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[1] すこやかな白痴

 「ダダは何も意味しない」という一句を書いたのがトリスタン・ツァラである。1916年、チュリッヒで誕生した「ダダイズム」の創始者の一人だ。冒頭の句は1918年に執筆された「ダダ宣言1918」の中に登場する。
 しかし言葉が何も意味しないということは可能だろうか。詩人であったツァラは、数多くの詩作品を残している。彼の詩は言葉が無造作に切り刻まれ、つなぎ合わされ、まるでコラージュ作品のようである。別のダダ宣言「弱き恋と苦い愛についてのダダ宣言」の中では、ルイス・キャロルが「帽子の中の言葉」として発明した手法が、「ダダイストの詩を作るには」という、レシピのような一節にまとめられている。曰く「新聞をとりなさい、鋏をとりなさい……」。新聞から気に入った記事を選び、単語ごとに文節して、袋に入れ、ランダムに取り出した順に並べれば、ダダイストの詩が作れるというわけである。こうすれば、万人に理解されないとはいえ、誰でもオリジナルな詩人になれるのだそうだ。ご丁寧にもツァラは、作例まで注釈の中に添付してくれている。
 私たちはこれを真に受けてはいけない。なぜなら、ダダイズムそのものが、ユーモアであり、アイロニーだったからだ。ツァラの回想によれば、彼らはまず、彼らのグループの雑誌を作ろうとした。その名前として、「ダダ」という名前を考案した。「イズム」をくっつけたのは、当時アートシーンを座巻していたフュチュリズム(未来派)やキュビズムへのアイロニーだったのだそうだ。
 ダダは何者であるか、と尋ねると、ダダイストたちは「僕らも知りません」とはぐらかす。実際知らないでやっていた人たちもいただろう。知らなくても、なんだか楽しいからだ。ツァラの宣言の中には、株式会社として登場したり、何か手に持って運べるもの、なくしたりできるものとして登場したりしている。「ダダは僕らの強烈さである」と、「アンチピリン氏のダダ宣言」の冒頭で高らかに謳われることが、いくらかヒントになるだろうか。ダダは、なにかものすごいエネルギーのあるもの、ユーモアのあるもの、アイロニーの塊、名付けることは出来ないが、誰の中にも存在しうる、「なにか」であった。

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 「何も意味しない」は、何を意味するか。なぞなぞのような問いだけれども、ダダの真の意図を理解するためには、そして「ダダはモダンではありません」と、未来派やキュビズム、シュルレアリズムとあくまでも一線を画したがったツァラの本心を、私たちの実際の生活において生かすためには、ここをちゃんと抑えておかなければいけない。なにしろ、「ダダは一種の精神状態」で、「人は嬉しかったり、悲しかったりするのと同じように、ダダである」とまで、ツァラは言うのである。そうまで言われては、私たちの精神状態の一つであるらしいダダを、何かよくわからないもので終わらせるのではなく、しっかりと認識し、そのダダ的な状態をポジティブに人生に取り入れたい、と思うのが人情ではないか。言うまでもなくダダは魅力的だ。ユーモア、強烈さ、アイロニー、冗談。これらキラキラと煌めくものたちを携えて、ダダは私たちを、ズドンとやってしまった。上からも、下からも。
 ではそのダダを考えてゆくために、もう少しダダ宣言に注目してみよう。ダダ宣言、特に「弱き恋と苦い愛についてのダダ宣言」の中で、繰り返し登場する言葉、それは「白痴(L'idiot)」である。
 「僕らに欠けているもの、興味をそそるもの、稀有な個人の持つ異常性、おおいなる反人間の自由な生気、ゆえに滅多に見られぬもの、それは 白痴だ。ダダは総力をあげて、いたるところで白痴の復権に努めるのだ。しかも意識的に、である。そしてみずからもますます白痴になろうと志向するのだ。」
 念のためラルース仏語辞典で、「idiot」をひいてみた。「1.知性や良識の欠如した人。2.知性の無い人。3.白痴性(idiotie)を持つ人。」この解説の、なんと間の抜けたことだろう。「idiot」は辞書の中には収容しきれないのだ。少なくともこの中には、ツァラが「白痴の復権」という時に意図した「idiot」の強さはない。でもこれはこれで愉快な解説なので、良しとしようか。白痴とは、と聞かれて白痴性を持つ人、と答えるなんて、はぐらかしもいいとこである。ダダだ。

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 私はこの「白痴」を理解するためには、やはり「白痴」という名前の本を読んだらいいと思う。ドフトエフスキーと、坂口安吾がいるけれど、時代性、地域性を鑑みても、いや鑑みなくても、坂口安吾のほうがすてきだ。しかし戦争の中で生まれてきたなにものか、という点では、やはり鑑みてみてもいいかもしれない。安吾の「白痴」は、ツァラの「ダダ」と通底している気がする。「白痴」は戦争中の物語で、主人公はテレビ局の演出助手、芸術を志しマスコミの愚かさに嫌気がさしている青年だ。この青年がある日仕事から帰ってくると、押し入れの中に、白痴の女が隠れていた。この白痴の女は、彼の下宿の隣に住む気違いの妻で、夜中に人妻を帰すのも気が引けて、一晩泊め、それから空襲で辺り一面が焼けるまで彼はずっと白痴の女を隠して一緒に生活する。
 この短編の中に、次のように書かれてある。「なまじいに人間らしい分別が、なぜ必要であろうか。白痴の心の素直さを彼自身も亦もつことが人間の恥辱であろうか。俺にもこの白痴のような心、幼い、そして素直な心が何より必要だったのだ。俺はそれをどこかへ忘れ、ただあくせくした人間共の思考の中でうすぎたなく汚れ、虚妄の影を追い、ひどく疲れていただけだ。」
 この青年の心情は、「ダダは総力をあげて、いたるところで白痴の復権に努める」、「そしてみずからもますます白痴になろうと志向する」と叫んだツァラのそれと、同じではないだろうか。「なまじいに人間らしい分別が、なぜ必要であろうか。」ダダが知性を放棄したがり、あらゆるシステムを破壊しようとした根底にも、この思いがあったのではないか。

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 そう考えると、「ダダは何も意味しない」はますます深淵な意味を持って私たちを包みだす。私は常々、この言葉が一人歩きをし、何も意味しなければ何でも良いかのように受け取られたり、反対に、何も意味していないのなら読んでも意味がないと、ツァラの詩が敬遠されたりすることを非常に残念に思っていた。果ては「Dada means nothing」は「nothing」を意味しているのか、何も意味していないのかどっちだ、などという、一見哲学的で、実はそれこそ意味不明な話題に頭を悩ませてみたり。またブルトンと比較して、「何も意味しない」というのを一つの終末的な方法論と見なし、ツァラは天才だから、何も意味しないことの向こうに世界を見ることができた、などと、問題は、そういうことではないのである。
 シンプルであること。これだ。「ダダ宣言1918」に登場する力強い一節、「活発な単純さ。」まずもう、これだけである。だから、考えても無駄なのだ。考えないということが、「白痴」である。しかし「白痴」は復権されるべきなのだ。「道徳性とは、すべての人間の血管にチョコレートを注入することだ」と彼は言う。考えるだに恐ろしい、ドロドロの血液、コレステロールに充ち満ちた、緩慢な赤血球の歩み。その意味するところは、魂の死である。なんて不健康だろう。健康に生きたい。みんな健康に生きたがっている。生きるとは、健康ということだ。すこやかにあれ。
 ダダイズムは、魂の健康を求めた運動であったと、私はここに言おう。否定と破壊の運動、などというから、妙な誤解が生まれたり、誤解のもとに妙なものが作られたりするのだ。そうではない。ダダイズムは健康のための運動だった。有名な「ダダ宣言1918」の締めの言葉、「自由、ダダ、ダダ、ダダ、それは痙攣する苦痛の叫喚、相互背反と、あらゆる矛盾と、グロテスクと、不条理の錯綜体、生だ。」とあるように、ダダが最終的に持ってきたもの、何を否定しても最後まで守り通したものは、「生」であった。生とは、健康であることである。血管にチョコレートは詰まっていない。血液はサラサラと軽快に流れ、筋肉は酸素を機敏に呼吸し、体は朗らかに動く。それ即ち「活発な単純さ」。これである。

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 だから「白痴」が重要だったのだ。「なまじいに人間らしい分別」に身を縛られ、幼く素直な心を抑圧し、社会の定めた道徳の中で疲弊し消耗してゆく。社会生活を穏便に送るためには、確かにそれは必要な苦行だ。しかし芸術にそれはいらない。むしろ社会生活が不健康なぶん、健康な呼吸を担当しているのが、芸術の領域ではないか。心臓は定期的に動かなければいけないし、指が本心に忠実になって膵臓に割り込んだら困る。だがその分、口は吸いたいものを吸い、食べたいものを食べ、朗らかに笑い、酸素を取り入れ、二酸化炭素をはき出すよう、それを担当するよう自然の神秘的な合理性により配分されたのが芸術の領域なのではないか。だから、そこでは、血管にチョコレートを詰めるような真似をしては、むしろ周りに失礼なのだ。周りが困るのである。
 ツァラの生きた時代は、サロン主体の芸術から、新しい芸術へと、時代の波がちょうど動き始めた時期であった。印象派から、キュビズム、未来派。しかしどの「イズム」も、始まりは健康だったが、それが確立されてくるにつれ、次第にアカデミックに、会社員より会社員的になっていく。組織が出来上がるとは、どの分野でもそういうことだ。だからダダは短命だった。ダダは、組織を作り上げる前に自滅した。一体何を守りたいがための、この花火のような一瞬の煌めきであったか。それは、その煌めきそのものだ。魂の健康だ。おいしい空気だ。ダダは富士山頂のおいしい空気、そのものである。
 おいしい空気は、缶詰になって市場に出回る。スモッグや排気ガスにまみれた都会で、おいしい空気を吸うために、人はありがたがって缶詰を買う。ツァラの詩集は、その缶詰みたいなものだ。しかしそれを消費しているだけでは、生産的でないし、買ってばかりでは、いずれお金もなくなる。だから、私たちは、自分が自分で、おいしい空気の発生装置にならなければならない。健康の自家発電である。むしろ植物のようになれたら一番いい。二酸化炭素を吸って、酸素を作り出す部分を自分の中に持っていれば、そうして作った酸素を自分で吸えるのだから、経済的だ。ツァラは言っているではないか、「誰でもがダダイストになれる」と、「人は嬉しかったり悲しかったりするように、ダダである」と。ダダはどこか遠くから私たちの生活リズムを直撃した否定と破壊の運動ではない。そうではなく、私たちのいちばんの中心にささやく魂の声、すこやかな声に人権を与え、自由に呼吸させようとしたのである。それが「白痴の復権」であろう。

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 「ダダは何も意味しない」、この、意味のゼロ性の、0の丸の向こう側に、無限の世界がある。よく見てみれば、それは生まれたばかりの赤ん坊が、空気を吸おうとしていっぱいに口を開いている様のようではないか。私たちは羊水から引き離されたこの世界で、なるべく澄んだ空気を吸い、健康に生きなければいけない。単純に、活発に。誰もが、白痴の女を押し入れに隠している。ダダはそれを解き放ったのだ。いきいきと生きるための、ダダ。澄んだ空気、ダダ。星々の煌めき、向かってくる流星、噴出するマグマ、あらゆるきらきらするものと、あらゆる強烈なものに、かろうじて名前を与えた、それがダダである。そこでは通常の論理は働かないし、言葉に変換するとしたら、矛盾や不道徳、苦痛に満ちたものになるかもしれない。だがそれは言葉にするから悪いのだ。意味にするから、混乱する。その強烈なエネルギーを、無変換に、そのまま感じること。ツァラの詩を読んで、それを感じたということは、読者自身の中に、そのエネルギーがあるということだ。ダダは遠くのイズムでなく、人間の健康な生のための自然な呼吸だ。あなたの呼吸、わたしの呼吸である。それを素直に行うこと、これこそが、ツァラのダダの本質、「何も意味しない」の本当の意味だったのではないかと思っている。

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