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[1] 感情の書き方
 広田修
 
 詩の作り方にもいろいろありますが、一つの方法として自身の感情の高まりを表現するというものがあります。読者は詩を読むことで心が動かされるのを望みますが、感動を伝える詩は読者の心を動かせるからです。例えば、花の美しさに感動したとか、手紙をもらって嬉しかったとか。ですが、それを直接「花が美し い」「手紙をもらって嬉しい」と文章化しても、詩としては面白くありません。特に新しさもなく、陳腐だと言われるだけです。では、先人はいったいどのようにして感情の高まりを詩に表現したのでしょうか。
 ここで、種田山頭火(1882-1940)の俳句を採り上げます。俳句といっても、自由律俳句というもので、季語もなければ575のリズムもありません。575の形式的なリズムを捨てることで、むしろ俳人の心身のリズムが現れてくる、そのような俳句だと思います。
 山頭火は、手紙について次のような句を作っています。

 けふは凩のはがき一枚

 まず指摘したいのは、この句のどこにも「嬉しい」などといった感情を表す言葉がないことです。「はがき一枚」と書くことだけで、はがきをもらったときの嬉しさやうまく言えない微妙な感情を表現できています。ここで「嬉しい」と書いてしまうと、感情が単純化されてしまい、はがきをもらったときの複雑な感情 が逆に表現できなくなってしまうのです。
 また、「はがき一枚」とだけ書くことで、俳人がはがきを取りに郵便受けのところまで行く動作や、郵便受けにはがきが入っていたことに気づいたときの感情や、部屋に戻ってはがきを読む行為、そしてそこから受け取る何かしらの印象、などのすべてを読者に思い描かせることができています。ここで「はがきをもら って嬉しい」と書いてしまうと、嬉しさを感じている時点しか表現できず、時空間の広がりを読者に感じさせることができないのです。
 次に指摘したいのは、俳人の周囲の状況も付加されていることです。「凩(こがらし)の」という部分です。「はがき一枚」の部分は、読者に、どちらかというと屋内の状況を思い浮かばせますが、「凩の」は屋内と屋外の両方を思い浮かばせます。屋内で聞かれる木枯らしの音や、屋外で道の上や木の間や人家の屋根 の上を吹き抜ける木枯らしそれ自体、また、木枯らしによって木が揺れる様、さらには、木枯らしによって木の葉が舞う様、それらすべてを読者に思い浮かばせることができます。「凩の」を付加することで、句の抱懐する時空間の領域がぐっと広くなるのです。
 また、木枯らしに伴う物寂しい印象が、はがきをもらったときの感情と対立し、あるいは混ざり合い、読者に複雑な印象を抱かせることに成功しています。
 句の原形として、「はがきをもらって嬉しい」という感情の高まりがあるのかもしれません。ですが、そこから「嬉しい」という直接的なことばを除くことによって、はがきをもらったときの微妙な感情や、はがきをもらうことに付随する行為や印象をも表現できるようになる。さらに、「凩の」という周囲の状況を付 加することにより、句の抱懐する時空間を広げ、句の印象を精妙にしている。
 山頭火にとっては、このような句法は自然発生的なものだったのかもしれません。ですが、後世のわれわれは、それを技術として学び取ることができます。もちろん詩は技術だけで書けるものではありません。ですが、詩を書く技術を学ぶことは、われわれの世界の感じ取り方を豊かにすることでもあります。山頭火の 技術を自分のものにすれば、単純な嬉しい感情だけではなく、もっと微妙な感情をとらえることができるようになり、また出来事に付随する広い時空間をも認識することができるようになります。参考にしていただければ幸いです。
 


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