

 ナルハヤが自信満々に答える。
 僕が何を心配しているって? そう問いかけようとしたところで僕は後ろから飛びついてきた人物に肩を抱かれた。

「おっすー」

 島崎だった。

「……ばかざき」
「しーまーざーきー。おまえら朝っぱらから何イチャついてんだよー」

 僕とナルハヤを見比べてはにやついている。

「……誰が、」

 反論しようとした僕の左腕をナルハヤが取る。

「ねっ、龍成」
「何が、ねっ、なんだよ!」

 叫んだ僕が腕を振り払ってもナルハヤはへらりんへらりんと笑っている。

「ねっ」

 島崎がナルハヤの真似をして俺の右腕に掴まる。今度こそ鳥肌が立って振り払った。ヒトにはそれぞれ向き不向きというものがある。僕はそれを身を以て体感したのだった。


 帰りにあの家の前を通りかかると、住人の居なくなった部屋から家具が運び出されているところだった。数少ない家具が積まれた軽トラックから少し離れた場所に突っ立ち、ぼんやりとその様子を眺めていた僕はいきなり肩を叩かれて驚いた目を向けた。スーツ姿の男が立っていた。

「新聞配達の少年というのは、きみのことだね」

 警察。ではなさそうだ。保険会社か。葬儀屋か。考えを巡らせて黙る僕の前に男が薄い紙袋を差し出した。駅前書店のロゴが入っている。中身は本のようだが。

「……あの、これは、」
「裏返してごらん」

 言われた通りにするとそこには『新聞配達の少年へ』と書かれていた。少年へ、か。おそらくじいさんの筆跡だろう。そういえば僕は毎朝顔を合わせるじいさんに名前も教えていなかった。

「でも、どうして僕が新聞配達だってわかったんですか」

 確かに『少年へ』とは書いてあるが、それだけで推測出来るものだろうか。

「この家の前で立ち止まった少年はきみだけだよ」

 そうですか、と僕は静かに頷いた。続けて男に視線で彼の素性を問いかける。男はじいさんの息子だった。親の訃報を受け、飛んできたらしい。
 何だ。
 僕は内心騙されたような気分だった。
 何だ、ちゃんと大丈夫じゃないか。なあ、じいさん。


 公園のブランコに座って紙袋を開けると中から出てきたのは絵本だった。ぱらぱらと中をめくる。矢張りあの絵本だった。僕は自分のことをあのじいさんにどこまで話したか思い出そうとした。母親が居ないことは言った筈だ。だけど、絵本のことまで? しかもそれを態々買いに行ってくれたとは。どこかで記憶違いが起こったのかも知れない。僕はあの絵本を欲しいと言ったわけではなかったのに。
 それとも。
 僕は砂場で遊んでいる子供たちに目を向けた。若い母親が腕まくりをして子供といっしょにバケツでケーキを作っている。楽しそうだった。

「だーれだっ」

 そのときふと視界が遮られた。

「ナルハヤ」

 即答するとナルハヤはつまらなそうに正体を現した。

「何でわかったの」
「今時おまえくらいだからさ、こんなことすんの」
「龍成、何読んでんの?」

 僕の皮肉に気付かずナルハヤは頭上から絵本を覗き込む。ナルハヤの手が握ったブランコの鎖が揺れた。僕は足の裏に力を込めて身体を固定する。

「ぐるんぱだよ」
「ぐるんぱ?」

 頷いた僕は最初のページに戻って朗読を始めた。ナルハヤは後ろで立ったまま聞いている。時々、えっ、とか、あっ、とかおかしな相槌を打ちながら。最後のページを読み終えて、おしまい、と僕は絵本を紙袋に仕舞った。
 なぜかどこかがすっきりとしていた。身体が軽くなったようだった。

「さ、帰るか」

 立ち上がった僕の頭がナルハヤの顎に直撃する。

「てえっ」

 ふたり同時に声をあげた。ナルハヤが顎を、僕が頭を押さえて蹲る。砂場から笑い声が聞こえてきて、絶対に僕たちのことだと思った。間抜け過ぎる。

「龍成の馬鹿!」
「おまえだ、馬鹿!」

 夕焼け空の下、公園で、僕とナルハヤは他愛もないやりとりをしながらこの世界に生きていた。





 ナルハヤの親がふたりとも帰って来ない日があった。
 僕たちが小学校低学年だった頃。理由はわからなかったが、彼らは偶に外泊した。以前にもそういうことが何度かあったらしいがナルハヤはそれを当たり前だと思っていたようで、ひとりでご飯を食べてひとりでお風呂に入って就寝時間の9時になるとちゃんと部屋のベッドに潜って翌朝まで熟睡した。ナルハヤにとってそれは『偶にある当たり前のこと』に過ぎなかった。

(概念というものはヒトを救いもするしヒトを陥れもする)

 小学校低学年のある日、クラスメイトから、ひとりで寝るの? 夜が怖くないの? と尋ねられたナルハヤはその日からひとりの夜が怖くなって眠れなくなった。
 1度踏み越えてしまった境界線は跨ぎ直しても、もう元には戻れない。
 真新しいノートに書いた文字をどれだけ丁寧に消してもそれはもう2度と真新しいノートとは呼べないように。1滴の色を落とした水が透明に見えてもそれは絶対透明ではないように。傷は塞がっても縫合跡が微かに残る白い皮膚みたいに。
 やがていつか成長する。
 ほんの小さな切っ掛けがもくもく成長してある日大きな魔物となり、真夜中に飼い主を不自由にする。
 恐怖というものを知ったナルハヤは僕の家に泊まりに来ることがあった。
 クマのぬいぐるみはそのときから確かに持っていたような気がする。ナルハヤはそれをぬいぐるみと思っていないように話しかけたり椅子に座らせたりした。

「ナルハヤ。そいつは食べない」

 僕が言うとナルハヤは

「俺が見てないところで食べてるの見たもん!」

 と、むきになった。矛盾を問い詰めて窮地に立たせることは簡単そうだったけど、僕はそこまで辛辣な幼馴染みにはなりたくなかったから、それ以上クマについては触れず黙っておいた。あの頃から僕はナルハヤを少しだけ誤解していたのかも知れない。



 畳の上に寝そべって借りてきたDVDをいっしょに観ていたナルハヤの視線を感じたのは、少年の父親がナチスに見つかって射殺された瞬間だった。それまでも何度か危ないシーンはあったのだけど何とか堪えてきた。選択ミスったな。明らかな間違いを犯した自分をちょっとだけ呪いつつ。

「龍成、泣いてるの」

 驚いたナルハヤの声が聞こえてきて僕は顔を背けた。TVの画面なんかお構いなしになってナルハヤが僕に構ってくる。

「龍成が、泣いてる」
「僕が泣いてるのがそんなに嬉しいかよ」
「うん。嬉しいけど?」

 満面笑顔のナルハヤを見て、あらら、と首を傾げたくなった。こいつは。

「龍成にもヒトの心があるんだなってわかるっていうか」
「おまえな」
「だけど龍成は毎日そうじゃなくても良いんだよ。だって龍成が毎日笑ってたら俺はあんまり笑わなくなると思うもん」
「いいから、どけ。ナルハヤさ、ちょっと重くなったんじゃねえの」
「そうかなあ」
「どうせ甘い物ばっかり食べてんだろ」
「甘い物はあんまり好きじゃないよ」

 映画は進行しているのに僕とナルハヤは殆ど観ていなかった。じっと蹲ってエンドロールを待つような、そんな気恥ずかしさにどちらも耐え切れなくなっていたのだと思う。どこかで茶化して空気を取り戻さなきゃいけないような。今回は僕の涙がその役目を果たした。不本意ながら。

「俺は龍成の怖いものになりたい」

 ナルハヤの顔が一瞬すごく大人びて見える。普段が言動共に幼稚だからちょっと口を引き締めて目を細くするだけでそれはもうかなり大人びて見える。ほんとうは年相応の顔つきに揃っただけなのだとしても。

「は、」

 僕が尋ね返すとナルハヤの瞳の上部が水色に光っていた。画面の光を反射しているからだろう。僕は顔を上げて雪が降る光景を確かめる。一面の雪。或いは、花びら。再びナルハヤの瞳に目を戻すとそこにはもうさっきの水色は映っていなかった。代わりにいつもの瞳があった。自分の瞳よりも見慣れた瞳。

「だから。俺はこれからも龍成の怖いものになりたいんだってば」

 ナルハヤが宣言して体勢を崩すから僕はわけがわからないまま、重い、と、どけ、を繰り返し続けるしかなかった。ナルハヤの首筋からは甘くてあったかい冬の飲み物みたいな匂いがしていた。そのとき僕は、ナルハヤがある日クラスメイトに言われて気付いたみたいに、ナルハヤに気付いてしまったのだと思う。僕が無視出来ない僕自身に。

「ね、いいでしょう」
「駄目だって言っても何も変わらないだろ」

 僕がナルハヤをそこまで邪険に扱えなくて。
 ナルハヤが僕をクマよりぎゅっと抱き締めたから。
 あの映画の結末は今もわからない。
 未だにどちらも何もわかっていない。




 僕はアフォガートが嫌いだった。
 コーヒーは好きだ。あの苦みが良い。だがアイスだって苦手ではない。ただ、あの境目が嫌いだった。甘くて白いものが苦くて黒いものに溶けていく様子が好きになれなかった。

「おいしい」

 食べ物なのか飲み物なのかわからないそれを、そいつは長い銀のスプーンでかき混ぜてストローで吸い上げた。そいつの身体がスケルトン素材で出来ていたら今まだ食道だろう、もうすぐ胃に落ちるところだろう、いっそ鮮明に想像する。
 余程長いこと見つめていたからか、不審がってか、ナルハヤが顔を上げた。

「龍成も、食べる?」

 僕は首を振る代わりに下瞼を軽く持ち上げるようにして目を細めた。
 あはっ。ナルハヤは僕を見て笑う。

「龍成って無口なのに露骨だよね」

 ずず、とコーヒーが吸い上げられ、かろうじて浮いているアイスの小山が食器の底へまた少し近付く。無口なのに露骨、ね。僕は目を逸らして窓の外を見た。雨が上がっていた。

「教えて欲しいんじゃなかったの、勉強」

 質問形のひとりごとにナルハヤは、へへへ、とか、ふふふ、とか笑っていた。僕は、だあ、と大袈裟に溜め息を吐いてテーブルの上に上体を投げ出した。
 すかさずナルハヤが髪の毛にさわってくる。ナルハヤは僕の髪を褒める。僕の髪が好きだと言う。自分では何とも思っていない自分の一部を褒められるのは不思議な気分だ。嬉しいとか気分が良いとかいう地点に達する手前でいつも首をかしげてしまう。でも、どこが、とか、どうして、とか訊けばそれは背筋がひやっとするような種類の会話になっていきそうだから、訊かない。

「俺はね、いつか龍成を手に入れようと思うんだ」

 慣れた。こういう真っ直ぐさにも全部慣れた。僕は顔を上げる。前髪の間からナルハヤを見て言った。

「馬鹿じゃねえの」

 傷付ける意図は微塵もない。僕はナルハヤがこういう類いの発言では傷付かないことを知っている。じゃあどういう類いがこいつを傷つけることがあるのか、って、それを知ってるわけでもないけれど。
 着色料にまみれた、毒々しい、赤い果実をナルハヤが口に放る。
 僕は、だあ、と溜め息を吐いて再び顔を伏せた。

「龍成の気持ちなんて関係ないよ。そう決意してるのは俺だもん」
「それってすごい自己中だよな」
「だって回り道したって無駄なだけだから」
「何それ直球の言い訳?」
「言い訳じゃなくて根拠だよお」
「かわいくねえから」
「……俺は龍成にとって邪魔なのかな」

 不意に弱気な声が聞こえてきて僕は思わず身体を起こす。新しい手法だ。今まで聞いたことがない。

「あァそうだよ、って、僕が言ったら?」

 椅子の背凭れにふんぞりかえった僕が促すと、言わない、とナルハヤが断言した。
 龍成は、そんなこと言わない。

 アフォガートの入っていた透明な食器はすっかり空になっている。目の前のこいつが、こいつが全部食べ尽くした。そう思うと飲食とは恐ろしい行為だと思えてくる。甘いも苦いも溶かして飲み込んでしまうんだから。自分の物に、してしまうんだから。

(ああ、恐ろしい)

 そして僕は早くも少し夏バテ気味だ。明日から雨の日が続くという。雲が去れば今度こそ本格的に夏が始まるだろう。何年も変わらないのに、初めての夏。いつか名前も違ってくるのかな。それとも名前は同じまま中身が変わるのか。コーヒーとアイスを混ぜた食べ物がアフォガートと呼ばれるみたいに。放課後の喫茶店は西日を受け入れてレモンイエロー。僕は冷や水を呷った。本の紙みたいな色した酸素。水槽の中のような場所で水泡みたいな言葉を交わしている。毎日、毎日。
 ナルハヤの茶色い目が瞬きもしないで僕を見ている。
 ちっちゃい頃。
 この目を泣かせたこと、あったな。
 思い出す程に、忘れていた程に、こいつと僕の間には同じ時間が流れている。
 幼馴染み。
 兄弟でもなくて親子でもないのに。幼馴染みって、幼馴染みも、いつか名前を変えてゆくものなのだろうか。アフォガートみたいに。季節みたいに。同じように見えて絶対に2度めはないこの1日1日の出来事みたいに。
 明日僕はナルハヤとここに居ない。
 ナルハヤは明日僕とここに居ない。
 根拠は何も、何もない。

「……ああ、言わないな」

 じゃ、なくて、言えないな。
 てことは、言わない。
 てよりも、言えない。
 正直なところ。

 許された子供みたいに笑ったナルハヤが、チェリーの種をグラスの底に落とした。
 ありがとう、って言われた僕は、

「……どういたしまして」

 と、慇懃の裏腹で答える。
 だけどそれでも、僕は矢張り、アフォガートは嫌いから好きにはなれないのだ。それはもうほんとうに、しょうがないことなのだと思う。







2026/07/22
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 B A C K 



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