投稿日06/02 00:21

「喜怒哀楽」
nico

喜怒哀楽

喜び
怒り
哀しみ
楽しみ

人は、喜怒哀楽を表現できる動物である。


私は、喜怒哀楽の"怒"の感情が苦手だ。
ぶつけられる側ではない。
ぶつける側として。

もともと堪忍袋が大きいのか、たいしたことには動じない子供だったし、姉の喧嘩を日々みてきた私には、喧嘩そのものが大嫌いだった。
ちょっと不満があっても私が身を引くことが大抵で、平穏に過ごしたい、という意識から小学生の頃から特定のグループに属さず、中間地点にいるような子だった。
今となっては一匹オオカミはその頃からだったようだ。
なにか言われてもニコニコして、実際傷付くことを入れてもそう受け止めない思考となっていて、おかげでにこはMだと言われ続けて今に至る。

さすがにカチンとくることもあったけど、それを怒りとして相手にぶつけたことは本当に少ない。
というか、ぶつけられないのが私だった。
我慢して、笑ってごまかして、枕を濡らすこともたくさんあった。
沸点に達すると、ガーっと怒るよりも先に沸騰であふれたお湯のように涙が溢れてどうしようもなくなるんだ。
相手に言いたかった言葉も涙に邪魔されて言えなかったり。
それが恥ずかしくて沸点に達した途端にその場を離れ涙を堪えたり。

怒る術を知らない。
怒った時に相手に気持ちをぶつける術を私は知らない。
その上口下手な私はとにかく不満は不満のまま蓄積されて、自分の身に支障をきたすまで溜め続けてしまう。

たくさん怒りたいわけではない。
今でも平穏に過ごしたい気持ちは強い。
だけど間違ってる、おかしいことだとその場でうまく伝えられないんだ。
伝えようとすると気持ちが高まり涙がでてきてしまう。
大人になった私はもうそのことを十分わかっているから、もう伝えようともしなくなってしまったんだ。
感情の高ぶりを高ぶらせないように封じ込めてしまった。

喜怒哀楽はどこへいったのだろうか。
人が皆現すことのできる感情なのではないのか。
喜哀楽となってしまっている私は、ネジが一本なくなってしまっているようだよ。


にこ

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