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[1] 詩の外側、詩を含む大きな広がり(1)――生活
 広田修

 詩は詩だけで独立して存在しているわけではありません。詩や詩の世界を含む大きな構造・システムというものがあります。詩は多くの物事と関係付けられ、大きな組織体の部分として存在し機能しています。詩がどういうものであるかを知るためには、詩の外側にも目を向けなければなりません。
 今回は、詩の外側、あるいは詩を含む大きな構造・システムとして「生活」というものを簡単に採り上げようと思います。
 鮎川信夫は、「現代詩とは何か」において、次のようなことを言っています。

 われわれは詩を、――詩そのものを、それだけ切り離して論ずることが出来るだろうか。それはもちろん不可能なことである。

 われわれを詩に駆り立てるものは、詩そのものの空虚な美的価値の世界にあるのではなく、詩でないもの、つまりわれわれの生きている現実の生活の中にあるのだ

詩や芸術というと、何か日常離れしたもののように思われがちです。それは、芸術が、強い精神の作用を必要とするものであり、美的なものであり、創造であるからです。それに対して生活は身体的であることが多く、実用的であり、本来は神に特権的に与えられた能力である創造を伴いません。
 ですが、実際は、詩と生活には強い結びつきがあります。それは、詩作というメタ的な行為のレベルと、詩のモチーフというテクスト内部のレベルで問題になります。
 まず、詩を書くという行為、つまり頭脳を働かせながらペンを走らせたりキーボードを打ったりする行為は、日常的な行為の連鎖の中にあります。学校から帰ってきて着替えをして何か食べてパソコンを起動して「詩を書いて」その後小説を読んで……という具合です。カロリーを消費して心と体を働かせるという意味では、詩を書くこととスポーツをすることに違いはありません。また、詩が書けるのは、それに先立って、食事を取ってエネルギーを蓄えたりパソコンを買ってワープロが使えるようにしたりという、日常的な生活行為をしたからにほかなりません。詩を書くことは日常的な生活行為の連鎖の中で、日常的な生活行為に支えられて可能になっているのです。
 また、詩を書く動機というものも、日常生活から分離したものではありえません。例えば、優れた詩を読んで感銘を受けて、それに駆り立てられて詩を書くといった場合でさえ、詩を書く人は詩そのものの世界にだけ埋没して生活から遊離しているわけではありません。なぜなら、詩によって感銘を受ける能力と、思いがけない親切を受けたときに感銘を受ける能力は同じものだからです。感銘を受けるということは日常的なことなのです。また、詩を読むという行為は、手や目や心などを働かせる日常生活のひとこまに過ぎません。
 さらに、実際に詩行として書かれるものは、完全に生活から分離したものではありえません。

四人の僧侶
朝の苦行に出かける
一人は森へ鳥の姿でかりうどを迎えにゆく
一人は川へ魚の姿で女中の股をのぞきにゆく
一人は街から馬の姿で殺戮の器具を積んでくる
一人は死んでいるので鐘をうつ
四人一緒にかつて哄笑しない

吉岡実の「僧侶」から引用しました。確かに、僧侶が鳥になったり、死んでいながら鐘をうつなんてことは日常生活ではありえないことです。ですが、僧侶自体、鳥自体、死ぬこと、鐘をうつこと、は日常生活にありふれています。ただその関係をありえないものにしただけです。また、詩は言葉で書かれているということが重要です。言葉はコミュニケーションや情報伝達の媒体として、日常生活でふんだんに用いられています。
 詩は、日常生活の行為の連鎖の中で、日常生活にありふれた言葉を用い、日常生活にありふれた事物を素材にしています。詩を書く動機も日常生活から切り離すことはできません。だから、詩を日常から切り離して考えることには慎重にならなければいけません。


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