別冊 未詳24

鈴木妙 長編作品集

コンクリートの壁をゆっくりと滴り落ちるハチミツ


 東京の血と思わしき緑の川を覆う首都高速の影よりカラスが飛び出して石切橋の欄干、私のしなだれている右へ止まれば鉄と爪、棺、と相打ち周囲は黒々とした夏の雰囲気へ急激に染まっていく。水位の上がり灰へ濁った川は橙のゴムボートを浮かべ、封鎖された石切橋をあわただしく人が行き交いぶれまくる空間のなかで救急車の白い車体だけ切り取られたように静止したまま、隊員のよく動く口は見えるが何も聞こえなかったのは通りすがりの私だったか彼らだったかという、捜索の果て死体で発見された五人の冥福を祈りつつ名も職業もはっきりしないから唾棄される問いを連れて、棺、は水面へ弧を描く。行方を追おうとした私はカラスの鳴き声にてつまづくというか、歩道と車道を分かつ石柱にハンドバッグを置いていたのに気づくのだが、外されたボタンが凹凸をさらし紐も表裏を見せながら下方へとたれる皮製の彼は、コンクリートの壁をゆっくりと滴り落ちるハチミツだとかコーヒーを飲み干したマグカップの底にできたクラゲみたいな紋様だとか、あるいはポニュケレ国の女性リュルが愛人の下でこげ茶色の肌より発する汗となる。彼女は国王タルー七世の聖別式の日に金のピンを心臓へ差し込まれた。私の思う死が数秒で変化して私は吐き気を覚え吐く代わりに深く呼吸すると茫漠たる粒子が外に出るものもあり体内を循環するものもあり、外に出た粒子は拡散し黒い羽根に付着し内に巡る粒子は麻痺感を耳の裏や目の奥や四肢の先に波打たせ、カラスが飛び立ち、波打つ麻痺感が高速道路を車が通り過ぎる音に重なって脱臼したリズムとなり、私はここに傾いだまま、カフェにいて、浜辺にいて、砂について思っていたよりもざらついた感触を左手に遊ぶ。伸ばした足先にカラス六羽ぶん届かない波は薄く、しわがれた泡を残しては消え、残しては消え、右方の岩場で男がギターにてある旋律を繰り返すのだがこれらにも区別がつかず、私は
「違うはず、違うはず」
 と節を付け異なりの明らかにつぶやき続ける。飲んでいる。獲物の体液を吸うゲンゴロウやミズカマキリの心地になろうとしたが彼らについて想像する食の際の官能に達することができずそんな官能があるのかどうかも疑わしくなり、空けた五百ミリリットルのビール缶にそれぞれ五郎・水香と名づけるにとどめ、日本酒のワンカップに移り行き胃腸に灯のともる感を覚えながら
「違うはず、違うはず」
 と節を付け異なりの明らかにつぶやき、カモメが二羽、空にて旋回しつつゆっくり高度を下げ、舞い上がり、いつだか小児が餌をばらまいていたときにはたくさん集まっていたものだと思いながら、何を見ても自分に引き寄せてしまうのを波のせいにしたくもなり、風が吹き、髪をなびかせ、四日間風呂に入っていない体の臭いはどこへ運ばれていくのか、骨と皮と肉と臓器とを海に預け魚に食われ糞になれば何か変わるわけでないことは知っているが、こういった妄想の泳ぐ様はマグロに似ていた。
「アルベルチーヌ」
 舌足らずにて歌う。それは嘘なのだ。左手の中指を砂にいざり触れた小石の尖りの刺す痛みが癖になり肌に転がしまくる。それは嘘でしかし本当で、嘘とは二回つけるから嘘なのだという茜の言を思い出すならば、常に新しい形で現出する失われた時のアルベルチーヌを幻想と断ずることはできず、彼女ら(アルベルチーヌとアンドレ、もしくは茜、あるいはそれらが一体となった別の女たち)が左の岩場で胸を触れ合わせながら踊っているような気がしたのだが、そもそもあそこにはゴキブリしかいないのだった。酒とつまみでほのかに膨むハンドバッグからFranz Ferdinand“Take Me Out”が流れ、あまりにも趣味でないものでハッと笑う。そこで母親からのメール「こんど築地でおすしを食べよう」という提言はおよそ二ヵ月後に実現するのだけれども、きらびやかに磨かれた内装の卓にて
「それでお前は何がしたいんだ」
 と父が言ったのは「マグロづくし」が終わりに近づき二本目の熱燗もぬるくなり始めた頃で、顔は赤く中学生時代の私によく学校の楽しさを述べさせていたときと同じく、その頃ニキビ浮く面をほぼ常にしかめていた私は、彼の酔いによる思考の冗漫さを許せず黙っているか知らんと言うかいろいろだよと言ったものだ。バラエティの喧騒を背後に唐揚げや焼き魚つつきつつ
「いろいろとはなんだ。どういうところが楽しいのかと聞いとるのに、そんなはっきりせんことじゃ社会では」
 などと管を巻く話頭よりも、父の声音、内容があらかじめ決まっておりまた幾度もしゃべっているからか反復するたびにねとついていく声音が嫌になり私は目線こそヤニ張り付いた彼の口へ向けるが思うのは視界の片隅に静止する家具、右のキッチンカウンター上の電話機だった。小学生時代、転校していった慶太という友人とファクシミリにて文通していたことがあったのだが、私は用紙を線で上下に分断し下半分に文章を書いていた。上半分には、当時人気のゲームに登場していた、手製の爆弾で目に触れるものを殺害することが生き甲斐であるというボンバーマンなる人物の物語を絵巻物状に描いたのだった。筋は概して正義の味方である白ボンバーが悪のテロリストである黒ボンバーを懲らしめるといったもので、たまに両者が意気投合し共通の敵を倒すといったスペシャル版が好評を博したけれども、丸を基調とするその容貌は素人ながらに描きやすく、障壁を破壊し猛獣を手なずけゴミ共を駆逐して笑う白ボンバーに私が自己を投影していたことは間違いない。そして今カフェにいる私が待つ人物こそ黒ボンバーこと慶太であって、彼は既にだいぶ遅刻しているが連絡なく、手元では三杯目のコーヒーが空になろうとしていて、二百七十円の日替わり焙煎は東京にしては良心的といえる。味もアロマといえば教科書的か、家でいれるものよりも強く植物的な香りが広がりしばらくは消えない。店内は客スペースが二畳ほどの幅で、小テーブル二つにはそれぞれカップルいて、私は壁際の長テーブルに備えられた椅子が六つすべて空いていたので手前から三番目に座り左隣にハンドバッグを置いた。詩集やらCDやらを含んだ彼はやたら歌いたくて仕方のないように膨らんでいたもののフリージャズの流れるこの空間に出番はなく、先ほど味と香りを混同して述べたが、この味覚・嗅覚そして触覚というか感覚全般の区別は完全に果たしうるものだろうか、と私は父から「それでお前は何がしたいんだ」なんて尋ねられていたときも新鮮なヤリイカ握りの歯応えに唸りながら思考していた。母が気だるげな顔で傾けるジョッキのなかビールはこの店「すし橘」の色合いと重なり、明るく広いフロアの中央の握り場から手の空いた職人がにこやかにテーブルまで来て、おすすめの品を紹介したり酒類を運んだりしてくれて、私が返すべき言葉を吟味している。
「俺はな、お前にも早く立派になって」
 急いて立身出世の雰囲気を醸す父を思春期の過ぎた私は愛しているけれども、それを意識したとたん全身に亀裂が生じクレバスとなり、「すし橘」をうまいきれいやすいさすが本場と褒めそやす我々はやはりどこかとはいわず全体的にずれており、それも取り返しがきかないほどずれているのではないか、しかし「うまいすし屋」に対する私のありきたりなイメージの方が偏見で、だいたい私はうまさのことで味に言及しておらず、いったい味とは味であろうか。「すし橘」のヤリイカに色艶が同じといえば我が下宿のユニットバス壁で、指より顕著に表面の粒々が意識され、それを念頭に居間壁を舐め眺めれば舌が無数の山脈によって縦横を貫かれた異世界を上空から探査する神の手めいてくる。部屋の手前から向かって左の壁、下方の一部にごく薄く暗い影のような染みは深海魚の化石にも舞踊するポニュケレ国人にも彼の愉楽を誘う笛にも見えるけれども、感覚としては白紙を爆風で埋め尽くす白ボンバーの破顔に近く、後にニキビ面の私が父の説教の後も自室にて精を散らしたのは言うまでもないが、精や壁の染み、ヤリイカ、浜辺の砂、波の泡、ビールの泡に、茜を付け加えてもいいし、目覚めると私がいない。慶太は煮えくり返るような嘔吐感を認め、横になったまま、床やガラステーブルにビールの缶、ワインや焼酎やウイスキーのボトルなどからパックの緑茶をつかみだし飲み、チョコレートパイを食べた。夕方に亜貴が来ることになっており、昨日は逆で起きると彼女がおらず私と会いそして招いたのだったが、ポテトチップスやコロッケのころもが散乱する状態で恋人を迎えるのは御免なので、掃除をする必要があった。時刻は正午、充分な余裕があるものの昨晩いつ寝たのか思い起こすことができず、慶太も私も禁煙の最中だったはずで紙コップに沈んだ吸殻が謎のようだ。なんとか最後の記憶を手繰り寄せると私の丸顔のぼんやりと歪んだ様が少し幸福もとい助平そうで、慶太は自分が小学生と中学生のときに好きだった女子が今は風俗嬢だということを話していた。芹香なるその子は転校したての慶太に溶け込むきっかけを率先して作ってくれ、放課後には男子と遊ぶなどさばけた性格をしていて、小学五年生のある夏の日、遊び相手が見つからず二人で公園外縁の石段に並び座っていたのだが、広場では既に低学年がサッカーに勤しんでいるし、滑り台にもアスレチックにもターザンアドベンチャーにも飽き飽きしていた。マンションの屋根に積雲がぼたっぼたっとくっついた空は暮れ始めた太陽を頂きに地面へと傾斜しているようで、芹香は人差し指を立ててしなやかに城を描くのだ。
「こんなお城に住む」
「誰と?」
 宝石を散りばめた門の守衛は狼の顔をした屈強な紳士で、慶太を招待客と認めると気品のある態度で案内を買って出る。小高い丘にちょこなんと建つ大理石の城の庭は東西の彩を散らした花畑で、「姫はベゴニアをお好みになります」とか「右方の森には鹿や兎が住み左方の湖には淡水クジラが泳いでおります」とか聞きつつ「誰と住んでいるのですか」と尋ねても返答なく、扉の前に真っ白なドレス姿の芹香姫がバスケットを持ってにこやかに
「なかはまだないの」
 と、そのまま手をつないで花の蜜を吸い森や湖を巡りエクレアがおいしい。やがて狼紳士の慇懃な礼に送られて門の外へ出ると空は暗くのっぺりと平に星を囲っている。「じゃあね」と言う「さよなら」だったか。後姿を見る暇なく家路を急ぐ、門限を過ぎているけれども右斜めからの涼しい風に回転させられるように振り向けば、空き地と公園と賃貸を分かつ十字路をじゃかっと横切るベンツ街灯にきらめいて、以降じっくり話す機会に恵まれずツメエリ・セーラーになると関係は薄れ普通に挨拶したり話したりはしたが城の話は出ずそのうちに卒業し交流は消滅していき、尿意を催し、二日酔いとは別の嫌悪感が胸に湧き、それは数時間前に私が宴もたけなわ腹を壊してトイレごもりしていたからで、まるで便器がヤリイカのようにピカピカであると確認した後、慶太は安んじて排泄の悦に浸るのだった。そこにおいて苦痛と酩酊に苛まれていた私は姉の大学の文化祭にて入手した文芸サークル誌(大学が公式に主宰した文化コンペティションの冊子かもしれない)に載っていたある小説のことを考えていた。わたしは荷物をまとめ終わる。同棲していたカレの部屋から出て行くのである。はじめわたしの性別は不明だが、後に別れる理由の一つが婚約指輪を見せられたときの底知れぬ圧迫感であると明らかにされることから女と推定される。ただ日本を舞台としているか詳らかでない。今は正午、カレは仕事中でとうぶん帰ってこない。わたしがいた痕跡となるものは塵一つなく「風みたいに消え去るのだ」と一息ついたところで小用したくなる。ここでトイレが出てくる。糞がこびりついている。誰のものなのか。ブラシで擦るのだが乾ききってなかなか取れず、ただ力を入れ擦り続けることに集中していると逆に想念がいくつか自然と浮かび上がってくる。それらは前述した婚約の申し込みであったり(ショコラも食べ終わり
「さすが高級レストラン」
 とかくつろいだわたしの言葉に彼はいっそう緊張した面持ちとなって)、とある昼にしたセックスであり(ただ目をつむってカレの腕にしがみつく以外わたしは何もしたくなかったし、しなかったけれどもその
「ハッ、ハッ、ハッ」
はかつおぶしが踊りながら汁にひたるようになって)、海岸を巡るデートであり(引き潮でサーと広がった黒い砂浜、貝殻を踏みながらクラゲの死体を避けながら歩き、いっときの水際からすれば五十メートルほど沖だった場所から陸を見るかたちで
「やっほう」
 といくど言ってもカレは手を振りもせず)、優しくもわたしの身元を引き受けてくれる親友チョコちゃんであり(昔の浅黒さからは信じられないほどきれいになった顔がわたしの悩みで犯されているからもう消えてしまいたいなんて思っていたら
「じゃああたしのうちに住んでいいよ」
 うれしい! 内容にも感激してしまうし、言ってくれた瞬間にチョコちゃんの顔から悲しみが消えて、その隙間から希望みたいな明るいものがしゅるしゅる満ちていく。いっしょに住んでかわいい友だちをたくさんでおかしなど作りわいわいするイベントを毎週末やるなんて思ったに違いない。思っていなくても話したら乗り気になるに決まっていて)、便器に少しの汚れもなくなったところでわたしふと我に返るのだけれども完璧な光沢・余す所のない現実感によって極上の気分で執行された最後のおしっこは今朝の慶太のと似ている。気がつけば私トイレ掃除していた。ワンカップを二びん空けた頃から私はわたしというか茜と海際を歩いていて、海の鳥が渦を巻いて浜の一箇所に集いつつあるなか、五歳ほどの餓鬼が両親と共にばらまく菓子的なものの落下音に耳を澄ますが後方の歓声にかき消されて歯がゆい瞬間、隣の者へ集中を欠いていると思いぐるり首を回してみると空はどこも青いと感じたそばから部分ごとに色を変えている。天蓋の中心点が真っ青で、端へ広がるにつれ白さを増していく、すると太陽はどこにあるというのか、これはわたしの記述だったかもしれず現にある空といえば日は水平線から約五十度の位置にてプロミネンスと言うのだった。しかし実際には薄い雲と海が限りなく近い色となり互いに混ざり合っており
「モ(マ)ネ」
 と茜はつぶやいたのだから日は視界から外れていた。水が遠のいて出来た左方の岩場へのおかゆの泥道、私たちは倦怠に覆われ、人という漢字において一画目と二画目が互いに寄りかかりすぎて力の具合を少しでも変えたら双方が奈落へ落ちると宣告されていくらか経つようであった。茜は両腕を直角に近く曲げてしきりな痙攣と共に「あー」状を叫んだ。高低や強弱をしきりに変え、ときにはかすれさせて息継ぎを繰り返しながら「あー」なんて言ったが、「うー」や「えー」状にもなり、ア行のいずれなのかの認識も含めてあらゆるメロディやリズムを拒み、それは音楽となっていて、嗚咽へ変わり、やがて透明な呼の感じになった。茜の肌から白さが宙へ漏れ出していき逆に青さや泥を付着させ私は脳みそが爪から飛び出そうな気分になった一方で後方の声がサッカーをやっている人らのものであることを確かめることも欠かさなかった。そのうちに茜が落ち着いた調子で何か言った。それは「こうしたい」「こわしたい」「ころしたい」の類だが、対象はわたしであったし、玉蹴りの集団やカモメ、カモメに餌をやる家族ならびに、ミニサイズの太陽や沖に浮かぶ漁船をつまんで食べ「これしそ梅じゃん」と言えないことや先ほどの叫びを経た後におかゆ泥へと倒れ転げまわることのできない自分自身でもあった。今こそが時機である。私は左方の岩場へと駆け出した。茜も走った。慶太の便器はあれこそこびりついていなかったものの、ぎざぎざに変色しており便座を上げた裏にもクリーム状のねとつきが張り付いていて、恋人の来訪に際してダイニングこそ綺麗にするくせにこの矛盾はと思わせなくもなく、果たして私が来る前の晩に来たのは本当に亜貴だったのか、カレが遊んでるとかの噂を聞いたなんてチョコちゃんは言うけれどわたしは信じるんだ、そう決めたんだ、決めたんだ、全速力で走って生じた茜との差に少し振り向けば彼女の目や鼻や口は薄い光へ流れ去って、残された顔面では厚いまぶたの奥から血が流れうつろな視線がこちらへ至る前に下へ落ちていった、そして再び左右に並んで進み残り十メートルほどの地点に達したときに認識したのだが、岩場じゅうで黒茶い物体が奥へ奥へぞろめきあがる、無数のあれ、そのさなかへと革のハンドバッグを振りかぶる、私は磨き上げられた陶器の白々しさにほれぼれしながら吐いた。
「十万円で私を買って」
 と言ったのだった。

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