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[1] 音楽の見方と詩の見方
 広田修

 詩を認識・分析するための説明・理論が詩論であるとするならば、今回述べようとするのは「詩論論」すなわちメタ詩論です。つまり、詩論を認識・分析するための説明・理論です。
 音楽について人は様々なことを語りますが、音楽を説明するある説(「A説」とします)が、同じように詩をも説明することができるでしょうか。一般的に言えば、ある芸術ジャンルについて言われることが別の芸術ジャンルについて同様に言われるか、という問題ですが、ここでは音楽と詩に限定することにします。
 さて、音楽についてのA説は、そのまま詩についても通用するかもしれないし、詩について通用するためには一定の修正が必要かもしれない。場合によっては、音楽についてはA説は通用するかもしれないが、詩についてはA説は全く通用しないかもしれない。
 ですが、音楽について通用する説明が詩についても通用するかどうかを確かめることは、音楽についての認識と詩についての認識を両方豊かなものにします。A説が詩にも通用する場合、詩の認識についてもA説という新たな認識が付加され、詩の認識が豊かになります。また、A説が詩についても通用するという事実は、A説についての認識を豊かにし、ひいては音楽についての認識を豊かにします。同じことは、A説が修正された形で詩についても通用する場合にも、A説が詩については通用しない場合にも言えます。
 さらに、もしA説が、音楽と詩だけではなく他のあらゆる芸術ジャンルについても通用するならば、A説は芸術についての普遍的な認識として重要な位置を占めるようになります。
 つまり、音楽について通用するA説が、他の芸術ジャンルについても通用するかどうかを確かめることで、問題となっているすべての芸術ジャンルについての認識を豊かにすることができるのです。以下、その確認作業を具体的にやってみましょう。

 音楽についての説明の具体例として、まず音楽の「明るさ」を採り上げます。すべての音は、それがどんなに低く重いものであっても、幾分の明るい印象を与えます。さて、同じことは詩についても言えるでしょうか。あらゆる言葉は、それがどんなに暗い印象の言葉であろうと、幾分かの明るい印象を与えるでしょうか。
 私は、言葉については明るい印象がゼロに近い場合もある、すなわち、詩については音楽と同じことは言えないと考えます。仮にすべての詩がひらがなとカタカナでしか書かれず、またその詩が一文字ずつ区切ってしか読まれないとしたら、それは常に明るい印象を与えると思います。「あ」「ろ」「せ」といったような単独の音は意味を持たないので、音楽における音に限りなく接近します。しかし、詩は通常単語ごとに読まれ、単語は意味を持ちます。人は詩を読んだとき、直ちに意味に襲われ、その意味が暗いものであったら、人は明るい印象を抱いている暇がありません。例えば「殺人」「陰惨」といった言葉は、その意味にまつわる暗い印象が強すぎて、明るさを感じる余地がほとんどありません。つまり、音楽については、その構成要素は常に幾分かの明るい印象を与えることができるが、詩については、構成要素によっては明るい印象が限りなくゼロに近く、音楽と同じことは言えないことになります。
 このような認識によって、音楽と詩についての認識が豊かになっていくのです。


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