返信する
[最初から全部]
[最新から全部]

[1] 有名人の死
By 許すまじ
04-05 08:14
「岡田有希子」


1983年にオーディション番組『スター誕生!』の第46回決戦大会チャンピオンとなり、芸能界入りする。
 1984年4月21日に『ファースト・デイト』でアイドル歌手としてデビュー。同年、日本歌謡大賞及び日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞。新人賞を吉川晃司と共に全て獲得する。
 1986年1月、カネボウのキャンペーン・ソング『くちびるNetwork』がベストワンとなったが、同年4月8日、自宅マンションで手首を切りガス自殺未遂。

治療の直後、所属事務所であるサンミュージックが入居しているビルの屋上から飛び降り、全身を強く打って即死。

pc
[編集] [返信]
[21] By 許すまじ
04-05 08:39
「三沢光晴」


80年代後半から90年代にかけての日本のプロレス界を代表するトップレスラーの一人であり、海外のプロレスファンの間でも評価が高い。
 「受け身の天才」と称され、どんな攻撃を受けても立ち上がってくるところから「ゾンビ三沢」とも呼ばれた。

 真面目な印象が強いが、一方でプロレス界一の下ネタ使いとしても知られ、プロレス雑誌の読者投稿欄では三沢の下ネタ・エロネタが定番となっていたほどである。

 2000年6月、全日本プロレスを離脱し、プロレスリング・ノアを旗揚げする。

 2009年6月13日、広島県立総合体育館グリーンアリーナ大会でのメインイベントにおいて、GHCタッグ選手権試合として王者組の齋藤彰俊&バイソン・スミス組に、潮崎豪とのタッグで挑戦。試合中、相手選手(齋藤彰俊)の急角度バックドロップを受けた直後、レフェリーの「動けるか?」の問いかけに「動けない」と返した後に意識不明となり心肺停止状態に陥った。
 リング上でノア選手、関係者らによる懸命の救急蘇生措置が施された後、救急車で広島大学病院に搬送されたが、午後10時10分に死亡が確認された。

 2009年6月13日死去(享年46)

pc
[編集] [返信]
[20] By 許すまじ
04-05 08:37
「香月弘美」


 昭和33年4月1日夜、兵庫県宝塚劇場の花組四月公演「春のおどり、花の中の子供たち」の上演中にそれは起きた。
 香月弘美(21)がステージからその地下へと下がっていく途中、乗っていたせり出し装置のシャフトに、着ていたドレスの裾が巻き込まれてしまう。彼女のドレスには、スカートを広げるための演出用として薄い鋼のベルトが仕込まれており、これが凶器と化した。
 スカートが巻き込まれたせいで、このベルトが彼女の腹部を締めつけ、その体を二つに切断した。
 彼女の乗っていた「セリ」と呼ばれる、舞台と地下を上下するせり出し装置はゆっくりと動く。おそらく、彼女のドレスもゆっくりと飲み込まれていったのだろう。じりじりと鋼のベルトが食い込み、その圧迫に耐えきれなくなったところで腹が割けてしまった。事故発見からスイッチ切断までに要した時間は15秒。彼女を即死させた後も、シャフトはまだ動いていたことになる。
 このとき一緒にセリに乗っていた女優・松島三那子は先に降りたのだが、3歩ほど走ったところで、香月の「やめて」という断末魔を聞いている。
 小学校から幼なじみでもあった彼女は、事故に気づいて半狂乱状態に陥り、翌日の午前3時まで意識を喪失。その後、数日間失踪している。
 奇しくも香月の出演は風邪をひいた女優・日夏有里の代役であった。事故を知った日夏もまた高熱を出し、1週間うなされたという。
 その日の公演は観客への説明もなく急遽中止。客席からは見えていなかった。

 1958年4月1日死去(享年21)

pc
[編集] [返信]
[19] By 許すまじ
04-05 08:36
「坂本九」


日本航空123便墜落事故に遭い、僅か43歳の若さで永眠。九の不慮の死は、日本音楽界・歌手界にとって大きな損失と言われた。
 九は本来、事故の多い日航を避け国内移動には必ず全日空を使っていた(所属プロダクションや由紀子夫人も「手配は必ず全日空で」と指定していたほどだった)が、この日の搭乗目的は大阪府での選挙応援であったため、チケットやホテルの手配などはすべて招待する側の立候補者の側近が担当。全日空便が満席(※事故当日のダイヤでは、日航機と同時刻・同区間で全日空機も飛んでいた)でチケットを確保できず、仕方なく確保したのが日航123便であったため、家族も乗客名簿が発表されるまで日航機に乗っているはずがないと信じていたが、事故の数日後「全日空が満席で日航しか取れませんでした」という立候補者の側近からの謝りの電話があった(由紀子夫人談)。尚、この事故で運命を共にした小宮マネージャーは、早めに羽田空港へ行き、全日空便への振替を何度も交渉したが、お盆という時節柄叶わず、やむを得ずこの事故機に乗ったという。

 1985年8月12日死去(享年43)

pc
[編集] [返信]
[18] By 許すまじ
04-05 08:34
「マリア」


1994年7月、1990年代に活躍した日本のロックバンド『T-BOLAN』のボーカリストである森友嵐士と結婚。当時T-BOLAN が人気を博していたこともあり極秘結婚であった。

 しかし、出産直後、離婚へ向けた話し合いがスタート。結婚生活は協議離婚という形で折り合いがつき、約半年で終焉を迎える。

 マリアはその理由を自身が当時開設していたHP『死にたい症候群』の中で「多重人格障害(12人)と診断される。てゆうか、バレる」と思いをつづっている。
このHPに幼少時代に父親から受けたという暴力や淫行など、つらい過去も告白していた。その反動から精神異常障害の影響により、ノイローゼにもなり、
腹を痛めて産んだ我が子に虐待してしまう事もあったという。

 その後、1998年9月に『メリーメリーマリー』の女性ボーカリストとしてメジャーデビューを果たす。後にバンド名を『JUICE THE PUNK』に改名。

 2003年に再婚。しかし、新たな夫の暴力に悩んで、直ぐに別居。離婚調停しながら5ヶ月の娘と都内を転々とし、自殺直前に子供を施設に預ける。

 2004年10月12日、埼玉県皆野町の美の山公園で、ネットで知り合った男性4名、女性2名とともにワゴン車の中で練炭自殺を図り死亡。ワゴン車はレンタカーで内側からビニールテープで目張りされ、青いシートで全体が覆われていた。

 遺書には「ごめんなさい。お母さん死んでしまうけど、あなたたちを産んでよかった」と書いてあった。

 2004年10月4日死去(享年34)

pc
[編集] [返信]
[17] By 許すまじ
04-05 08:32
「清水由貴子」


1976年2月18日、NTV『スター誕生!』第16回決戦大会最優秀賞(ピンク・レディーが同じ大会で合格。獲得の意思を示したプロダクション、レコード会社の数はピンク・レディーをはるかに上回っていた)。

 1977年3月1日、『お元気ですか』で歌手デビュー。

 第3回日本テレビ音楽祭新人賞、第4回横浜音楽祭新人賞、第6回東京音楽祭国内大会優秀新人賞、第10回新宿音楽祭銅賞、第4回FNS歌謡祭優秀新人賞、第8回日本歌謡大賞新人賞等を受賞。同期デビューの榊原郁恵・高田みづえらと共に「フレッシュ三人娘」と呼ばれた。

 歌手活動の傍らでバラエティー番組やテレビドラマにも活躍の場を広げた。

 2006年にデビュー以来所属していた芸映を独立したが、2006年3月、実母の介護を理由に芸能界を引退。

 2009年4月20日、静岡県駿東郡小山町の冨士霊園にある父親の墓前で死亡。硫化水素が充満した黒いポリ袋が顔にかかった状態で自殺しているのが見つかった。死亡時刻は20日午後5時頃。要介護5の母親が車椅子に座った状態で傍らに残されており、一時意識を失っていたが、命に別状はなかった。

 かつてテレビ番組で共演し、又デュエット曲でレコーディングした小西博之は、「自殺で死ぬなんて、僕は一生ユッコを許さない。天国なんかに絶対に行かせない。冥福も祈らない。僕が引き戻してやるから」と、突然の訃報に激怒しながら号泣していた。

 遺書に書かれた「東京では葬儀をあげないで下さい」という遺志通り、4月24日に静岡県御殿場市で密葬が営まれた。

 2009年4月20日死去(享年49)

pc
[編集] [返信]
[16] By 許すまじ
04-05 08:31
「鈴木いずみ」

静岡県伊東市生まれ。静岡県立伊東高等学校卒業後、伊東市役所に勤務。1969年退職して上京。モデル、ピンク女優を経て、1970年に「声のない日々」で第30回文學界新人賞候補となり以後作家として活動する。

 1973年に天才アルトサックスプレイヤーの阿部薫と結婚し一女をもうけるが、1978年に阿部は急死。その後はSF雑誌を中心に小説を書いていたが、1986年に自宅の二段ベッドにストッキングを使い首吊り自殺した。自分の子供のかたわらでという壮絶な死であった。

 1986年2月17日死去(享年36)

pc
[編集] [返信]
[15] By 許すまじ
04-05 08:29
「井上大輔」


1963年、ジャズ喫茶で演奏中、ジャッキー吉川・大橋道二にスカウトされジャッキー吉川とブルーコメッツに参加、リード・ヴォーカル、フルート、サックスを担当。作曲も行い、「青い瞳」「ブルー・シャトウ」などの曲を書いてヒットさせた。

 1972年のメンバーチェンジ(実質的な解散)後、作曲家に転身。「学園天国」「ランナウェイ」など、数多くのヒット曲を放った。

 その後も、劇場版『機動戦士ガンダム』シリーズの主題歌「哀・戦士」(第2作)「めぐりあい」(第3作)、コカ・コーラのCM曲「I FEEL COKE」などのソロ作品がヒットした。

 2000年5月30日末、午前5時ごろ、自宅階段の踊り場で首をつって死亡しているのを妻が発見。網膜の疾患を苦にしていたらしく、「治らない。ごめん」などと書かれたメモが見つかっている。

 2000年5月30日死去(享年58)
pc
[編集] [返信]
[14] By 許すまじ
04-05 08:28
「古尾谷雅人」


川崎市の旧家の子として誕生するも、幼少時に両親の離婚による生母との生別、その後、父が迎えた継母との不和に苦悩した少年時代を送る。都内の高校卒業後、靴メーカーに就職したが、20歳で劇団ひまわりに入団、演劇活動開始。

 1983年の日本テレビドラマ『若草学園物語』で主役の教師役をつとめ、その主題歌「見上げるだけの人間のようで」で歌手デビューも果たすなど、一躍脚光を浴びた。

 その他には『金田一少年の事件簿』の剣持警部役を演じるなど、名脇役の俳優でも知られていた。

 2003年3月25日、首吊り自殺により死去。晩年は事務所兼自宅マンションの住宅ローンや、亡父の遺産相続をめぐって継母との民事裁判を抱えていた。

 2003年3月25日死去(享年45)
pc
[編集] [返信]
[13] By 許すまじ
04-05 08:27
「可愛かずみ」


元々は芸能界にあまり興味はなく、美容師になるつもりだったが、高校在学中にスカウトを受け、モデルクラブに登録する。

 登録後、すぐににっかつの宣伝用ポスターのモデルの話が舞い込むが、それが結局ヌードであった。
 可愛が「話が違う」と言うと、話を持ってきた担当者の手違いだったらしく、その担当者が怒られているのを見ていて同情してしまう。自分が我慢すれば丸く収まると思い、仕事を引き受ける。

 この時に渡辺護監督の目に止まり、1982年、にっかつロマンポルノ映画『セーラー服色情飼育』で芸能界入りする。

 1983年9月もう脱ぐ仕事をしたくないと宣言をし、同理由から同年11月に所属事務所をオフィス・アンからマーカスに変わっている。

 1995年、当時ヤクルトスワローズに在籍していた川崎憲次郎との交際が発覚する。川崎は学生時代から可愛の熱烈なファンで、6歳の年の差はあったが交際は順調であった。当時、川崎はマスコミに対しても交際宣言をしている。だが、周囲の反対と川崎の故障で治療に専念したいという理由から破局。

 1996年、川崎との破局後に芸能人との間に一度交際の噂が出ている。その相手の芸能人の言動が自殺原因という説もあるが、この頃から急激に体調が悪化、周囲に「死にたい」と漏らすようになる。

 1997年5月9日、女優としてこれからという時、自らの可能性を絶つことになる。この日、午前中に手首を切り自殺を図っており、この時のためらい傷は3箇所にも及んでいたという。また、この時「また手首を切ってしまった」という内容の電話を婚約者にしている。

 リストカットによる自殺未遂は1996年12月、1997年1月に続いて3回目ではあったが、夜には食事を全部食べており、周りも落ち着いたように見えて安心していたという。

 午後6時30分頃、留守番の女性に「咳がでるから病院に行く」と言って出かけ、午後7時10分頃、川崎の住んでいた目黒区駒場のマンション7階から飛び降り、帰らぬ人となる。

 自殺の動機は諸説あるが遺書はなく正確なところは不明。生真面目な性格が裏目にでたと言われている。

 亡くなった翌日(5月10日)、可愛は都内の自動車販売会社を経営する実業家と婚約し、2ヵ月後に結婚する予定であったことが発覚する。
 当初は可愛の誕生日である7月9日に入籍するつもりだったが、その日が偶然にも仏滅だった為、七夕である7月7日に籍を入れる予定であった。棺には挙式で着用するはずだった白いウェディングドレスがかけられた。

 1997年5月9日死去(享年32)

pc
[編集] [返信]
[12] By 許すまじ
04-05 08:26
「甲斐智枝美」


1979年、日本テレビの人気オーディション番組「スター誕生!」で第29代グランドチャンピオンを獲得。これをきっかけに芸能界入り。1980年、ポスト山口百恵を狙ったホリプロ所属のアイドルとして歌手デビュー。

 しかし、オリコン最高位は「マーマレード気分」の103位と奮わなかった。歌手と同時に女優・タレント業も並行させ、次第に女優・タレント業に重心を移していき、アイドル雑誌の表紙を何度も飾った。

 1990年に結婚、芸能界を引退。2人の男児に恵まれた。

 2006年7月10日、朝になっても起きてこないのを心配して中3(当時)の長男が確認しに行ったところ、2階の寝室で首を吊っていたところを発見した。
 すぐに119番通報し、救急隊員が駆けつけ、午前6時45分ごろ、心肺停止を確認。自宅所轄の千葉県警習志野署が検死を行い、自殺と断定した。戒名は花香妙智信女。

 2006年7月10日死去(享年43)

pc
[編集] [返信]
[*前][次#]
返信する

[戻る]


[掲示板ナビ]
☆無料で作成☆
[HP|ブログ|掲示板]
[簡単着せ替えHP]