ナツノマボロシ
俺はいつも、彼女のことを想っていた。たとえ存在していなくとも。

[編集]




 ある日、昼休みに高校の廊下を歩いていると素行の悪い同級生に呼び止められた。その男子は中学生のときに俺をいじめていた、いけ好かない奴だった。

「おい高村」

 気づかないふりをして通り過ぎる俺の作戦は見事に失敗し、その不良に腕を捕まれてしまった。背の低い俺はそいつを見上げる格好になる。

「なんだよ」

 一応は威勢よく返事をしてみたが、内心は逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。「金をだせ」というストレートな要求を拒否すると、捕まれた腕に力が加わっていく。奴は不愉快な笑顔を見せていた。

 俺が観念して財布を取り出そうとしたとき、戸神奈津の声が聞こえてきた。彼女はいつも、いいタイミングで現れる。

「なにやってるの?」

 落ち着いた声で話しかけ、鋭い視線を不良生徒に向けた。普段はあまり喋らない戸神がそうすることで威圧感が生まれる。

 彼女は過去に空手を習っていたことがあり、上級生の男子を泣かせたこともあった。そのせいか、彼女と会話をする人間は少ない。しかし俺は例外的に彼女と仲がよかった。

 戸神から発されるプレッシャーに負けた男子は、適当な言い訳をしてその場を去っていった。幼なじみである彼女は、か弱い俺を助けてくれる。かけがえのない存在だった。


「高村!」

 教師の声で現実に引き戻される。気がつくとクラスメイトの注目がこちら集まっており、居心地の悪さを感じた。

 黒板に数式が書いてある。教師は俺にあの問題を解かせようとしているようだった。答えることができずに黙ってうつむいていると、小さな笑い声が聞こえてきた。顔面の温度が上昇していくのを感じた。

 自分が、みじめで情けない存在に思えてくる。教師はため息をつくと他の生徒を指差した。その生徒は正解を答えることはできなかったが、おどけて周囲から笑いを誘っていた。俺はずっと下を向いていた。

 もやもやした気持ちを抱えたまま、机に突っ伏して、再び戸神奈津の空想にふけることにした。そうしているときが一番、落ち着いた。





 戸神奈津という想像上の人物を作り出したのは、最近になってからだ。

 俺は勉強も運動も不得意で、コミュニケーション能力も低い。外を歩くとガラの悪い人間に絡まれ、女の子とまともに話したことなんて一度もない。何か救いが欲しくなるのは当然だと思う。

 元々、子供の頃から空想して遊ぶのが好きだった。ヒーローを演じて見えない敵とよく戦っていたのを覚えている。カードゲームの対戦を一人二役でやったこともあった。

 戸神奈津のディテールは大体決まっていた。容姿端麗、頭脳明晰、運動神経抜群。自分とは真逆である。彼女に欠点があるとすれば人づき合いが苦手なことと、無愛想なところ。エネルギーに満ちた人間が苦手な俺にとっては、それくらいが調度いい。

 嫌なことがあったときは彼女のことを考えて気を紛らわせた。俺が苦しんでいるとき、決まって彼女はそばにいてくれた。もちろん、想像の中でだ。

 彼女と話しているあいだ、俺は理不尽なこの世界のことを忘れることができた。彼女は俺のことを全て分かってくれている。不快になるようなことをなにひとつ言わない。元をたどれば戸神奈津の言葉を考えているのは自分なので、それは当たり前のことなのだが。


 昼休みになるとクラスメイトの岡山と弁当を食べた。想像上では可愛い女子と一緒にいるのに、現実では太った眼鏡の男子と一緒だなんて、と残念な気持ちになる。

「今日、先生にあてられてたね」

 岡山があごの肉を揺らして話しかける。

「俺を指名するのが時間の無駄だということを、あの先生は知らないらしい」

 実際、学校で自分と仲がいいのはこの岡山ぐらいだった。彼も俺と同じように、勉強も運動もできなかった。ただ、女子から「くさいから近づかないで」と言われないだけ俺の方がマシだった。

 岡山とは基本的に漫画やゲームの話をした。隣の席でつき合い始めたばかりのカップルが、ファッション雑誌を広げながら最近公開された映画を見に行こうと約束をしていた光景は、地獄絵図にしか見えなかった。俺達と一番遠い位置にある世界だった。





 俺や岡山のような人間は、いつも教室の隅でひっそりと生活していた。人の目に触れることが嫌いで、席替えで真ん中の席に決まったときは絶望感を味わった。

 教室の中心で男子生徒が騒いでいる。それを見て女子が笑う。ただ大きな声でふざけているだけなのに、なにが面白いのだろうか。彼らのユーモアセンスの低さを、岡山と一緒に小さな声で非難しあった。

 しかし彼らをいくら見下したところで、情けない気持ちになるのは自分達だった。俺も岡山も、大勢の前で発言できるような度胸を持っていない。何人かの視線が自分に向かうと、顔は赤くなり、言葉が出なくなる。周りの人間はそんな俺達にあきれてどこかへ行ってしまう。

 俺達は色んな人とコミュニケーションを取るのに適していないのだ。だからこうやって小さなコロニーを形成して、周囲を否定する。そうやって精神の安定をはかる。恐らく、明るい彼らとは人間としての種類が違うのだろう。

 最近では、現実で幸せな毎日を過ごすことに関しては諦めていた。なるべく目立たないように、酷く心を痛めることのないように暮らす。そうしなければならないと思っている。俺のような人間が調子に乗るとろくなことがない。

 だから、空想の中ぐらいは。想像上の世界でなら、仲のいい女子の一人や二人、いてもいいだろう。頭の中で考える分には、誰にも迷惑をかけない。自分の世界に閉じこもることで俺は心の平静を保っていた。


 昼休み、屋上で戸神奈津に会った。彼女は隣のクラスなので、教室で会うことはほとんどない。他の組の教室に入るというのは勇気のいることだった。

「元気ないみたいだけど、大丈夫?」

 戸神奈津が言った。心配そうな顔をこちらに向けてくる。長い髪が風になびいている。質問に答えずに戸神の顔を眺めていると、なに、と彼女は首を傾げた。

 こんな妄想をしているやつが大丈夫なはずがなかったが、俺は笑いながら、なんでもない、とつぶやいた。俺の言葉に、彼女も笑う。





 彼女は俺の幼なじみで、小学生の頃にいじめられていた俺をよくかばってくれた。彼女は俺にとって強い味方だった。もちろん、そういう「設定」だ。

 過去に、戸神奈津が不登校に陥っていた時期があった。俺は頻繁に彼女の家に行って、学校であったことやくだらないことを話した。それを彼女は静かに聞いていた。俺が戸神に依存しているように、戸神が学校で頼ることのできる人間は俺だけだった。

「なにもなかったらいいんだけど、もしかしたらさっきの男子のことで悩んでるんじゃないかと思って」

 現実的な問題を言うと、嫌な生徒に対する悩みは本当だった。この高校には俺を昔いじめていた人間が何人かいる。絡まれて馬鹿にされる程度ならまだマシだが、酷いときは殴られたり金を取られたりする。その影響で俺はより一層、目立たない生活を心がけるようになっていた。

 このように理不尽な被害を受けたとき、決まって戸神奈津に仕返しをしてもらっていた。俺に絡んできた奴らが彼女に反撃を受ける様を想像して、ストレスを発散した。そうすると気持ちがいくらか楽になった。

「あいつらがまたなにかしてきたら言ってね。私が懲らしめてやるから」

 そう言って彼女は拳で空中を二、三発殴った。ありがとう、と照れながら返事をする。

 確かにありがたいことなのだが、彼女が懲らしめるのは空想の世界にいる男子達だ。現実の俺は、なにも抵抗できずに被害を受け続けなければならない。

 チャイムが鳴る。昼休みが終わる合図だ。ふと気づくと俺はひとりで、現実には戸神奈津などいない。そんな事実を突きつけられると、どうしようもなく寂しい気持ちが込み上げてきた。吐きそうになる。

 階段を降りながら、できるだけ何も考えないように努めた。現実のことが頭の中を占めると気分が重く沈む。自分が何もできない、みじめな人間であることを再認識させられる。できるだけ辛い事実を見ずに過ごすことが、俺にとって重要なことだった。





 異変が起こったのはその日の放課後だった。

 部活動をしていない俺は、授業が終わるとすぐに学校をあとにする。岡山は漫画同好会に入っているので、帰るのはいつもひとりだ。

 なので俺は毎日、戸神奈津と並んで帰り道を歩いた。地面に二つの影が長く伸びているように見えた。実際は、女の子と一緒に歩いたことなんて一度もない。

 道を進みながら、彼女が最近読んだ小説の話をした。有名な作家のミステリー小説だった。

「俺もこの前、その本を読んだよ」

 小説なんて読んだことはなかった。漫画とゲームの攻略本以外で、本にまともに目を通したことなんてない。知的な会話をしてみたくて、嘘の事実を作っているのだ。

 それでも会話が噛み合わない、という事態にはならない。戸神の知識は俺の知識であって、彼女がいくら頭脳明晰であっても俺の頭脳を超えることはない。彼女にとっては俺がすべてなのだから。

 ふと、赤信号に気づいて足を止める。戸神奈津は俺が車道に出そうになっても注意してくれない。自分が気づいていないものに彼女が気づくはずはないからだ。俺は二人で歩いているつもりでも、実際は男子高校生が下を向いて重い歩みを進めているようにしか見えないのだ。

「おーい!」

 後ろから聞こえてくる声に反応して振り返ると、肥満体の男がこちらに向かってくるのが見えた。歩いているような速度で走ってくる。

「あれ、部活は?」

 近くまで来た岡山に質問する。

「今日は休みになったんだ。顧問の先生が病気で」

 たまには一緒に帰ろうと思って、と彼は続けた。可愛い女子から聞きたいセリフだった。

 しかし贅沢は言っていられない。いないよりはマシだ。俺は事実上唯一の友人である岡山と一緒に歩き始めた。

「ごめん、ちょっといいかな」

「ん?」

 歩き出して数メートルもしないうちに岡山が口を開く。俺は足を止めた。

「そっちの女の子は誰?」

 彼は戸神奈津がいる方を向いて、確かにそう言った。





 岡山の視線の先には何もなかった。いや、正確には俺の想像上の人物がそこに立っている。彼女は長い髪を揺らし、岡山の顔を見た。

「こんにちは、戸神です」

 戸神奈津は言った。いや、実際に言ってはいない。無意識的に俺が喋らせているだけだ。

「僕、岡山。よろしく」

 彼は確実に戸神に対して言っている。それに戸神も答え、会話を交わしている。俺はただそれを眺めていたが、少ししてからそれが異常なことだと気づいた。あまりにも自然だったので途中までは分からなかった。

 戸神奈津は俺の頭の中だけの存在で、実際に存在しているわけではない。その戸神と岡山は会話をしているのだ。これは、ありえないことではないのか。

 これも俺の想像だというのだろうか。戸神に関しては説明がつく。特に意識をしなくても、俺が彼女の言動を操作しているのは間違いない。だが、岡山は。

 彼の出た腹を殴ってみる。なにするんだよ、と痛がる様子もなく言葉が返ってきた。拳にも感触がある。彼は俺が作り出した存在ではない。

 何故このようなことが起こっているのか理解できなかった。混乱している俺を尻目に、二人はなんの支障をきたすこともなく会話を続けている。ちゃんと言葉のキャッチボールがなされている。

 答えが見えないまま、家が別方向の岡山とは途中で別れることになった。なんの違和感もなく、また明日、と挨拶をして彼は遠ざかっていった。

 隣にいる戸神奈津を見る。何故、岡山は君が見えたのか。喋ることができたのか。そう質問しようとして、やめた。俺に分からないことが彼女に分かるはずはないのだ。

 強い風が吹いた。地面に落ちたビニール袋が舞う。いつの間にか、戸神奈津は消えていた。いや、最初からそんな人間はいない。いないはずだったのだが。





 朝、一時限目の授業の用意をしている俺のところに現れた岡山は、戸神奈津についてあれこれ問いただしてきた。

 彼女は俺の幼なじみで隣のクラスの女子だ。すでに細部まで作り込まれている戸神の情報を岡山に教えると、彼は満足そうに自分の席へと帰っていった。

 岡山は戸神奈津が俺の想像上の存在だということに気がついていない。戸神も、至って普通に岡山と接している。まるで実在しているかのように。

 授業中、俺はこの現象について考えていたが、答えは出なかった。俺がおかしいのか彼がおかしいのかの判別もつかない。

 もしかしたら神様の気まぐれか何かで、戸神奈津が実在の人間として受け入れられたのかもしれない。そんな馬鹿なことも考えたりした。いくらなんでも、それはありえない。

 俺が戸神と一緒にいても、誰も彼女に注目しない。生徒もクラスメイトも彼女と挨拶や会話を交わさない。戸神奈津は俺の頭の中だけの存在で、他人の目には何も写らないはずなのだ。

 休み時間、隣のクラスから出てきた戸神と廊下で話した。もちろん実際にはそこに戸神奈津などという人間はおらず、はたから見ればさえない男子が一人で立っているようにしか見えない。

「やあ、戸神さん」

 それなのに、何故かこの男には彼女の姿が見える。岡山の視線の先には確かに戸神奈津がいる。彼女は岡山に気がつくと軽く会釈をした。

 もう理由を考えるのはやめた方がいいのかもしれない。原理は分からないが、彼には戸神が見えているのだ。それでいいじゃないか。俺は半ば結論を出すのを諦めていた。

 岡山は普段まともに他人と話せるような人間ではないのに、戸神奈津とは普通に会話をすることができた。それは、彼が実際に人に話しかけているわけではないからだろう。恐らく、独り言をつぶやいているようなものなのだ。





 気がつくと、俺と戸神奈津がいるところに岡山を交え、三人で行動することが増えていた。地味な男子二人に戸神が加わることで、俺達のコロニーは一気に華やいだ。

 はたから見れば俺達は何も変わっていないのだろう。二人分の姿しか見えないし、二人分の言葉しか聞こえない。

 だから俺は、教室で戸神奈津と会うことを避けた。俺は彼女が実在しないことを知っているが、岡山は違う。彼が何もない空間に話しかけ、クラスメイトからさらに軽蔑した眼差しを受ける可能性がある。彼女と教室で会わないことは俺なりの配慮でもあった。

 戸神奈津と顔を合わせるのは、学校の目立たない場所や登下校中に限られた。少ない時間だったが、毎日のように会っていると自然と親密度は上がり、岡山と戸神の仲も良くなっていった。岡山は漫画同好会を休んでまで、俺達と一緒にいる時間を増やしていたようだった。


 一度、岡山の家に遊びに行ったことがあった。綺麗な外観のマンションで、彼の外見とは不釣り合いだった。実際に口に出してそう言ってみると、一瞬の間を置いてから、肩を軽く殴られた。

 彼の家は両親共働きだったので、変に気を使うこともなくのびのびと過ごすことができた。特に何をやるでもなく、テレビを見たり漫画を見たりした。センスの悪いデザインのカレンダーを戸神と一緒になって笑うと、岡山は困ったような顔をしていた。

 俺が適当に岡山の部屋を物色していると、カラフルな包装の何かを発見した。引っ張り出してみると、それは花火だった。線香花火から小型の打ち上げ花火まで、様々な種類のものが入っている。

「ああ、それね。去年買ったやつなんだ」

 いつの間にか、後ろから岡山が覗き込んでいた。

「へえ」

「親が勝手に買ってきたんだ。友達とでもやれって」

 彼の親は、彼の交遊関係がかなり寂しいことになっているのを知らないらしい。去年といえば、俺がまだ岡山と話したこともなかった頃だ。

「じゃあ、やるか」

「え」

「やろう、三人で。花火」

 話を聞いていた戸神も、賛同してくれた。岡山の申し訳なさそうな笑顔が記憶に残っている。





 夜、住宅街から少し離れた公園に俺達は集まった。春とも夏ともつかない気温の風が肌に触れる。

 花火は一年前のものだったが、ちゃんと火が着いた。空に打ち上げられて小さな花を咲かせたり、間欠泉のように吹き上がる光の集まりが辺りを照らす。綺麗な光景に俺は胸を踊らせた。

 花火の明かりが、暗闇に俺達の姿を浮かび上がらせていた。目を細めて色の変わる光を見つめている戸神を、岡山が眺めている。俺も彼女の方に視線を向ける。頬が赤や緑に照らされた彼女から、楽しそうな雰囲気が伝わってきた。

 俺が無断で着火したねずみ花火が、油断していた二人を襲う。悲鳴や笑い声をあげて俺達は花火から逃げ回った。火が消えたあとも残る笑いの余韻の中で、こういうのが青春というのだろうか、とぼんやり考えた。

 学校では何もできずにみじめな思いをしている俺も、友達と笑い合って、こんな風に過ごすことができたのだ。なんだか嬉しくなり、どこかむずがゆい気持ちになった。

 あっという間に花火は消費され、最終的に線香花火だけが残った。先端に火を灯すと、控えめに光がはじける。その場にしゃがんでそれを見つめる。

 ふと隣に目を移すと、戸神が地面に置いた線香花火を見ていた。彼女と目が合う。

「やらないのか?」

 そうたずねると戸神は首を横に振った。

「私は、いい」

 彼女の反応を見て、はっとした。彼女は線香花火を持つことができないのだ。

 花火の綺麗な光を眺める分にはなんの問題もない。でも、俺の想像上の存在である戸神は、現実のものを動かしたりすることはできないはずだ。彼女は実在していないから。

 もやもやとした感情が胸の中に広がってきた。急にどうしようもない気持ちになり、俺は立ち上がった。線香花火が手から地面に落ち、火が消えた。

 戸惑うような声を背中で聞きながら、公園を早足で立ち去った。


10


 忘れていたのかもしれない。岡山があまりにも自然に戸神と接するものだから、彼女が存在していると、一瞬でも勘違いしていたのかもしれない。

 戸神奈津なんて人間はいないと、自覚していなければならなかった。花火に照らされた横顔も、笑いながら走り回る様子も、すべて俺が作り出した幻だと、しっかりと認識していなければならなかった。

 いかなる場面でも、俺と岡山しかいなかった。華なんてない。いまだに学校のクラスに馴染めないような男子が二人いるだけだ。俺達は何もない空間に話しかけていただけなんだ。

 何が青春だ。現実逃避の末に架空の人間と遊んでいたなんて、青春を謳歌していない奴より酷いじゃないか。

 めまいを感じて立ち止まる。吐きそうになるのをこらえ、しゃがみ込む。そのとき初めて頬が濡れていることに気づいた。自然と息が漏れる。

 岡山は分かっているのだろうか。自分がただの空間と喋っていることを理解しているのだろうか。さっきの岡山の目は、明らかに戸神奈津に好意を抱いている目だった。

 もし彼が戸神奈津などいないということを知ったら、そのダメージは俺の比ではないのではないか。他人の創造した妄想を好きになってしまった彼は、どうなってしまうのだろうか。

 これ以上、岡山にこのことを黙っているのは好ましくないように思える。このままでは彼の傷を深くするだけだろう。打ち明けるのなら早い方がいい。彼のためにも。

 それに、これは自分のためでもある。いつまでも現実逃避している俺のためだ。戸神に頼ってばかりではいけない。決別して、自分の力で進んでいかなくてはいけない。

 彼女と一緒にいるのは楽しかっただろう。三人で遊んでいて、幸せだっただろう。完全に諦めたわけじゃないんだ。俺だって、明るく生きていきたいんだよ。


11


 翌朝、俺は学校で岡山が来るのを待っていた。教室には次々と生徒が登校し、いくつものコロニーを形成していく。いろんな方向から話し声が聞こえてくる。

 しばらくすると、岡山の姿が目に入った。入口付近にたまっていた生徒は自然と道をあける。うつむいて歩いている彼が俺に気づき、こちらに向かってくる。

「昨日なんで勝手に帰ったりしたんだよ」

 近づくなりそう言う彼に、ごめん、と謝ってから、大事な話があることを伝える。

「え、なに?」

 俺は周りの様子をうかがった。クラスメートは誰もこちらに注意を向けていない。わざわざ注目するようなものがこの席にないことを、彼らは知っているのだろう。

「お前さ、戸神のことをどう思ってる?」

 唐突な質問に岡山は目を丸くしていたが、少し間をあけてから小さな声で答えた。彼も周りを気にしているようだった。

「高村君、もしかして嫉妬してる? 僕が戸神さんと仲良くしてるのが気に入らないんだ?」

 だから途中で帰っちゃったんだ、と彼はつけ足した。俺が話したいのはそんなことじゃない。

「違う」

「嘘だ」

「違うって」

「違わないよ。正直に言ったらどう?」

「戸神奈津なんていないんだよ」

 正直に話した。戸神奈津なんて人間は存在しないんだ。そうつぶやくと、時間が一瞬、止まったように感じた。

「なに言ってるんだよ」

「全部、俺の妄想なんだ。あいつは俺達にしか見えないんだ。実在してないんだよ」

 戸神奈津の設定はすべて俺が考えた。自分の頭の中だけの存在だったのに、何故か岡山にも見えるようになってしまった。俺はありのままに話し、それを岡山は黙って聞いていた。

「なんで、なんでそんなこと、言うんだよ……。信じられない……!」

 彼はそう言い終わると同時に教室を飛び出していった。そのまま授業が始まり、その日は彼が教室に戻ってくることはなかった。


12


 放課後に屋上へ向かった。厚い雲が空を覆っており、風が少し肌寒かった。

 昼休みには戸神や岡山と一緒に、よくここに来ていた。他人の目を気にすることなく、くだらないことを話したりふざけ合ったりできる、俺達のお気に入りの場所だった。今はもう、誰もいない。

 休み時間に何度も屋上に行ったが、戸神奈津の姿は見つけられなかった。隣のクラスにもいない。廊下にもいない。自分が馬鹿なことをやっているのは分かっている。存在しない人間を探しているのだから。

 岡山が出ていってから、戸神奈津も姿を消していた。授業中、彼女のことをずっと考えていて分かった。顔や声を思い出そうとしても、思い出せない。隣で笑っている様子を思い浮かべることができない。あれほどリアルに想像できていたというのに。

 何かが壊れてしまった気がしていた。自分を構成していたもののバランスが崩れてしまったような、そんな感覚に陥る。心に穴があいたようだった。心どころか、体中が穴だらけになっているのではないかとも思う。

 このままではいけない。岡山に、真実を隠していたことを謝った方がいい。もう一度、ちゃんと話し合った方がいい。俺の数少ない友達なのだから。

「なんで……」

 突然、後ろから声が聞こえて振り返る。見慣れた太った男が立っていた。

「なんでいるんだよ」

「岡山……」

 悪かった、と言いながら彼に近づく。

「なんで消えてないんだよ!」

 彼の怒号が屋上に響きわたった。予想しなかったことに驚き、思考が止まる。辺りに静寂が訪れた。


13


 岡山の息づかいは荒く、目つきもいつもとは違っていた。

「戸神奈津は消すことができたのに、なんで……」

 彼は独り言のようにぶつぶつとつぶやいている。

「ちょっと、どういうことだよ。戸神が消えたのはお前のせいなのか?」

「……そうだよ。戸神奈津はいなくなった。そういうことにしたんだ」

 よく意味が分からない。彼は何を言っているのだろうか。

「戸神奈津は僕が作ったから。喋らせるのも消すのも僕の自由なんだ」

 違う。戸神は俺が想像して作り上げた。岡山じゃない。彼がどうこうできるはずがない。

「いや、僕だよ。彼女は僕が作った。そして、君も」

 そう言った岡山と目があった途端、急に息苦しさを感じた。上手く呼吸できなくなる。頭が重く痛み出す。

「高村君も、僕が作った。僕の想像なんだ」

 言葉の意味が理解できない。俺が岡山の想像上の存在だとでもいうのか。そんなはずはない。俺はこうやって実在している。

「それは君がそう思い込んでいるだけだよ。授業を受けている記憶も一緒に遊んだ記憶も、すべて僕が作った設定なんだ」

「……嘘だ」

「本当だよ。じゃあ君は、自分の名前、分かるかい? 家族や親戚の顔を知っているかい?」

 言われてみて気づいた。俺の名前はなんだ。苗字しか分からない。家族との思い出も一切ない。頭痛が酷くなっていく。

「学校で会えたらよかったから、家族の情報なんていらなかったんだ。高村君は戸神奈津に比べて、あまり作り込んでなかったしね」

 地面に膝から崩れ落ち、頭を抱える。自分のことが分からなくなる。うめき声に近い音が口から漏れた。冷たいコンクリートに横たわる。

 近くに岡山が立つ気配がする。この感覚も、作られたものなのだろうか。俺は何を信じればいいのだろうか。

「僕はただ、友達が欲しかっただけなんだ……」

 彼の声は震えていた。


14


 何時間そうしていたのか分からない。もしかしたら何日間もその場にいたのかもしれない。

 俺の近くで、ずっと岡山が話していた。何度も繰り返し、自分のことを、俺のことを説明してくれていた。

 友達のいない岡山は、高村という存在を想像で作り出した。いじめられたときや苦しい気持ちになったとき、俺に頭の中で励ましてもらっていたらしい。休み時間の話し相手にもなっていた。俺は彼にとってかけがえのない存在だった。

 あるとき、俺が岡山の思考を超えて行動していることに彼は気づいた。俺を空想の中で上手く操作できなくなっていたのだ。最初は彼自身が無意識的に俺の言動を操っているのかと思ったらしいが、そうじゃなかった。想像上の存在である俺は、自我を獲得していた。

 自分の意図しない言葉を話す俺に、岡山は戸惑っていた。しかし怖かったのは最初だけで、彼は徐々にその状況を楽しみ始めた。本当の友達ができたようで嬉しかったのだろう。

 そして岡山は戸神奈津という存在も作った。女の子と付き合いたいという気持ちから彼女を創造したようだった。戸神に自我が芽生えることはなかったが、彼女は岡山の空想の中で生き続けた。

 同じ想像上の存在である俺と戸神は、互いを普通の人間として認識し合うはずだった。岡山もそう考えていたようで、俺と戸神の輪に何も気にすることなく入り込んできた。

 しかし俺は戸神のことを自分の想像上の存在として扱っていた。岡山の頭の中にある知識や情報が俺のところに漏れ、記憶が混じってしまったことが原因らしい。岡山の説明を聞く限りはそういうことだった。

 俺は実在していない戸神に話しかける岡山を見て混乱することになった。岡山から見れば二人とも実在していないので、対等に扱っていただけなのだが。それによって色々な歯車が狂ってしまった。

「君が、戸神奈津なんて存在しないって言ったときは驚いたよ。漫画の中の人間がヒロインに向かって、こいつは存在していない、って言うようなものじゃないか」

 好き勝手に動く俺に、彼は頭を悩ませていた。だが、それが楽しくもあった。


15


「君のことを怖いと思うこともあったよ。でも、一緒に花火をしようって言ってくれたときは、本当に嬉しかったんだ」

 彼は両親とあまり仲がよくなかった。友達もいない、親も信頼できない岡山は、俺の誘いを心から喜んでいた。

 実際に夜の公園で花火をしていたのは、彼ひとりだけだ。何もない空間に向かって話し、笑いかけていた。そのときは、彼にとって友達と一緒に楽しんでいるも同然だったのだろう。

「花火には全部自分で火を着けた。君が勝手に着火したつもりのねずみ花火も、実際は僕が火を着けていたんだよ。僕はひとりで騒いでいただけなんだ」

 彼は耐え難い孤独から、俺や戸神奈津を作り出した。それに俺達は応え、彼の心の隙間を埋めた。彼が考えもしない形で、その願いを叶えた。

 俺が戸神の存在について話したあと、岡山は恐ろしくなって戸神をこの場から消してしまった。転校したという設定にしたらしい。同様に、俺のことも消滅させるつもりだったようだ。

 しかし俺は消えなかった。岡山はもう俺のことをコントロールすることが一切できなくなっていた。俺は彼の空想から離れ、完全に独立していた。

「どうすればいいか分からないんだ。もう僕の意思では君は動かない。君はこれから、どうしたい?」

 静かな時間が流れた。長い沈黙のあと、ゆっくりと立ち上がる。コンクリートに接していた肌が痛い。この感覚も実在しないというのか。そんなもの、俺は信じたくない。

「……どこだよ」

「え?」

 俺がやることは決まっていた。現実逃避のために作られた俺も、自分がいないという現実を見たくなかった。

「戸神奈津の転校先、教えてくれないか」




[編集]
[*前] [次#]

執筆はコチラから
※連載もコチラから


宛名のないメール
└宛名のないメールは小瓶に手紙を入れて海に流すような場所です。

コラムTOPへ
コミュに民へ

友達に教える



BLコンテスト・グランプリ作品
「見えない臓器の名前は」