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1.田村隆一詩集


四千の日と夜

一篇の詩が生れるためには、
われわれは殺さなければならない
多くのものを殺さなければならない
多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ

見よ、
四千の日と夜の空から
一羽の小鳥のふるえる舌がほしいばかりに、
四千の夜と四千の日の逆光線を
われわれは射殺した

聴け、
雨のふるあらゆる都市、熔鉱炉、
真夏の波止場と炭坑から
たったひとりの飢えた子供の涙がいるばかりに、
四千の日の愛と四千の日の憐みを
われわれは暗殺した

記憶せよ、
われわれの眼に見えざるものを見、
われわれの耳に聴えざるものを聴く
一匹の野良犬の恐怖がほしいばかりに、
四千の夜の想像力と四千の日のつめたい記憶を
われわれは毒殺した

一篇の詩を生むためには、
我々はいとしいものを殺さなければならない
これは死者を甦らせるただひとつの道であり、
われわれはその道を行かなければならない

 まずこの詩をよくお読みください。まず、ここで語られている思想、そしてここで語られている事実がよく理解できない、というのが多くの人の持つ感想でしょう。詩を書くために愛するものを殺す必要なんてあるのだろうか? しかも殺し方は、射殺、暗殺、毒殺と具体的に書かれています。そもそもここで言われている「多くの愛するもの」とはいったい何なのでしょう。2連目以降に、射殺の対象が「四千の夜と四千の日の逆光線」、暗殺の対象が「四千の日の愛と四千の日の憐み」、毒殺の対象が「四千の日の想像力と四千の夜のつめたい記憶」と明記されています。ですが、逆光線や憐みや想像力や記憶を殺すとはいったいどういうことでしょう。
 そもそも「四千の日と夜」の「四千」とは、敗戦からこの詩が書かれるまでに経過した日数を表しています。大体10年ということになりますね。戦後10年というと、まずはGHQの支配があり、日本国憲法が作られ、日本は非軍事化・民主化されます。農地改革によって地主から小作人は解放され、農民は勤労意欲が増し、農業は活気を増していきます。労働改革によって、労働者は団結権・団体交渉権・争議権を獲得し、資本家から搾取される立場から、より自立して意見が言える立場に変わっていきます。財閥解体によって、産業には革新的な企業が参入し、競争的な市場が形成されていきます。人々の生活においては、闇市が横行し、食糧難があり、浮浪児があふれる、そんな中で人々は貧困を克服していこうとします。1950年には朝鮮戦争があり、日本には朝鮮特需がもたらされます。 米軍が軍需物資やサービスを日本に発注したのです。これにより日本は大きな経済成長を遂げます。1951年にはサンフランシスコ講和条約・日米安保条約が締結され、日本は占領から解放されると同時に対米従属的な立場に立つようになります。1955年には、自由民主党と日本社会党が成立し、保守・革新の二大政党を軸とする55年体制ができます(以上、中村政則『戦後史』(岩波新書、2005年)参照)。このような社会的状況の下で、『四千の日と夜』という詩集は書かれ、そして、詩集のタイトルともなった、上掲した「四千の日と夜」に言う四千日とは、このような政治的な激動とその社会的反映に彩られていたのです。
 まず、「日と夜」というのは、昼と夜、あるいは一日と夜という具合で、結局一日のことを表します。だったら、「四千の日と夜」などと言わずに簡単に「四千日」と書けばよかったのではないか、という単純な疑問が起こります。ところが田村はあえて「夜」を強調した。これはある意味奇妙なこととも言えるでしょう。というのも、戦後の四千日、つまり十年間というものは、確かに食糧不足などネガティブな事情も多かったでしょうが、上で見たとおり、民主化・自由化・平等化・経済発展という、ポジティブな事情の方が多かったからです。そのようなポジティブな前進的な四千日を、あえて「四千の日と夜」と「夜」を強調しなければならなかったのは、一番大きな理由は田村の戦争体験でしょう。田村は16歳のとき、中桐雅夫編集の「LE BAL」という詩誌に参加しています。「LE BAL」のパーティーで、鮎川信夫、森川義信、衣更着信、牧野虚太郎、三好豊一郎らと知り合います。ところが、彼が18歳のときに太平洋戦争開戦。1942年、彼が19歳のとき、鮎川、中桐が陸軍に応召され、森川が戦死します。年長の文学仲間が相次いでいなくなり彼は孤独を感じます。そして、1944年、21歳のとき彼も海軍に配属されます。開戦のとき、彼は「もうおしまいだと思った」そうです(「「若い荒地」を語る」より)。いくら戦後の10年が明るさを目指していたとしても、田村はいつまでも「夜」としての戦争体験を引きずっていた。だから彼は単純に「四千日」と書かずに「四千の日と夜」と書かざるを得なかったのだと思います。
 さて、話を元に戻しましょう。四千の日と夜の逆光線や愛や憐みや想像力や記憶を殺すとはどういうことか。ここで列挙されている逆光線などは、あくまで例示に過ぎないと思います。つまり、入れるつもりになれば他の言葉をここに入れてもよかった。逆光線とは逆らってくるあらゆるものの象徴、愛などは人間のあらゆる精神活動の例示、そう読んで差し支えないと思います。つまり、この詩は、一篇の詩を書くためには、戦後10年間の光(日)と影(夜)にまつわる、逆らって来るものや精神活動を滅さなければならないということを言っているのです。これはある意味矛盾しています。つまり、戦後10年の文化的経済的発展という、「日」の部分によって引き起こされる精神活動などを殺すと同時に、戦後10年を経てもその根底に絶えず横たわっていた、戦争という「夜」の記憶によって引き起こされる精神活動などをも殺さなければならない。発展を殺し戦争の記憶へと回帰すると同時に、戦争の記憶への執着をも殺し、発展・前進へと向かおうとする、相反する二つの傾向性がここに見てとれるのです。この詩には田村のそのようなジレンマが刻印されていると言えるでしょう。

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 少し技術的な点を見ていきましょうか。まず気付くのは、この詩が非常に倫理的であるということです。「倫理的」とは、人がなすべきことを多く告知したり、人の間違いを非難したり、そういうことです。つまり、人が従うべき規範を提示して、それに反してはならないと命令し、それに反した場合はその違反を告発するということです。「われわれは殺さなければならない」という規範(ルール)の定立。「見よ」「聴け」「記憶せよ」という命令。一方で、「われわれは暗殺した」というような罪の告発もあります。倫理的であるということは、読者に対して攻撃的であるということです。読者に命令したり読者を非難したりするということです。つまり、この詩は読者に対する働きかけが非常に強い。読者の身を正したり、読者に反省を強いたり、読者の心を引き締めたりします。ところで詩というものは、多くの場合読者の感情への何らかの働きかけをするもので、読者の感情を揺り動かす抒情性が、多くの詩の存在条件となっています。ところが、田村の読者の感情を動かす仕方は特異なのです。それは単純に、読者を感動させたり読者に甘い感情を抱かせたり読者を戦慄させたり、そういう感情の動かし方をするのではなく、むしろ読者の感情を引き締め、読者の感情を純粋なものとし、さらには感情を超えて読者に意志すら抱かせます。つまり、「詩を書くためには何かを犠牲にしなければ」という意志です。倫理的であるということは、ありがちな抒情を生み出すことではなく、読者の感情を引き締めたりという特殊な抒情を生み出すことであり、それにとどまらず読者に意志すら抱かせるということでもあるわけです。
 それを踏まえた上で内容面に立ちかえりましょう。田村は、一方で、詩を作るためには愛するものを殺さなければならない、という規範を示しています。他方で「一羽の小鳥のふるえる舌がほしいばかりに、/四千の夜と四千の日の逆光線を/われわれは射殺した」と語り、詩を書く欲望のために愛するものを殺した、その詩人の罪を非難しています。「小鳥のふるえる舌がほしい」とは、結局詩を書きたいということの喩えでしょう。これを見ると、田村は倫理的態度においても分裂し、ジレンマに直面していたことが分かります。詩を書くためには殺せ、と能動的に命令する一方、詩を書くためにはしぶしぶ殺さなければならないのだ、と受動的に世界に屈服しています。そして、殺すことは結局詩を書く欲望に駆られてのことであり、それは罪なのだ、と能動的に断罪する一方、自らもその罪を犯したのだ、と受動的に懺悔もしています。結局田村は、詩を書くということがそれほどまでに倫理的なことであり、そしてその倫理性は複雑なジレンマの渦中にあるということを示しています。そして、そのジレンマを問題として読者、特に詩人に投げかけることが、結局はこの詩が最も成功裏になしえていることであるのでしょう。
 さらにもう一つ技術的な話として、この詩が定型と音楽性を備えていることを挙げる必要があると思います。まず、音楽の構成要素は原則的に楽音と呼ばれるものです。楽音とは、音の高さが明確に分かる音のことで、音の高さが良く分からない噪音と区別されます。噪音とは、自然に起こる雑音のようなものです。初期の田村の詩には、楽音に対応するような単語が好んで使われています。逆に言うと、噪音に対応するような固有名や生活語が排されているのです。固有名はあまりにも強く対象と結びついているので、対象の雑多なあり方まで詩の中に持ち込んでくるので、音楽で言ったら雑音に対応するようなものです。例えば、「岩手」というと、あの岩手県と直接に結び付き、岩手の風物やら歴史やら文化やらあらゆる雑多なものが詩の中に舞い込んできます。そして生活語はあまりにも読者の雑多な実体験と結びつきすぎて、これも雑音になります。例えば、「シャンプー」と言うと、あまりにも読者の生活と密接につながり過ぎて、生活の生々しさや煩わしさや、シャンプーにまつわる様々な雑多な実体験を呼び起こします。それに対して、「小鳥」という言葉のなんという抽象性。どんな特定の小鳥とも結びつかないゆえに、対象の生の雑多なあり方を詩の中に持ち込まず、ただ観念的に小鳥の抽象的で普遍的な性質を指し示すのみです。初期の田村の詩には、このような抽象的で観念的で、音楽を構成できる楽音に対応するような単語が好んで用いられているのです。だから、まず、構成要素の次元で、田村の詩語は、楽音に対応し、そもそも音楽を可能にします。
 次に定型の問題。「見よ、/四千の日と夜の空から/一羽の小鳥のふるえる舌がほしいばかりに、/四千の夜と四千の日の逆光線を/われわれは射殺した」第二連のこの構造は、第三連、第四連でも繰り返されています。「聴け・・・暗殺した」「記憶せよ・・・毒殺した」、ここでは、同じ構造の繰り返しにより、その構造が一つのメロディーを明確に形成し、さらに「見よ」「聴け」「記憶せよ」にアクセントが置かれることで明確なリズムが形成されています。もちろんどんな文章にでもメロディーやリズムを読み取ることは可能ですが、同じ構造、同じ型の繰り返しは、繰り返しにより強いリズム感を生み、また繰り返されることでその構造のメロディーが強調されます。定型はメロディーやリズムを明確な形で生み出すのです。
 だから、田村の詩は、そもそも音楽を構成することのできる抽象的な語によって構成され、さらに定型を持ち込むことによりメロディーとリズムを顕在化させていて、まさに音楽を奏でていると言っていいでしょう。田村の詩を読んだときの心地よさは、まさに音楽を聴いたときの心地よさと似ているのです。

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 ところで、田村は詩において多くの思想を語った詩人であります。特に詩や詩人についての思想を、詩の中で多く語っているのが特徴的です。「四千の日と夜」は、その意味でも田村の詩の特徴が見えやすい詩です。詩を書くこと、詩人のなすべきことについて書いているのですから。ところが、初めに言ったように、ここで語られる思想は難解です。理解するためには解釈が必要で、その解釈も絶対に正しいとは言い切れません。僕は、この詩の思想の解釈として、詩を書くためには、戦後の発展を殺し戦争の記憶に回帰すると同時に、戦後の記憶への執着も殺し前進することが必要だ、という解釈を提示しましたが、これが正しいという決定的な根拠はありません。
 このような思想、つまり、何か思想を語っていそうだが、当の思想をよく理解しようとすると肩透かしを食わせられて、結局思想の真の意味が良く分からない、そういう思想のことを「擬思想」と呼びましょう。まがい物の思想、という意味です。なぜそう呼ぶかというと、思想というものは、本来論理的で説得的で体系的で明快でなければならないからです。論理性などを備えていないけれど思想の外観だけは備えている、そういう記述のことを「擬思想」と呼びましょう。
 思想を詩で書くためには、擬思想にならざるを得ないと思います。本当の思想を書いてしまったら、つまり、論理性・説得性・体系性・明確性をそなえてしまったら、それはもはや論文であり詩ではなくなってしまうからです。そして、詩というものは反省や熟考を重ねて整合的な体系を備えるようなものではありません。むしろ、詩というものは、人間の脳裏をよぎる刹那的な思想や感情や認識などを、その原初的で揺らぎを含みいささか極端である、そのままの状態で写し取るものです。言葉がない状態から言葉が発生する状態への動的な移動、言葉が様々な不確定な要素を含んで混沌としているその原初的な状態を写し取るのが詩であるわけです。だとしたら、そこで現れてくる思想というものも、体系性などを備えた本物の思想になるわけがありません。思想の萌芽、つまり、まだ十分整備されていず、思いつきの熱がさめやらない、いささか極端で多義的である、そういう擬思想こそが、まさに思想が詩の中に現れるときの正しい在り方なのです。
 そして、田村の気質が、擬思想によく合っていた。著書『若い荒地』を読むと分かると思いますが、田村の散文は飄々としていて軽妙であり、逆に言えばとても浅いです。優れた批評意識や、物語をちゃんと構成する意識、物事を熟考する意識などは乏しかった人です。また、田村はお酒が好きで、お金を借りても返さない人だったようです。生島治郎によると、田村は、早川書房の編集長をやっているときでも、いつも酒気を帯びて出勤し、ただ編集室の奥の三畳間で横になっていたばかりだったそうです。「おい、そんなに仕事をしすぎるとオテント様のバチが当たるぜェ」などと言っていたそうです。(「酔っ払い編集長〜田村隆一氏のユーモア」より)。つまり、田村は社会に対する責任意識というのが薄かったのです。その責任意識の薄さが、詩にも反映されていて、熟考しない思想、体系のない思想、不明確な思想、というものを可能にしたのだと思います。責任意識が強ければ、思想を語る以上擬思想であってはならず、本当に論理性や整合性を持つ明確な思想を語らなければと思いがちだと思います。
 とりあえず第一冊目はここまで。ぜひ現代詩文庫『田村隆一詩集』を手にとってお読みになることをお勧めします。


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