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[1] 列挙する能力
 広田修

 血が流れた、青髭の家で、――屠殺場で、――円形競技場で。(「大洪水のあと」ランボー、宇佐美斉訳、『イリュミナシオン』所収)

 文章には流れがあります。それは、時系列に沿ったストーリーの流れであったり、論理を積み立てていく論証のながれであったり、思いついたことに即して筆に随い続いていく自然な心情の流れであったりします。これらのストーリーの流れ、論証の流れ、心情の流れによる文章の進行を「縦の進行」と呼びましょう。この縦の進行は、人間の思考・感情の流れに自然に即したもので、このような精神の進行はそれほど抵抗をうけません。
 それに対して、引用部のように、ストーリーや論証との関係で同じ位置にあるものを列挙していく文章の流れがあります。「青髭の家」「屠殺場」「円形競技場」はすべて「血が流れた」場所を表すという意味で論理的に同じ位置にあります。また、おそらくそれらの場所ではほぼ同時に(あるいはストーリー上時間のずれが問題とされずに)血が流れていて、それらはストーリーとの関係でも同じ位置にあります。過去と未来、前提と結論のように、違った位置の間をつなぐ進行ではなく、同じ時間、同じ論理的な位置をつなぐ進行のことを「横の進行」と呼びましょう。横の進行は、同じ時間、同じ論理的な位置にあるものを列挙することによって実現されます。そしてこの列挙は縦の進行ほど人間にとっては自然ではなく、それをなすには多少の能力が必要です。それが列挙する能力です。
 引用部を含む散文詩である「大洪水のあと」は、引用部よりもひとつ上の次元でも列挙を行っています。大洪水のあとの状況を、野兎や宝石、小舟、血、ビーバーなどのモチーフを用いて、並列的に描写しています。ではそのような列挙にはどのような効果があるのでしょうか。
 先の引用部を、同じ「大洪水のあと」の次の部分と比較してみましょう。

 村の広場で、少年が両腕をぐるぐる振り回した。するとその合図は、あちこちのさまざまな風見や鐘楼の雄鶏の風見によって理解された。

ここには「少年が腕を回す」→「風見がその合図を理解する」という因果系列・時系列の流れがあり、詩行はそれに沿って縦の進行をしています。ここには、イメージの飛躍や空間的な広がり・断絶はそれほど感じられません。誰かが合図を送りそれが理解されることはよくありうることであり、合図と理解されることの間は連想によって容易に接続されます。また、合図を受け取っているのはせいぜい広場の周囲の風見だけであり、それほどの空間的な広がりはありません。また広場と風見は近接しているため、そこに空間的な飛躍・断絶も少ないのです。
 それに対して、初めの引用部では、「血の流れる場所」というそれだけの条件の下、「青髭の家」「屠殺場」「円形競技場」が並列的に列挙されています。これらの場所に共通するのは「血の流れる場所」であるという一点だけで、これらの場所が並列される必然性は全くありません。縦の進行においては文の接続が連想によって容易に行われていたのに対し、ここでは、「青髭の家」から「屠殺場」を連想することは決して容易ではなく、恣意的であり、「青髭の家」と「屠殺場」の接続には何ら必然性はありません。それゆえ、「青髭の家」から「屠殺場」に詩行が進行していくときにはイメージの飛躍が伴います。また、「青髭の家」「屠殺場」「円形競技場」は近接している必要が全くなく、互いに遠く離れていても一向に構いません。それゆえ、ここには互いに遠い場所の間の空間的な断絶と、遠い場所を結びつける空間的な広がりがあります。
 縦の進行に比べて、列挙による横の進行は、イメージや空間の飛躍、そして空間の広がりにより、詩に驚きと壮大さを与えることができます。それゆえ、列挙する能力は、詩を書く上で重要な能力と言えます。


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