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[1] 東海村臨界事故
By 許すまじ
08-13 18:09
世界でも例のない衝撃的なこの事件が起きたのは、1999年9月30日、茨城県東海村の核燃料加工施設「JCO東海事業所」だった。
信じられないほど杜撰な作業工程が原因で臨界事故が起き、作業員の大内久(35歳)と篠原理人(39歳)が被曝した。
二人が被曝しただけでなく、臨界状態はその後も継続し、まったくコントロールのきかない「裸の原子炉」が19時間40分もの間中性子線を出し続けた。東海村は事故現場から350メートルの範囲の住民に避難を要請し、茨城県も半径10キロメートル県内の住民約31万人に屋内退避を勧告する事態へと発展した。

以下、『朽ちていった命──被曝治療 83日間の記録』より

《この日、大内は午前10時に事業所内の転換試験棟という建物で作業を始めた。核燃料サイクル開発機構の高速実験炉「常陽」で使うウラン燃料の加工作業だった。
 大内にとって、転換試験棟での作業は初めてだった。上司と同僚の三人で9月10日から作業に当たってきて、いよいよ仕上げの段階に来ていた。(中略)
 バケツで7杯目。最後のウラン溶液を同僚が流し込み始めたとき、大内はパシッという音とともに青い光を見た。臨界に達したときに放たれる「チェレンコフの光」だった。その瞬間、放射線のなかでももっともエネルギーの大きい中性子線が大内たちの体を突き抜けた。》(1112ページ)

事故の直接の原因は、安全性を無視した「裏マニュアル」が公認され、実際には「裏マニュアル」さえ無視した危険極まりない作業が、そのことを知らされないまま作業員によって行われていたことによる。

大内が浴びた放射線量は20シーベルト前後(致死量)と見られていたが、東大病院に転院してきた時には、目に見える外傷もなく元気そうで、二次被曝を恐れていた(が、その可能性はなかった)看護師たちを意外に思わせたほどだった。

しかし、被曝から6日目。3日前の転院時に採取された大内の骨髄細胞の顕微鏡写真が届けられると、《写っていたのは、ばらばらに散らばった黒い物質だった。(中略)
 染色体がばらばらに破壊されたということは、今後新しい細胞が作られないことを意味していた。》(5657ページ)
リンパ球はまったくなり、免疫力が失われてしまっていた。
《基底層の細胞の染色体が中性子線で破壊されてしまい、細胞が分裂できなくなっていた。新しい細胞が生み出されることなく、古くなった皮膚ははがれ落ちていった。体を覆い、守っていた表皮が徐々になくなり、激痛が大内を襲い始めていた。》(74ページ)

ヒロシマやナガサキの被爆者にどれほどの地獄が待ち受けていたのか、改めて私たちは知ることになる。
《浸み出した体液はこのころ、一日1リットルに達していた。(中略)
 このころの大内は目ぶたが閉じない状態になっていた。目が乾かないよう黄色い軟膏を塗っていた。ときどき、目から出血した。(中略)
 爪もはがれ落ちた。》(110ページ)

被曝から50日目の11月18日。下痢が始まってから約3週間後のこの日、ついに下血が始まる。
《下血は1日に800ミリリットルに及んだ。(中略)
 翌19日には胃や十二指腸などからも出血が始まった。
 下血や、皮膚からの体液と血液の浸み出しを合わせると、体から失われる水分は1日10リットルに達しようとしていた。》(118120ページ)

被曝から59日目の11月27日、ついに心肺が停止する。
《心臓が停止していた時間は合計で49分、自発呼吸が停止していた時間は1時間35分だった》(143ページ)が、医療スタッフの蘇生措置によって自発呼吸は再開する。
しかし、この状態を「生き返った」と呼ぶのは難しいだろう。

《臨界事故で全身に被曝した患者で、これまでもっとも長く生存したケースは9日間》(104ページ)だという。
医療スタッフの努力には敬意を表しつつも、私には疑念が消えない。大内は「死なせてもらえなかった」のではないか、と。
世界各国から招かれた被曝医療の専門家たちも、額面通り理解すれば治療方法についての意見をきくためであっただろうが、《世界でも例のない患者》(125ページ)についての医学的興味がなかったとは言えまい。

大内自身が、まだ意識があり、言葉を話すことができた時期にこう何度も叫んでいたとナースの記録にある。
《「こんなのはいやだ。このまま治療もやめて、家に帰る。帰る。」》(76ページ)
《「おれはモルモットじゃない」》(78ページ)

そして、被曝から83日目。
《1999年12月21日午後11時21分。
 大内久、死亡。享年35だった。》(169ページ)
私は驚いたが、遺体は司法解剖されることになる。
司法解剖というのは、犯罪と死因との関係を明らかにするためのものだと思っていたのだが、83日間集中治療室にいて亡くなった患者も解剖するものなのか。
事故死ではあろうが、死因の特定ではあるまいから、最期までモルモットとして扱われたのではないのか。

看護師の一人はこう振り返っている。
《「あの治療の意味がいまだにわからずにいます。大内さんの気持ちがわからないから。(中略)
 本当は、大内さんはつらかったのではないかと、大内さんはこんなつらい思いをしたくなかったのではないかと思ってしまうと、大内さんのためではなくて、大内さんのつらさなど何もわからないような人のために、自分は大内さんを生かす手伝いをしてしまったのではないかという、すごく恐ろしいことを思ってしまう。
 自分が大内さんを無理やり生かせてしまった一因になったのではないかと思うと、一生罪に感じてしまう気がするんです。》(187188ページ)
 
そして、大内と一緒に作業していて被曝した篠原も、《被曝から211日目の4月27日午前7時25分、死亡した。40歳だった。》(193ページ)


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