私の存在証明
私は私のために、決断を下した……。
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死ぬ瞬間というのは、気持ちの良いものらしい。
人は生命活動を停止するとき、このうえない快感を覚える。だから人間は死に救いを求めるのだそうだ。私の知っている人がそう言っていたのを思い出す。
天井から吊されたヒモに手をかける。輪の形になっているそれは丈夫で、簡単にはちぎれない。輪の中に、首を通す。
足元の椅子を蹴れば私の首は絞まり、死ぬことができる。知人の言う最高の快感と共に、私の人生は終わりを告げる。
輪を持つ手が汗ばむ。心臓の鼓動が骨を振動させた。まだ首は絞まっていないというのに、上手く息ができなくなる。直前までは簡単にこなせると思っていた。しかし、いざとなると足が動かない。
首を輪から外し、荒く呼吸をする。自分の不甲斐なさが嫌になる。ゆっくりと椅子から降りてベッドに横たわった。
ふと携帯電話を見ると、緑色の光が明滅している。メールを着信しているらしい。手に取って内容を確認する。
「もう死んだ?」
短い文章が画面に表示された。まるで業務連絡のような、飾り気のない文面だ。まあ、この内容で絵文字をふんだんに使われた方が嫌だが。
「残念ながら生きてる」
味気ない返信をする。すると、すぐに携帯電話が振動を伝えた。画面を見る。
「それは、確かに残念だ」
不謹慎なメールを鼻で笑い、それからしばらく彼と文字で会話をした。他愛のない話題のキャッチボールだ。
彼とは数ヶ月前、インターネットのとあるサイトで出会った。彼は常識的に考えると嫌な人間で、自殺志願者に「早く死ね」と言ってしまうような性格の持ち主だった。頭がよく、他の人を理屈で言い負かしているところを私は何度か目撃したことがある。
私が自殺を考えていることを相談すると、もちろん彼は応援してくれた。そして、死ぬ際の快感のことを教えてくれたのだった。
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私が親から日常的に受けている暴力のことを、彼に話した。彼は特に気を使うこともなく、まるで芸能人の色恋沙汰でも聞くかのように気軽に受け取ってくれた。
母子家庭に育った私は、慢性的に繰り返される母からの虐待にいつも耐えていた。言うことを聞かなければ殴られ、首を絞められる。周囲に虐待をさとられないようにするため、腕や腹ばかりに暴行を加えられた。
体には赤黒いアザが絶えない。自分の変色した皮膚を見るのが嫌で、私はいつも長袖の服を着ている。入浴するときも、なるべく自らの体から目をそらした。
携帯電話を操作しながら、首筋を触る。きっとここにも、あの細い手に絞めつけられたあとが残っているはずだ。恐怖を覚え、鏡さえ見ることができない。
いかに私が酷い状況にあるか、苦悩を抱えて生きているかを書き連ねた文章を彼に送ると、すぐに返信が来た。彼はちゃんと読んでくれているのだろうか。
「そんな親、殺してしまえばいい」
メールを開くと真っ先にその言葉が目に飛び込んだ。画面をスクロールして続きを読む。
「今までの話によると、君は相当その母親を憎んでいるらしいね。このままだと君は一生、苦しみ続けるだろう。ならば、君の選択肢は二つだ」
まるで人間をそそのかす悪魔の言葉のようだった。もしくは、趣味の悪い宗教のような。
「自分が死ぬか、相手を殺すか」
だが君は自分で死ぬような勇気はなかった。だから、母親を殺すことが君の唯一の選択肢となる。彼のメールはそう続いていた。
彼は恐ろしいことを平気で言う。しかしそれが間違ったものだとは思えず、私はいつも彼の言葉に魅力を感じていた。
自殺もできない弱虫の私が殺人などできるのか。相談の文章を送る。それはすでに母親を殺害する気になっていることを意味しているのだろう。殺す気がないのなら、相談する必要などないのだから。
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「人を殺すことなんて意外と簡単なものだ」
彼はそう言って私に殺害方法を提案した。それは、眠っている母の首を絞めて窒息死させるというものだった。
「君の母親は寝込みを襲われて気が動転し、正常な判断ができないまま死に至る。ろくに抵抗もできずに」
彼の話を聞き終わる頃には、母親を殺すことに賛同していた自分がいた。特にためらいなどはなく、ごく自然にその計画を受け入れることができた。
私は凄惨な虐待を日常的に受けており、母を殺害するのには充分すぎる理由があった。このままでは私が殺されてしまうかもしれない。これは正当防衛なのだ、と自分に言い聞かせる。
「私、決めた。殺すよ」
彼に短い文を送信したあと、自分の部屋で夜になるのをじっくりと待った。
夜もふけ、家の中が静かになる。晩ご飯の時間に母が呼びに来ても、部屋から一歩も出なかった。次に母親の顔を見たとき、私は酷い暴力を受けるかもしれない。母の呼びかけを無視したのだから。
音が鳴らないように気をつけて、扉の鍵を開ける。暗い廊下に、ゆっくりと足を踏み出した。床板がきしむ。
廊下の突き当たり、母の寝室の前に立つ。この中に入り、首を絞めて彼女の命を奪う。そうすればいい。簡単なものだ、という悪魔のような彼の言葉がよみがえる。
扉を開き、部屋の中に滑り込む。息を殺して辺りを見回した。オレンジ色の明かりが点いており、母の眠っている位置はすぐに分かった。
ベッドに近づくと、彼女の寝息が聞こえてきた。気持ちよさそうに目を閉じている。
この人のせいで私は苦しんだのだ。ことあるごとに殴られる、悲惨な毎日と別れを告げなければならない。もう、終わりにしなければならない……。
私は、母の首にそっと手をかけた。
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細い首に回した手に、ゆっくりと力を込める。親指を喉の辺りに押しつけ、徐々に圧迫していく。
このまま死んでしまえばいい。早く。早く死んでくれ。不思議と私は高揚した気分になった。もしかしたら、脳から何らかの物質が分泌されているのかもしれない。
「うっ……!」
不意にうめき声が聞こえ、次の瞬間にはベッドの横に倒れていた。母に突き飛ばされたのだと気づく。
起き上がり、咳こんでいる彼女を見る。何が簡単なんだ。私のか細い手では容易に人を殺すことなどできないのではないか。
「何をするの……」
母の視線がこちらに向けられる。虫の鳴くような声だった。彼女の声は、こんなに弱々しかっただろうか。
薄い明かりに照らされた母の姿に違和感を覚えた。細い首に見えるアザが、先程ついたものだとは思えないほど濃いのだ。服の袖から覗く彼女の白い腕には、ところどころ黒く変色している箇所があった。
「私が何をしたっていうの……」
母の泣く声を聞きながら、部屋に置いてある姿見に目を向けた。鏡の中に私が映っている。傷やアザといったものはなく、綺麗な肌をしていた。服の袖をめくっても、何もない。
怖くなって寝室を出た。自分の部屋へ戻り、扉に鍵をかける。頭の中が混乱していた。意味が分からない。
ふと、携帯電話の光の点滅に気づく。急いでメールを開いた。
「もう親は殺せた?」
短い言葉が画面に表示された。私はとりあえず返信をする。
「殺せなかった。それに、状況が理解できない」
今あったことを全て文面に起こして彼に送った。要領を得ない文章だったかもしれないが、彼からはすぐに返事が来た。
「君は本当に虐待などされていたのか?」
それを読んだ途端、私の携帯電話を持つ手が震え出した。
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「君の言葉にはどうも信憑性がない。最初に虐待の話を聞いたときからおかしいと思っていたんだ。まるで武勇伝でも語っているみたいだったからね」
メールの本文をスクロールしていく。体の震えがおさまらない。軽いめまいを覚える。
「君は、誰かの興味を引きたくて、誰かにかまって欲しくて、虐待を受けているなんて嘘をついたんじゃないのか?」
嫌だ。見たくない。もう見たくない。なのに、指は勝手に動いていく。
「そしてさっきのメールの内容が本当ならば、暴力を振るわれているのは君ではなく、君の母親の方だ」
私はほとんど吐きそうな気持ちだった。認めたくない。そんな現実と向かい合いたくない。ずっと、偽りの自分を思い込んだままでいたかったのに。
部屋に閉じこもるようになった自分のストレスを、不満や苦悩を、母親に対する暴力に向けていたなんて。くだらないエゴのために、加害者である自分が被害者のふりをしていたなんて。そんなことを認めてしまったら、私はもう……。
気がつくと、ごめんなさいという言葉を何度も繰り返していた。床に水滴が落ちたようなシミがいくつかできている。私にも涙が流せたようだった。
随分と久しぶりに泣いた気がする。しばらくは何も考えずに、床に座り続けていた。
携帯電話を手に取り電源を切る。とりあえず、部屋の鍵を外した。
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└宛名のないメールは小瓶に手紙を入れて海に流すような場所です。
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