別冊 未詳24

鈴木妙 長編作品集

どこかに落ち着いて得をする思いはなかった


 灰皿の置き場所がない。あの虫はどこへ逃げたのだろう。
「気持ちいい」
 と私は言った。そうですか。右の茶碗にはガラス玉がひとつ、もう一方にはいっぱいの生クリーム、布団に裸の女が仰向き、上げた両腕を手首で、伸ばした両足をくるぶしで、交差させて、実際に拘束されているのかもしれない。新しい毛の生えだした腋から左胸の輪郭をなぞるように口紅で線が始まっていた。鎖骨へ至ると下降し、へその周りを一巡し、茂みを通り過ぎ性器の入り口で二つに分かれて内股から足裏へ達する。そこは両方とも塗り潰されていた。
 哄笑が起こった。隣室の男だった。笑いながら、
「使えねえ」
「ざけんじゃねえ」
 などと怒鳴り、数年前に流行したラブソングの断片を歌いもするのだが、音程は外れていた。目の前に横たわる女の笑いはもう少し常人の態だったから、舌や紅をより微分音的に這わせることができて、そのうれしさは壁を這う茶羽根を見つけ、追い、見失っても続いたというか、足跡とそれ以外のなめ比べが編み出されたので増されたくらいだったので、ほんとうにあの虫けらはどこへ逃げたのか?
 ガラス玉をつまみ出す。半年ほど前にラムネの瓶から取り出しておいたものだ。生クリームをまんべんなくつけた後、左手の灰皿で少し汚し、飲み込む。これは先ほど見た夢のなか私が実際に行っていた行為で、なんとなくやってみたら、おいしいではないか。腹で灰とガラス玉と生クリームがそれぞれ剥がれていく様子を確信することはできなかった。まず腹が重くなり徐々に吐き気が膨らんできたけれど、寝る前に飲みまくったスコッチの影響がなかったはずはない。
 頭皮はかゆかった。昨晩はシャンプーをワインで流したのだった。私たちの関係は以前の、挨拶や雑談を何気なく交わすものよりも遠くなっていくだろう。窓を開くとすえた臭いが入りこむ。向かいの大家に住む犬が春先ひどい臭いを発するのだ。「しそうのうろ」と母親が言っていた。「しそうのうろ」とはなんだろうか。はたして毎年同じ時期にやってくるものなのか。
 歯槽膿漏であった。デジタル大辞泉によると「歯槽部で歯を支えている周囲の組織が炎症を起こし、うみがたまってくる疾患。口臭があり、進行すると歯が抜ける」とある。なるほど。これには友人もかかっていた。堪能した。ミスターチルドレンを歌っていた隣室の男が、
「死ねよお前」
 と言った。
「俺が誰かわかってんのか」
 返事が聞こえたことはない。
「わかってんじゃねえよ!」
 ともかく灰皿の置き場所を探そう。部屋に物が溢れているわけではない、どこであろうと落ち着かない気がするのだ、異性の部屋で視線のやり場に困る、という比喩は実にレトリックで、実際はなんなりとたたずんでいたように記憶しているが、現在なんなりと手首が疲れた点もひとつの相違である。持ち変える。生クリームがつく。食欲が芽生え、すぐに萎える。犬の臭いに?
 裸の女がひときわ高く鼾をかいた。華やかな顔立ちの割に色は薄く戯れ初めの三日は水を浴びさせなかったのだが特に翳る箇所もなかった。左目尻とうなじのほくろは隅々を数えられた後では光を失ってひたすらあった。今もし彼女の背中であの甲虫が潰れていたら、と私は思った。感情の震えが先にあって、そういう連想をしたのかもしれなかった。体内でたゆたうガラス球を私は感じることがない。ガラス球のたゆたう様子を、との言い換えは、やはりできなくて、あるいは灰皿も裏返しにしてあげれば、どこにでも落ち着けるのだった。どこかに落ち着いて得をする思いはなかった。
「茜さん」
 と呼びかけた。確かそんな名前だった気がした。確かな名前に興味はなかった。そのまま同じことを言いながら私は裸の女に近づくのだが、ぼんやりと考えていたのは僕のこと、というよりも僕の言っていたことで、「ロゴスとはこちらが物事を正しく解釈するのではなくて、物事がそのままあるところのものを見るということなのです」、あるいはこう付け加えたのかもしれない、「あなたの好きな人の辞を借りるなら」、そうではなくて、電車が地上に出ることでほどよく薄くなるはずの空気が、意外と強かった夕焼けに、言葉ともども東へかっ飛ばされてしまった窒息の感じへ、私の涙は依拠していたのか、あらわに染まり上がった膝頭にあせったせいであったのか、実は嫌悪で、僕の表情が歪んだせいであったのか、どれもなのか。
 すれすれに乳房を重ね合わせて(私のほうがじゃっかん大きく形は彼女のほうが整っていた。好みとしては人それぞれではないだろうか)静止し、茜さん、と続けていたら、ひんやりとぬくい感触が根を伸ばしてきて、私は昨日の名、おとといの名、といった具合に遡行する。散り損ねた桜みたいな口からのぞく前歯のぬめり気をまとった艶と視線で刺激を交わしていたら、彼女の指が背中にそっと触れて、浸る間を削ったのはどちらだっただろう、次の瞬間、私は罠にかかったように痛く抱かれながら、彼女の唇を吸っていた。いつも一口目は彼女が吸う側で、ことはその哀れみを請う調子、稚児めいた欺瞞から始まるのだったが、このケースは、だから初めてで、すごくよくて、でもそれは、おしまい、ということだった。
「終わりなんてありません」
 と僕は言った。教室で、図書室で、駅のホームで、マクドナルドで、バスの発着所で、電話口で、鼻息も荒く断じた、終わりがなかったなら、どうやって始まればいいのだろう、と私は思っていた、今も茜が沈黙のうち、出て行ったこの部屋において、いつのまにどこへ灰皿を置いたのだろう、みたいにしか考えていけないとすれば、地下鉄のときも違うときも、泣くのを許してくれたことは、「死だって終わりではない」とか口にした際の臭いが錯覚ではない証拠となるのだ。僕の浮ついた青みは受話器ごしにも漂ってきたのだった。
 ミスチルがスピッツに移行しているではないか。
 守山貞夫ブログが更新されていた。彼は本名を池澤なにがしといい高校時代の同級生で、別れた彼女へのストーキングが一躍彼の名を馳せたのだったが、地元の大学にてサークルの幹事長となったのをきっかけにブログを始め、止めどきを逸したとかで役職を降りた現在も三日に一度ほど書き続けている。待ち合わせの時間まで三十分ほどあった。読んで風呂に入りドライヤーをかけ終える頃に電話がかかってくるのだろう。まあいいか、と思っていた。あ、そうですか。

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