超肉厚&#ez0415;リアルま●こ
返信する
/38
[*前][次#][戻る]
カキコミ数371件
[11] By 侍マーケット 2008/10/10/30

>>10
結局、ロシアはオーストリアに対抗するための軍事介入として、全面動員を決定します。面白いのは、これが軍事的な意味が大きい、というか、純粋に軍事的な決定であり、政治的な配慮は見られないという点です。
どういうことかというと、この決定は、ロシアはシュリーフェンプランを知っており、ロシアが総動員をかければドイツがシュリーフェンプランを発動する可能性が極めて高い、という点については考慮されず、全面的に軍部の意向に沿ったものなのです。(ただ、ロシア皇帝ニコライ二世は、ドイツ皇帝に対して「この総動員はドイツに敵対するためのものではない」とのメッセージを送ってはいます)。

これは、当時のヨーロッパでは統帥権は独立していたため、ということだそうです(注・後述)。私もここらへんは勉強不足なのですが、いざ戦争が起きた場合は、その責任は軍が全面的に負う、ということであって、そのため軍事計画は軍人によって軍事的な視点からなされる(即ち政治家は意見しない)、ということになっていました。
したがって、ロシアはオーストリアに対抗するサラエボへの軍事介入として、全面動員を決定したわけなのでありました。
そして、それを知ったドイツは迷うことなくシュリーフェンプランに基づきフランスへ侵攻、第一次世界大戦が勃発したのでした。


[編集] [返信]
[12] By 侍マーケット 2008/10/10/30

蛇足
・注について
統帥権の独立、と書きました。ただ、これは日本の戦前戦中のそれとは異なるものです。ヨーロッパに於ける統帥権の独立とは、開戦までは政治家の仕事、いったん戦争が始まってからは軍人の仕事、といった程度の意味で、政治家と軍人の領域を分けるものと言えるのでしょう。つまり、軍人の仕事は政治家から独立している、と。
これに対し、日本の統帥権の独立はもっと過激で、政治は軍に介入しないことを意味するどころか、気に食わない内閣を倒すこともできる権限を軍に与えるものでした。ここも記憶があやふやで申し訳ないのですが、たしか当時の日本では、総理大臣が(特に)陸軍大臣の賛同を得られない場合は、内閣総辞職しなければいけませんでした。この点については記憶があやふやです。参考程度にスルーしてやってくださいm(_ _)m

頑張って書いたよ…。でも、オイラの趣味全開なので、面白いと思って見てくれる人がいるかどうか微妙ですな(爆)
(´Д`)ノシ


[編集] [返信]
[13] By 侍マーケット 2008/10/10/30

さてさて、シュリーフェンプランについてもうちょっと詳しく書きます。
シュリーフェンプランは、今まで書いてきた通り、東西に戦線を抱えることになるドイツが、ロシアがその広大な領土のため、総動員令が出てから実際に戦線に軍が配備されるまでの時間がかかるであろうことを踏まえて、ロシアの準備が整うまえにフランスを短期決戦でやっつけちまおうというものでした。

うげ、電池がやばい、ちょいと落ちます

[編集] [返信]
[14] By 侍マーケット 2008/10/10/31

>>13
続きです。
第一次世界大戦は塹壕戦のイメージが強いと思いますが、当初は全くの機動戦でした。
ドイツは右翼を厚くして左翼(独仏国境)を薄くして敵を左翼に引き込み、右翼はベルギーを迂回して包囲殲滅する意図を持っていました。対してフランスは、敵左翼に全力をかけて大突破し敵の右翼と左翼を分断する作戦を立てていました。
ちなみに、右翼左翼というのは自軍から見て右か左かを言うので、両軍が正面に対峙した時には、自軍の右翼の正面は敵軍の左翼になります。
で、実際にどうなったかと言うと…。
シュリーフェンプランは当初大胆に右翼に戦力を集中していましたが、フランスが自軍の左翼の大突破を狙っていることを見抜いた参謀総長のモルトケは、右翼から戦力を引き抜き左翼に配置しました。したがって、原案では右翼がベルギー経由でパリを押さえることになっていましたが、モルトケの修正により右翼はより小さな迂回をすることになり、パリの占領よりも敵軍の殲滅を優先したものとなりました。とはいえ実際は、最右翼はパリの目前まで至ったのですが…。

画像
[編集] [返信]
[15] By 侍マーケット 2008/10/10/31

>>14
いざ開戦となり、フランスは予定通り敵左翼の突破を狙い突撃をしていきました。しかし、薄いはずの敵戦力は予想に反して分厚く、場合によっては防御側のドイツ軍の方が優勢だったりしました。
ところで、各国将軍の一般的な常識は「攻撃は最大の防御」でした。これはある意味では正しいのですが、塹壕に隠れて鉄砲を撃つのと、そこへ突撃するために全身をさらして走って行くのではどちらが有利かは明白です。
また、戦争に勝つには果敢な精神力こそ必要不可欠だと思われていたので、フランス軍は優勢な敵にも果敢に突撃して行きました(ここらへんは旧軍と同じです)。
しかし迎え撃つドイツ軍は防御施設を備えて待ち構えていたため、フランス軍は多大な犠牲を出すだけでした。
結局フランス軍(実際は仏英連合軍)は、予定通りの突破を果たせませんでした…。


[編集] [返信]
[16] By 侍マーケット 2008/10/10/31

>>15
ここで、ドイツ軍の作戦では左翼が徐々に引き、敵を引き込んで右翼で包囲するはずでしたが、左翼を担当した将軍は、予定されていたとはいえ、撤退を潔しとせず、それどころか反撃を行いました。
余りの損害に耐えられなくなったフランス軍は、ドイツの反撃をよく防ぎながら総退却を開始します。ドイツはこれに乗じて逆襲、突撃しますが、手痛い損害を受けたりします…。


[編集] [返信]
[17] By 侍マーケット 2008/10/10/31

>>16
さて、ドイツ軍の右翼ですが、ベルギー軍の抵抗等に遭いながらもなんとか進軍して行きました。
ただ、最右翼の部隊が張り切って進軍してしまったため、他の部隊との距離が空きすぎてしまい、その間隙に敵の浸透を許す危険が生じていました。ベルギーから南下してパリの目前に至った時は、かなりの間隔が空いていました(たしか、20〜30キロ)。
このため、最右翼の軍団はこの間隔を埋めるべく、パリ目前で東に転進します。実はこの転進が、この戦いの大きな転機となりました。

さて、パリですが、パリは首都であり、またフランスの象徴とも言えます。優勢なドイツ軍右翼がパリに向かって南下して来ているため、急遽パリ防衛軍を組織します(たしか、一個軍団程度)。パリ防衛軍はパリ周辺に防御施設を作り備えます。政府はパリから脱出しました…。

画像
[編集] [返信]
[18] By 侍マーケット 2008/10/10/31

>>17
ドイツ軍最右翼は、このパリの兵力に気付いていました。しかし、ドイツでは要塞に立てこもった軍は出てこないと考えられていたため、パリの押さえに一個師団程度を配置し東に向かいました。
パリに側面をさらして移動するドイツ軍を見て取った防衛軍の司令官は、その任務がパリの防衛であるにもかかわらずパリからうって出ることを進言して受け入れられます。
虚を突かれたドイツ軍は押され、さらには前述のように間隙があったため、パリからの出撃と同時に全面的な反撃に出た英仏連合軍に耐えられず、右翼は分断されていきます。
当初予定されていたフランス軍の包囲殲滅が不可能となったばかりか、右翼の壊滅もありうると判断したドイツ軍は、総退却を決定します。
ドイツ軍は反撃を受けつつも壊走せずに退却し、数日後退したところで塹壕を掘ります。対する英仏軍も塹壕を掘り対峙します。
こうして両軍とも機動戦は失敗し、終戦まで塹壕戦になっていくのでした…。
画像
[編集] [返信]
[19] By 侍マーケット 2008/10/10/31

>>18
結局のところ、両軍とも作戦どおりにことを運べませんでした。フランス軍はドイツ軍の戦線を突破できず、ドイツ軍はフランス軍を包囲殲滅できなかったのです。
フランス軍の失敗の元凶は、攻撃一辺倒だった点にあると言えるかも知れません。このところは、太平洋戦争で万歳突撃した日本軍と同じです。一般に、攻撃と防御では、防御の方が有利と言えると思います(いつか、攻撃と防御についても書きたいなぁ゚+。(*′∇`)。+゚)。当時各国ともそうでしたが、果敢な攻撃精神をもってすれば、攻撃はうまくいくとどの将軍も考えていました。精神主義ですね
確かに精神、すなわち士気は軍隊に限らず重要なものです。しかし、科学技術の発達はそれを凌駕するもので、例えば士気旺盛な数百人の兵士が突撃しても一挺の機関銃で撃退されてしまうのでした。
ちなみに、太平洋戦争で帝国陸軍が万歳突撃を繰り返したことに関して、なぜこんな時代錯誤に陥ったのか、とよく言われますが、帝国陸軍が第一次世界大戦の陸戦を経験していないことが大きなハンディキャップとなっていたため、と言うことができるでのしょう…。
画像
[編集] [返信]
[20] By 侍マーケット 2008/10/10/31

>>19
さて、ドイツ軍の作戦がなぜうまくいかなかったかについてですが…。
ドイツ軍は伝統的に攻勢に重点を置いて作戦を立てます(ドイツから兵学を輸入した帝国陸軍も同じ傾向があります)。すなわち、敵を包囲(或いは、半包囲)して殲滅しようとするのですが、この作戦意図には致命的な欠陥といっても良いような点があるのです。それはつまり、敵が包囲されるのを嫌い後退すればうまくいかないということです。
というか、大抵は包囲されんとする軍は、玉砕するとは限らず、包囲しようとする敵に対して何らかの手を打ってきます。しかもその手を打つというのも、後退だけですんでしまうのです。
帝国陸軍はこの点に気付かず、劣勢包囲を御家芸としていました。大戦中盤から末期にかけて、米軍を劣勢包囲しようとして失敗しています…。

[編集] [返信]
[*前][次#]
返信する

[戻る]


6596


[掲示板ナビ]
☆無料で作成☆
[HP|ブログ|掲示板]
[簡単着せ替えHP]