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[1] 自分の作品に対する感受性
 広田修

 詩を書く人に必要な感受性というと、普通は、自然や人間や社会のあり方に対する感受性が挙げられると思います。与えられた自然などについて、誰もが感じることのみならず、あまり気づかれないことを感じ取ったり、他人とは違った感じ方をしたりするのが詩人の感受性というものかもしれません。(もちろん、誰もが感じるようなことをそのまま感じ取っても、それを的確な言葉で絶妙に言い表せることができれば一向に構わないと思います。みんなが感じていることなのだけれどうまく言い表せない、そういうことをぴたりと言い表すことも詩人の能力の一つでしょう。これは感受性というより表現力のほうの話になってしまいますが。)
 ですが、感受性の対象は自然などには限られません。詩を書くにあたっては、「作品に対する感受性」というものも重要になると思います。そして、作品に対する感受性は、「他人の作品に対する感受性」と「自分の作品に対する感受性」に分かれます。
 作品に対する感受性には、まず、作品を読んで「良い」「悪い」「上手だ」「下手だ」「美しい」「かっこいい」「すごい」「面白い」といった印象を受け取る段階があります。次に、これらの印象を精緻化し、印象の根拠を具体的にあとづけていく段階があります。これは批評の一種になります。
 詩を書くにあたっては、「自分の作品に対する感受性」も重要になってきます。ですが、多くの場合、自分の作品を批評する必要はなく、印象を的確に受け取るだけで十分であるように思われます。自分の思いついた詩行が詩的感興を呼ぶかどうか(面白いかどうか、美しいかどうかなど)、言葉の選び方は適切かどうか、無駄なことを書き過ぎていないかどうか、そういったことを感受する能力が大切であるように思われます。

 子どもたちは明かるい伸縮をみせてかけまわっている。毬はそのてのひらに球形の風をくっつけてくる。頬の生地は、それからしばらく甘い青空にぬれつづける。

 荒川洋治の「高所の毬」から引用しました。荒川はおそらく、明るい光の中で駆け回ることで子供たちのシルエットが伸縮する様子をとらえて「明かるい伸縮」と書いたのでしょう。それと同時に、荒川は、「明かるい伸縮」という詩句に自ら感興を覚えたに違いありません。実際、「明かるい伸縮」というとらえ方は、子供の運動のとらえ方としては斬新で絶妙だといえます。自ら面白い新鮮な表現だと思ったからこそ、特に書き直すこともなく作品として提示したのだと思われます。そして、荒川自身が面白いと思った詩句は読者にも感銘を与えることができています。

作者が詩句を思いつく→作者がその詩句の印象を感受する→作者がその詩句を面白いと思えばそのまま作品の中に現す→作品の中に現れたその詩句が読者に感銘を与える

詩が書かれそして読まれる過程とはこのようなものであることが多いように思われます。作者が思いついた詩句を残すかどうか、またそれが読者に感銘を与えるかどうかについて、作者の自分の作品に対する感受性は重要な意味を持っているといえます。作者は自分の感受性に照らして許容できるものを作品として提示します。だから、作者の自分の作品に対する感受性は、作品のあり方を大きく規定しているといえます。


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