投稿日03/03 04:29

「キセキという名の必然」
ジェルガヒミカ

もうなのか、まだなのか暦は3月になりましたがなんだか私の住む街は今日も朝は芯から冷えてましたし、風が吹きやむ事がなかなかありません。「風を切って歩く」なんて表現がありますが、どちらかといえば「風が人を切り捨て去る」という表現の方が私の街にはしっくりいくぐらいに人は寒さに背を丸め足早に歩く姿が目に映ります。丸々二ヶ月ぶりの投稿となる。お久しぶりのジェルガヒミカです。

先々月の事、1月のそれもまだ世の中が正月気分で暗い話題の多い中すこーしだけ浮かれている時期に私の大事な友人がこの世を静かに去っていきました。
私がその連絡を受けたのは深夜うつらうつらと夢の中へ滑り落ちる頃で突然受けた訃報は朝起きた時「あれは夢だったのではないか?」と思いケータイを開き着信履歴を恐る恐る覗いては改めてベットの中で落胆してしまいました。
それからその日は二日後に入っていた仕事を全てキャンセルし、やりかけの仕事に区切りをつけて、最終便の新幹線で久しぶりに地元へと戻って次の日に友人の告別式へ出席しました。

当時15才だった私より9つ年上だった彼とは地元の図書館で知り合いました。彼はいつのまにかに結婚して子供もいましたが、彼がその奥様となる女性と知り合ってからも私とは交遊がありましたので私の今までの人生の歳月から考えたら長い時間付き合いがあった数少ない人間のひとりだと思います。

彼とはよく図書館で会っては本の話や好きな小説家や音楽の話をして時には悩みを聞いてもらったりしては高校に入ってからは酒を飲む仲にまでになりました。正直に話すと私は彼に対して愛情を持ってましたが、けれど当時の私はまだ若くて上手に表現も出来ないままで…そんな私を知ってか知らずかいつも彼はとても紳士でした。一度として間違いは起こらず(私としては魅力がなかったのかと、残念に思った時期もありましたが(ーー;))いつのまにかにお互い友達としての形が出来上がってしまいました。

そして、彼も仕事で中堅的な立場となり私も世間に羽ばたいて互いに仕事に忙しくなっていきましたが、それでもつかず離れずの仲は変わらずで今となっては彼がどう思ってたのかは分かりませんが私の心の中で彼は兄であり友人であり仲間であって、いつも私を支えてくれていた大事な存在でした。
ある時、私が仕事で地元を離れる事になった時彼は笑って「別に死ぬ訳じゃないし、どうしても駄目なら全部放り出して帰ってくればいいんじゃない?身体さえ無事なら何度だってやり直しはきくよ道は一つじゃない、道路だって目的地にいくのに決まった道やルートなんてのはないんだから」ってな事を言ってました。(もう大分前の事なのではっきりとは思い出せませんが)彼は私が地元を離れる事を話してからは一度も「頑張れ」の言葉を私にかけてはくれませんでした。今思えば彼なりの優しさだったのかもしれませんが、あの当時私はだから「頑張ったな」って彼に褒めてもらいたくなって、地元を離れるバスに乗った時に私は[何事からも逃げない、負けない、立ち向かってやる]と心に決めました。そしてそれが根底となり今の私が形成されたと言っても過言ではないです。

告別式には彼の会社関係や親戚が多く出席していて、別に知り合いも居ない私は式では一番後ろの席で彼の遺影をずっと眺めていました。昔から笑顔が苦手で滅多に笑ったりはしなかった彼が子供と写ったワンシーンだったのか写真の中では優しく笑顔を見せていたのがなんだか余計に悲しく感じてしまいました。前列の脇で彼の子供が奥様の隣で式の間中一度も顔は上げる事なくずっと俯いたままで式が終わったのが印象にありました。

私はその日の夜、彼の訃報の連絡をしてくれた彼の奥様に電話をして家を訪ねさせて頂きました。
私が彼の身に起きた事の原因を追求した時奥様は電話でははっきりとした明言をされなかったので、最初私は自分の近況を少し笑いを含め話してみたりすると奥様は息子さんの話や彼の話をしては少しだけ笑顔を見せてくださいました。
少しの間があって奥様は彼の事を話してくれました。彼は昨年の二月ぐらいから少しづつ残業が増え急な出張で家を空ける事が出てきたり、休みの日に会社に行く事が度々あったそうで、10月に入ってから亡くなるまでの三ヶ月の間に彼がゆっくりと休みをとったのはたったの二回でその内の一回は息子の運動会だったそうです。遺影の写真もその時のものであったと奥様が教えてくださいました。それを知った時、彼の息子が式の間中に一度も顔を上げなかった気持ちが痛い程私にも伝わりました。
彼は亡くなる一週間ぐらい前から風邪をこじらせ奥様が休むように、せめて会社に行く前に病院へ行く様にすすめたにも関わらず家と会社の往復の毎日を過ごし、大晦日の日も会社に向かおうとする彼は申し訳なさそうな顔をして「さすがに明日からはしばらく休むから」と奥様に言って家を出た。そしていつもより早く帰って来て少し食事をし風呂に息子さんと入った後、「12時になったら初詣に行こう」と息子さんと約束し、その時間になったら起こすように息子さんにお願いをして隣の部屋で布団に入った…そして最初に布団の中で息をしてない彼を発見したのが息子さんだった。
救急車が来た時には心肺は停止してかなり経過していたらしく過労が風邪を重度にこじらせたみたい。
と奥様は静かに私へ話して下さいました。

彼は奥様や息子さんに何も言わず静かに去っていった。当然私にも何も言わず。彼も誰もが無念という言葉では言い表せないぐらいに、それ以前に彼がもうこの世に居ないなんて誰も信じたくはなかった。

彼の勤めていた会社は地場の製造業だったらしく上と下に挟まれ何かと駆けずり回っていたのではなかろうか。彼もあの時の私が決意したように、難題から逃げていなかった。世間に立ち向かっていた。のだろう。だけど彼の受けた代償はとんでもなく大きかった。私は彼に聞いてみたい「他に道は無かったの?」って。きっと奥様も私以上にいろんな事を思っていらっしゃると思う。これから女の手だけで子供を育て上げるなんてのは大変だ。そして息子さんの心の方も心配だ。息子さんが彼の意志を継いで真っすぐに育ってくれる事を心から祈るばかりだ。

夜も更けてきたので挨拶をして立ち上がり、玄関に向かっていると奥様に玄関で待つように言われヒールを履いて待っていると奥から出て来た奥様は私に「これ彼がずっと使っていたんだけど私は使わないしヒミカちゃんが大事に使ってくれた方が彼もきっと喜ぶから」と言って小さめのジッポライターを私にくれた。

それは私が高校生の時に彼の誕生日にと近所の雑貨屋で奮発して買ったものだった。随分と年季が入っていたが間違いなくそれだった。私は帰り道歩きながらポケットの中でジッポを撫でながら「これも縁だなぁ」と思っていた。

そして私は結局彼に褒めてもらう事は出来なかった。これだけを願って頑張ってきた時期があっただけに彼の突然のさよならは分かっていても受け入れる事が出来なかった。
人生ってのは、ゴールを自分で決められない。だからいつゴールを迎えてもいいように必死に頑張ってるんだ。人や、生き物は自分の為だけに生を受けるわけじゃなくて誰かを愛し誰かの為に生きて誰かの為に死んでゆく。だからこの世は説明のつかない奇跡のような偶然が必然として起き、そして命は意志を世代を超えて語り継ぐのかも。息子さんがふと後ろを振り返れば彼の軌跡が息子さんに繋がっている事にきっと息子さんは気づくだろう。「あの父があったから今の自分があるのだ」と。だから彼が早くに去ったのも意味がある。それを息子さんが目の当たりにしたのも意味がある。きっと彼は父の死を乗り越えて強くなる。そうしなくてはならない。必然であった彼の出来事を受け止めて無駄にしてはならないのだ。私はこの世の全て何もかもに意味があると改めて気づいた。
私の手に昔私が彼にあげたジッポが戻って来たのも意味があるはず。もしかしたら、彼が「頑張ってるな。」って言葉の代わりにご褒美をくれたのかもしれない。


でも、だとしたら随分と安く仕上げられたものだなぁ(笑)


なんか、ずっと動けなかったけど彼の49日も済んでからなんとか自分が帰ってきてるってか戻ってきてるって気がする。

うん、よし!大丈夫!
また明日から頑張るか!
どこかで見ててね。感じててね。
まだまだ頑張るよ。私!



きっとあんな自民党が政権をダラダラと握っているのも意味がある…と思う。きっとどこかで誰かが立ち上がって国を牽引するためのきっかけなんだって(-.-;)






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