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家賃が15万でも、夕食が毎度松坂牛でも、毎月30万円の貯金が出来ていた時代が懐かしい。 こぽぽ、と急須で茶を用意しながら篠崎(しのざき)は自らの生きてきた道のりを振り返ってみた。 カアカアと巣へ帰ろうと飛び立つカラスと夕焼けが窓から見えた。 同時にぶるりと寒さを知らせる風が篠崎の頬を通った。 「もう、冬か」 不正がバレ、出向(銀行ではない他会社へ行き、毎日出向先の社員と同等に働くこと。出向後は銀行員として働ける可能性が無くなる可能性が高い)待ちとなっていた。 たてつけの悪い窓をガタガタと音を立てながらゆっくりと閉めた。閉じられたはずの窓からひゅるりと風が入った。以前、大家に電話して直してもらおうと連絡したが、二千円かかると言われてしまった。その際通帳を確認し、来月の給料で払う旨を伝えたら「支払金が用意できたらまた連絡しておくれ」と返事が帰ってきた。後払いを期待したが、これ以上文句を言うと大家への印象がこれまでより悪くなってしまう。篠崎は「わかりました」と返事をしたのだ。 築50年の篠崎の住むアパートは1Kの和室をベースとした部屋で構成されている。トイレは外で、風呂と洗濯機は室内に置ける間取りだ。 部屋をぐるりと見渡し、すっかり自分の城になってしまった古ぼけた室内を見て、フウとため息をついた。 住み始めたのは半年ほど前から。ずいぶんと居心地の良い我が家となっていた。 「おーい、この家は客に茶も出せないのかよー」 小さな台所で茶を準備していた篠崎の背後から、不服を申し立てる声がした。 「偉そうに・・・すぐに持っていく」 「役員さまの俺に、平社員のアンタが俺にそんな口聞いていいの?」 ぐっ、と篠崎は男の発言に息を飲んだ。以前はこの男の上司をしていたこともある自分ではあるが、現在はただの平社員なのだ。本来ならば役員をしている久山(くやま)と平社員の篠崎は業務で係わり合いは無いはずなのだ。 ましてや不正などをしでかし、クビを言い渡されるか、出向の辞令を待つだけの篠崎が簡単にくだけた口調で話せる身分の相手ではなかったことを思い出す。そのことを考えると、篠崎は急にドクドクと心臓の音が大きく聞こえ始めた気がした。懲戒解雇をされても文句の言えない篠崎のことを、久山が頭首に悪い印象を何か吹き込んだらと思うとどっと汗が出た。 久山が解雇の権限を直接持っているわけではないが、久山が一言人事部や頭首あたりに「篠崎はクビにしたほうがいい」と言えば、かなり高い可能性で解雇されてしまう。 「すみません・・・」 ム、と久山が眉を寄せた。「偉そうにするな」と昔と同様に噛み付かれるかと期待していた。 しかし予想に反して、篠崎は両手で持った茶を持ち、恐怖の混じった顔でうつむいていた。 肩がふるえている。 久山は少しいじめすぎたと反省した。冗談で言ったつもりが本気でとらえられてしまった。 「冗談だって。タメ口で話してくれよ」 「は、はい・・・」 茶の入った陶器を置く手がカタカタと震えていた。相当怖がらせてしまったのかと久山は頭をポリ、とかいた。 「あの、今日はどんなご用件で・・・?」 久山はタメ口で話さない篠崎に違和感を感じた。 「ほんとに、昨日も言ったけどあんたには呼び捨てで呼んでもらった方がしっくりくるんだ。さっきのは冗談だから、暗い顔はしないでくれ。命令口調のあんたに戻ってくれよ」 「・・・そう、言われても」 改めて、役員である久山に失礼な態度をとってしまうことでこの先どんなリスクが待っているのか再確認したところだ。自然と平社員も同然の自分の立場をわきまえてしまう。 「じゃあわかった。上司命令だ。居間から俺を呼び捨てで呼ぶこと。そんでむかしみたいに命令口調で話すこと」 「何か嫌なことを言ってしまっても・・・と、頭首に告げ口はしない・・・か?」 「するわけねぇって」 ズズズと久山は篠崎が淹れた茶をうまそうに飲み、ドンと円卓のちゃぶ台に置いた。 「本題なんだけどな」 「な、なんだ・・?」 篠崎はドキドキとした。まさか懲戒解雇の報告でもされるんじゃないかと冷や冷やしていた。 篠崎にはもうひとつ銀行側にはバレたくない秘密を持っている。 それは、高校を卒業するまでの18年間、「ヤ」のつく暴力団関係者と一緒に住んでいたことだ。 現在は絶縁状態だと主張したとしても、血筋はヤクザを統括している組長と同じものを持っているのだ。銀行員生命を遂したい篠崎にとっては一生隠しておきたい事項だ。それが久山に知られたのかと手が震えた。 暴力団と関係があるなどと知られては、それこそ出向どころかクビ確定だ 「顔、見に来た」 「か、かお・・・?他に用事は・・・?」 「他にはなーんも用事なんかねえよ」 「・・・え?なんも・・用事が無いのに来たのか?」 篠崎は拍子抜けした。 銀行に対してあるまじきことをしでかしてしまった。その上層の人間として久山は何かいやみの一つでも言いに来たのだろうと篠崎は思っていたのだ。 ズズ・・・と久山が茶をすする。 「だから、アンタの情けない顔を見に来たんだって」 やはり、いやみを言いたいだけかと篠崎はしょんぼりする。 「すみません・・・」 反射的に篠崎は謝まった。久山は「しまった」と口にした。久山は人をからかうのが好きだ。特に、昔から篠崎をからかうのが一番楽しかった。以前と同じ調子で口についてしまったが、今の精神状態の篠崎には酷過ぎるイジメのようなものにしからならないのだ。それをとっさに思い出し、フォローする。 「謝まってもらうために来たわけじゃない。まあ、元気そうで何よりだ。出向先はなるべくいいところにしてやるように、人事部に口添えしといてやるよ」 暗かった篠崎の顔が少し明るくなり、涙ぐみながら頭を下げた。 不正を起こしてから、周りは敵だらけだった。今まで見方だった頭首にも見放されてしまった。 自分のために動いてくれる人間など一人もいなかったのだ。 今後、これから先もこのような状態が続くのだろうと覚悟していたが、つらいものはつらい。 不正を知った上で優しい言葉をかけてくれたことが嬉しい。じんわりと体の奥が温まる感覚がした。 深く頭を下げているので、ちゃぶ台と篠崎の頭が当たっていた。 「ありがとう・・・私のような・・・卑怯者に親切にしてくれて」 久山はギョッとした。元上司にこのように頭を下げられたいわけではない。慌てて久山は篠崎の頭を上げさせる。 「やめてくれよ、篠崎さん。まだ30代だろ。これから出向先でなんとでもやり直せるじゃねえか。なんでそんなに・・・下手(したて)に出るんだよ」 篠崎は至上最年少での支店長を経験し、その後も銀行に大きな利益を数々と残した天才バンカーだった。 天然で抜けているところも少々あるが、銀行の窮地のピンチには誰もが目を見張る方法で乗り切る、堂々としている篠崎は久山にとってあとにも先にも一人しかいない憧れの存在だった。 不正がバレた現在も懲戒免職にならないのは、過去の栄光のたまものである。 うつむき、久山に何か他にいやみを言われるのを待つように正座している篠崎を見兼ねて、久山は話を別に向けることした。 「なんで篠崎さん、こんな古い家に住んでんの?支店長も経験もあったんんだし、たんまり貯金あるだろ」 いくら貯金好きだったとしても、このアパートはあまりにも古すぎるという印象を持っていた。 「いや・・・恥ずかしながら、貯金は今ゼロなんだ」 ピクリと久山の眉が驚きであ上がる。 「・・・株にでも手を出したのかよ」 「いや・・・全て、頭首に渡してしまったんだ」 「そんな話、頭首からは聞いてない」 「えっ・・・頭首の息子さんの君なら知っていると思っていたんだが・・・」 「なんだよ、どういうことだよ」 よくよく篠崎の着ているYシャツや、履いているを見てみると、安物のソレであることに気付いた。以前はイタリア製のブランドものを着こなしていたことを思い出す。その彼は今、開いた穴を縫ったような痕跡が見える靴下を履いている。 「あまり口外するような話ではないから・・・その」 「いいから話せ。どうせ父に聞けばわかるんだ」 でまかせを言ってみる。 二歳上の血の通わない父親は、息子である久山に優しい。しかし仕事に関しては一切話をしてはくれないのだ。 篠崎が少し口ごもる様子を見せたので、ギロリと睨んでやった。 篠崎はビクリと肩を震わせて吐露することにした。 「頭首と話し合いをして・・・なくなってしまった二千万を全額、私の支払いで無かったことにしてくれるという約束をしてくれたんだ」 「・・・全く聞いてないな」 「他言無用にしてくれると頭首が言っていたから・・・知っている人間は上層部の数名だけだろう」 「それは・・・妥当な措置ではない気がするぞ。ほんとにアンタはそれで良かったのか」 自分の金が無くなったわけでもないのに、久山はなんだかイライラとした。 「こんな不正があったと世の中に知られたら、いっきにマスコミに押し寄せられてうちの銀行の信用がガタオチになる。それを回避するために、頭首がとってくれた措置はとてもありがたいと思っているよ」 篠崎の貯金を無くすことなく、篠崎が退職をするという道はあった。 しかしそれは銀行に多大なる迷惑をかける方法だった。頭首から今回の黙認の提案を受けたとき、篠崎は迷うことなく首をタテに降ったのだ。 収入は全盛期の頃から比べるとだいぶ少なくなってしまった。現在は高卒の初任給レベルの月収しかもらえていない。 「残額は・・どうするんだよ」 「毎月、8万円ずつ返済している。本来なら、警察に出頭して、何年かは檻で反省しなきゃいけないのに・・・働きながら返せるんだ。本当に、頭首には頭が上がらないよ。40代には払い終わる手はずなんだ」 「そーかよ・・・」 はかなげに微笑む篠崎の顔がなぜだか見ていられなくて、久山はふいと顔を背けた。 不正は銀行員として何があっても許せないことだ。しかしそれはタテマエの話に過ぎない。過去に銀行員の不正というものは幾度となく起き、それを繰り返しもみ消して我々の銀行が成り立っている。 世に知らされないだけで、掘り下げられると困る内容などたくさんあるのが銀行なのだ。 そしてもみ消されたまま責任を負わず、定年退職したバブル時代の使えない銀行員はたくさんいた。 代々金融関係の血族である久山は証券や銀行などのカネの裏事情に関する情報が自然と耳に入る環境にいた。 [newpage] 今回の件については、久山の知っている膨大な量の汚職事件にも入らないほどの微々たるものだ。 篠崎の持っている能力をかんがみれば、今回起こった横領事について久山の正直な意見としては「これくらい見過ごしてやれよ」とでも言いたいものだった。 「まあ、返済がんばれよ」 今日のところは篠崎が元気そうにしているのを確認できたので、これ以上は話すのはヤメにしようと久山は判断した。 ******** 18時ごろにやっと久山が帰ったあと、カベに貼ってあった紙を隠さないままでいたことに気付いた。 「こ、これ、見られちゃったかな・・・っ」 みるみると頭に血がめぐり、恥ずかしくなる。 紙には 今週の献立 ・月→豆腐の味噌汁、豆腐のミート ボール、キャベツの千切り ・火→乾燥わかめの味噌汁、もやしの 中華あえ ・水→キャベツの味噌汁、糸こんにゃ くのあえもの ・木→卵スープ、もやしのナムル、 ・金→目玉焼き、こんにゃくステーキ ・土→乾燥わかめの味噌汁、キャベツ のおやき ・日→だし巻き卵、小口ネギの味噌汁 以上の内容が記載されていた。 いかにも貧乏臭さがただよう己の献立を同い年で、しかも元部下に見られてしまったのではないかと思うといたたまれない気持ちになる。 一食分は必ず60円以内に抑えなければならないため、このような献立にはなってしまたのだが、客人に見えるように貼るのはよくなかったと後悔する。篠崎は奥の小さな台所にある冷蔵庫に貼りなおした。 10年ほど、このような生活を続けなければならないのかとう思うと少し気が滅入りそうになるが、自業自得だと考え直す。それでもたまに、なぜこんなことになったんだろうと日に一度は思い返してしまう。 一年前、不正に協力して欲しいと上司から言われたのがきっかけだった。 その上司の娘が余命いくばくも無い状態で、ドナーさえあれば助かると相談された。 やっとドナー提供者が現れたが、必要となる資金は2千万だ。アメリカで手術したその後も、長期間の滞在費と入院費として大金が必要だから、協力して欲しいと懇願されたのだ。 これまで働いた金銭は娘の入院や度重なる手術代で全て消え、さらにはあらゆる金融機関から金を借りているという。 彼の話としては、一時的に銀行から金を借り、働いて銀行にカネを返すというものだった。 返す意思があるのであればと篠崎は親身に話を聞いた。 1千万なら貯金から貸してあげられると上司に譲歩してみたが、足りないということだった。 篠崎自身が金融機関から1千万円借りるという手もあった。しかし身辺調査で親類にヤクがいるとバレる危険だけは避けたかった。 金を金融機関から借りるのではなく、不正をし、一時的に横領をするという話を手伝うことになった。彼はアメリカへの某大手金融企業の転職が決まっており、彼ほどの非常に有能なバンカーであれば2千万円などすぐに返す事が可能だと信じたのだ。 してはいけない事だと頭では理解していたが、新人時代から信頼し、世話になった上司の頼みを無下には出来なかった。そして頼ってくれたことが嬉しかった。加えて、ゲイだった篠崎が密かに片思いしていた相手だ。助けてやれるのは自分だけ、という高揚感が確かにあったのはまぎれもない事実。 だがその後に待っていたのは悲惨なものだった。上司だった彼は麻薬の常習犯であったのだ。銀行から横領したカネを手にしたあと、行方をくらまし、せっかく決まっていたアメリカへの転職も泡の藻屑となってしまったのだ。そして彼には娘はいなかった。 全てがウソだったのだ。 信頼第一とする銀行としてはややこしい警察とのやりとりを早く終わらせるため、篠崎に全額返済させることを約束させ、横領事件を無かったことにさせたのである。 「なるべくしてこうなったんだ」 いつもこの言葉を口にし、終わったことをこれ以上考えないようにして話を自分で切る。この言葉を言わないと、なぜこのようなことになってしまったのかなとグルグルと同じことを考えてしまうからだ。 ************* [newpage] 翌日。 「あ、あの・・・?」 「おせーぞ」 アパートの前でタバコをくゆらせていたのは昨日訪問に来た久山だった。 「お、遅いって・・・役員ってこんなに早く帰ることができましたっけ・・・?」 そもそも、二日連続でいやみを言いに来るほど、今回の横領の件について頭にきているということだろうかと篠崎はビクビクと内心怯える。 「今日、コンニャクステーキなんだろ」 「え?!・・・あ、ああ。そうだが・・・やはり、あの献立は見てしまったか・・・」 ガクリと篠崎ははずかしさでうなだれる。 「食ってみたい」 「へ・・・」 「二人分ある?」 ************** 突然の久山の来訪により、二人でスーパーへ行くことになった。 今日の食費は久山が持つと言い張り、篠崎曰く、引越してから今までで一番豪勢な夕食を作ることができたという。 「コンニャクステーキって、ただの甘辛いコンニャクじゃねえか?うまいけど」 モムモムと少し濃い目に味付けされたコンニャクを咀嚼しながら久山が感想を述べた。 篠崎がサラダを取り分けながら「そう?」と嬉しそうに応えた。 「なんでそんなにニヤニヤしてるんだよ?」 「えっあ・・・ニヤニヤしてた・・・?」 「ちょっと気持ち悪いくらい口元上に上がってた」 「そ、そんなに・・・いや、不快になせたのか。すまない・・・」 (篠崎さんてこんなにスグ謝まる性格か?) なにかあれば、すぐにすみません、と頭を下げるクセがついてしまっているようだ。有能な男ならばよくわかっているはずだが、謝まる行為をこうも安っぽく使ってはいけないものである。 最前線からはずれ、また不正を犯してしまってから染み付いたクセなのだろうと久山は推測した。 「誰かと食事をするのは久しぶりなんだ」 ポソリと頬を染めて言う篠崎にドクリと久山の心臓が一回り大きく動いた気がした。 (ん・・・?なんだ今の・・・?) 一瞬起きた自分の感情がわからず、久山は少し考えがそれる。 「今は新人が処理したデータを、間違いがないか見直す作業したり、行内で足りない備品を確認したり・・・しているんだが、仕事中ずっと一人でね。昼も夜も、誰とも会話しないからこういった時間がとても嬉しいんだ」 「なんだ、久しぶりに食べる肉がうまくてニヤニヤしてるのかと思った」 「もちろん、お肉も久々ですごくおいしい。半年ぶりだ。買ってくれた君に借りができたよ」 「半年ぶり?おいおい、そりゃあ信じらんねえな」 「ほんとうさ。今の私からすれば、こま切れ豚も松坂牛に見えるよ」 ははは、と二人で笑いあいながら、チラリと篠崎のほそくなった腕や首元を見る。 昨日から気にはなっていた。 普段から健康管理をしっかりと調整できている篠崎はいつも背筋が伸びていて、風邪をまったく引かなさそうな元気があった。 しかし今では目の下にうすくクマができており、二つボタンを開けたYシャツからは鎖骨が目立った。 「アンタ、飯うまいな。なあ、明日からもここで食わせてよ。飯代払うから」 久山の突然のお願いにきょとんと大きな目をさらに大きくさせて驚いていた。 「いいけど・・・・いいのか?君みたいな男なら、こんな古い家、居心地悪いだろ・・・?」 「そんなことねえって。今日帰るのめんどくさいな。泊まってこうかな」 「!」 ************ ほぼ毎日篠崎の家に来ては食事をするようになったため、ここのところもやしが主食だった篠崎家の食事事情は肉と魚がメインとなった。 「なぁーごはんまだ?」 「もう少し」 半年前から同僚から避けられ、人恋しくなっていた篠崎にとって、この夕食の時間が一番の楽しみになっていた。 久山の分の米をよそっていたときだ。 「また、顔ニヤニヤしてる」 「えっ」 「きもちわるいなあ」 「ほ、ほっといてくれないか」 久山がクック、と笑った。決して目が大きいわけではないが、キレ長く整った顔アーモンド形の目は人を寄せ付ける魅力があった。 高校生のころ、父親に反発して家出をしていた時、モデル業で生計をたてていたという話を最近久山が話していたのを思い出す。 「なんだよ、こんどはジっと人の顔診て。なんか俺についてる?」 「いや、なんでもない」 「ふーん・・て、アンタ、顔にお弁当つけすぎじゃねえ?」 笑いながら顔についた米を指でとられた。それをパクリと久山が食べた瞬間、篠崎の顔が真っ赤になる。 「な・・・え・・・こ、め・・・!」 何してるんだ人の顔についた米を食べるな汚いと言いたかったのだが、うまく声がでず口がパクパクと空気を食べる。 「ハハ、篠崎さんが金魚みたに口あけてる」 グ、と篠崎は口を閉じた。 久山と食事を供にするようになってから半月がたとうとしていた。久山はまったく料理の手伝いをしようとはしなかったが、意外にも掃除と洗濯を進んでしてくれていた。 あいかわらず人をからかうのが好きで、冗談でペアルックのパジャマやらスリッパを買ってくる。 毎度顔を赤くする篠崎の反応が面白いというのだ。久山がノーマルで、ゲイになど興味が無いというのは支店長時代だったときに知っている。 それでも、恋愛対象が男性である以上、ドキドキと高鳴る鼓動を止めるのは難しいことだった。 「アンタが金魚として夜店に出てたら、5円くらいなら出して飼ってやってもいいかな」 「またワケのわからないことを・・・」 行内でも確かな実力を発揮している久山だが、時折常人では理解できない例をよく口にする。 「ワケあり商品だから5円なんだよ」 ハハ、と笑っている久山の頬をつねる。こうやって以前にやった不正でからかってくるのだ。 「君は、デリカシーを学んだ方がいい」 「知らねえの?傷ってもんは笑いに変えた方が治り早いんだぜ」 「ま、まさか、君は私の傷を癒すためにふ、不正の件を笑い話に変えてくれているのか・・?」 なんてイイヤツなんだ、と篠崎が思ったが、「いや、からかいたいだけ」と真顔で言った。 「このっ」 篠崎がやわらかめに両手で久山の再度ほほをつねる。 つねった瞬間、久山が「スキあり」と言って両脇をコチョコチョとくすぐってきた。 「あはは!わ、あははっ、ちょっヤメ・・・くすぐった・・・あははっ」 コロンとたたみの上に転がり、必死に久山の太い両腕をつかんで制止にかかるもまったく動じない。 筋力の差を感じながら、必死で久山にやめてと笑いながら懇願した。 数秒後、やっと終わりが来てふたりとも「はー、はー」と息を荒くしていた。 「はあ、は・・・30にもなった大人の遊びではないな・・・」 「まったくだ・・・はー!楽しかった。篠崎さん、あんたくすぐられるの弱いな」 「ワキなんて触られたの人生初だ。こそばゆいんだな、ワキって」 篠崎の発言に久山が固まる。 「もしかして・・・篠崎さんて恋人いたことなかったり、する?」 今度は篠崎も固まった。動揺していた。くすぐりで出た汗以上に、背中に冷や汗がつたう。応えにくい質問だった。 答えはYESだからだ。 「・・・どうだっていいだろう、・・・おかず、冷めるから、食べようじゃないか」 「あ、ああ・・・」 さすがにデリカシーの無い久山もこの質問に関しては触れてはいけない件だったことに気付き、食事を始めた。 しかしデリカシーは米粒ひとつ分しか無かったようで、夜、寝る前にまた聞き返してきた。 「篠崎さんって最後に彼女いたのいつ?」 (またか・・・) 「どうだっていいだろう、はやく布団敷いて寝なさい」 一緒に食事を取るようになったその日から、帰るのがめんどくさいからといって篠崎の家で泊まることが多くなっていた。 どうやら、最近彼女にフられたばかりで寂しくなりやすいようだった。 ちゃっかり自分用の布団を一式買って篠崎の家に常備するようになっている。枕カバーだけ洗濯したての布と交換し、久山に渡す。ちゃぶ台をふすまに立てて、川の字のように布団を敷いた。 「なあなあ、もしかして、童貞?」 「〜〜っ!だったらわるいか・・っ」 篠崎は観念し、白状することにした。 案の定、新しいネタを発掘した久山はニタ、と笑っている。 「この話は終わりだ。電気、消すぞ」 豆電球のヒモをひっぱり、部屋が暗くなる。窓から入る月の光と、道路の電灯でかろうじてお互いの顔が見えた。 「キスは?」 「は・・・え、き、きす・・?」 「キスもしたことない?」 「・・・ない、けど・・・」 「かわいそーっ」 プー!と口に手を当てて笑ってくるので、情けなさを感じた篠崎は「この話は終わりだ!」と言って布団をかぶった。 (ほんとに、久山くんはバカな男だ・・・) 目をこすると、涙が出ていた。 気になる男性から、童貞であることやキスが未経験であることをバカにされるのがこんなにもつらいことだとは知らなかった。 10分ほど、寝ようと努力をしたが、涙がぽろぽろとこぼれた。 我慢できず ずび、と鼻をすすった。 泣いているのがバレないようにしていたので、自分の鼻の音が存外大きくて自分で驚いていた。 ******************** からかうのが面白くて、その後も家に入り浸るようになった。 一緒に時間を供にするうちに、篠崎が自分に対して熱い目線を送っていることにすぐに気付いた。 ただ、これまでゲイという人間に出会ったことがなかった為、これといった確証が持てなかった。ただ、可愛いなあと思う瞬間は多々あった。 そして今日、違う感情が自分の中に混ざっていることを自覚した。 「あはは!こそばゆい!やめて・・・っ」 ころころと畳の上を転がり逃げる篠崎を押さえつける間、自分が篠崎に対して性欲的に見ていることに気がついた。 軽く触っているだけでビクビクと体をが跳ね、頬が蒸気し、笑いすぎて涙が流れていた。そのさまが、淫靡に見えたのだ。 そしてその日の夜、篠崎に触りたいと思う自分がいることに初めて気がついた。 「ずびっ」 「・・・!篠崎さん・・・泣いてる?」 「泣いて・・・っず、ない・・寝なさい・・・」 久山は電気をつけた。 篠崎は布団にくるまり顔を隠していたが、布団が少し震えていた。 泣くのを我慢しているのが丸わかりだ。 「篠崎さん、イジワルを言い過ぎた・・ごめん」 「あ、あやまらなくていい・・・」 「布団、取るよ」 「あっ、だ、だめ・・・今みっともない顔になって・・・あっ」 腕力は久山のほうが上田。簡単に布団をはがされてしまった。 枕が濡れていた。声を出さずに泣いていたことに気付いた。流した涙の量は多かった。だいぶ傷つかせてしまったのだ。久山は自分の心臓が痛くなった。 「あ・・・見ないでくれ・・・」 バカにされると思った篠崎は両腕で目をおおうように隠した。 「篠崎さん、ほんとに、悪かった」 「・・・で、電気消してくれ。見なかったことにしてほしい・・・」 「わかった。忘れる。もう、言わない」 「・・・電気」 久山はカチリと豆電球のヒモをひっぱった。同時に篠崎が布団にくるまったのを確認し、久山も寝転がった。 数分後、もそりと篠崎が布団から出て顔を洗いに行ったのが音でわかった。その間、久山なりにどのように詫びるのが一番なのか考えた。 篠崎は几帳面だ。必ず布団に入りなおす前に布団のシワを伸ばす。 その際に、久山が話しかけた。 「篠崎さん、キスしてみたいですか」 「?!・・・な、なに言って・・・その話はさっき終わりだって言っただろ・・・」 横になったまま、座る篠崎を見上げた。窓から入る外灯でかろうじて表情がわかる。 「篠崎さん、俺、本気」 「ええ・・・?」 むくりと起き上がり、久山は篠崎の向かいに座った。 「キスしてみたいなあって思ったことない?」 「う、・・・あ・・・あります・・・」 「じゃあ、一回キスためしてみようぜ。それで、さっきのイジワルはチャラだ。名案だろ」 「あの・・・その、でも、そういうことは好きな人同士でないとやっちゃいけないと・・・」 「相変わらず、固いなあ。考え方」 ************** 突然、キスをしないかと提案されて驚いた。 夢かと思うくらいの嬉しい久山の言葉に、呆然としてしまった。 あわてているうちにガッシリと腰に腕を回されてしまった。 好きな相手との予想だにしなかった距離に篠崎はいっぱいいっぱいだ。 「ホラ、目、閉じて・・・」 「ぅ・・・・」 言われた通り、目を閉じた。柔らかなものが口に当たった。 篠崎は自分が無意識に呼吸を止めていたことに気付いた。 「どう?」 「や、やわらか・・・かった、です」 「気持ち悪くなかった?」 「ぜ、ぜんぜん・・・!君は、大丈夫なのか・・・は、吐き気とか」 むしろ、ノーマルの久山のほうが気持ちわるい思いをしたんじゃないかと篠崎は心配になる。 「そうか、じゃあ続けるぞ」 「つづける・・・?」 恋愛ドラマなどを一切見ない篠崎のキスという知識は唇と唇を合わせて終わりというもののみだ。 これ以上のキスが存在することなど知りもしなかった。 唇がゆっくりと重ねられた。 「ん・・・?!」 くっついては、離れる。 たまにこすれあったりと、口付けの様々なバリエーションを体験した。 「ふむ・・・ん」 自然と鼻から抜けるような声が漏れてしまい、恥ずかしさで自分から唇を離すもすぐに追いかけられてまたキスをされた。 キスが終わるころには腰が抜けていて、篠崎は久山が好きという事以外何も考えられないほどとろけていた。 久山の胸に顔を預けるように息を整えていた際、久山にどうだったかと再度尋ねられた。 「よく、わからない・・・でもすごく幸せな気持ちになれた・・・君は、すごい・・・」 篠崎の頭を撫でる久山の手がピタリと止まった。 「ほんとうに?」 「ああ本当だよ。今のキスが・・・生きてて一番幸せな時間になると・・・思う・・・ほんとうに、ありがとう」 恋人でもないのに、このようなキスをしてくれて心から感謝をした。 何も考えられないくらい、幸せな気分になれたのは初めてだった。 「まるで、最後みたいな言い方だな、篠崎さん」 うす暗い中、久山を見上げた。 「最初で・・・最後のキスだろう・・・?」 「キスくらい、毎晩できますよ」 fin.
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