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愛情
 泉ムジ


海のそばにあるちいさな店で、ピアニストが最後の曲を演奏しはじめると、おたがいの腰
に手をまわした老夫婦が軽快なステップでテーブルのあいだを縫っていく。潮風に傷んで
しまったのか、木製のテーブルはどれも重心がさだまらず老夫婦とともに揺れてしまうか
ら、そのいくつかに置かれていたグラスは、中身をあふれさせたり、床でくだけたりして
いる。けれど、それらをかたづけようとするだれかは、もういない。

演奏が終わりにむかうにつれて、ピアノの鍵盤が低い音から順番に失われていく。

熱っぽい視線をからませていた老夫婦は、いまでは老女だけになり、それでも、まだ伴侶
がそこにいるかのように、虚空をしっかりと抱きながら軽快なステップを踏みつづけるそ
のひと足ごとに、くだけたグラスの破片が重力をわすれて舞う。ピアニストはすこしずつ
上体を右によせ、神経を指さきまでいきとどかせたまま、かつて、波うちぎわで遊んだう
つくしい恋人のことを思い浮かべて、静かに微笑む。

どうしても単調になっていく演奏をおぎなうように、低く海鳴りがきこえてくる。

ドレスのすそを摘んだ老女は素足で水を跳ねあげ、さえぎるものがなにもない、かつての
波うちぎわをじゆうに踊っている。目にうつるすべてがまぶしいくらいに反射しているけ
れど、きっと、朝はまだおとずれないはず、どうか、もうすこしだけ、と、歌っている。
そして、そっとペダルから足が外れ、ほんのいっしゅんだけのぞいた朝のひかりをおおう
高波のなかに、最後の音はさらわれて。




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ホワイトシチュー・メランコリック
 宮下倉庫


Yeah
と呟いて
少しもはなやいでいない
手をつなぎあって野菜は
まったく無抵抗なやつらだった
そこを迷わず
乱切りにしたとき
手元を照らした西からの赤光を
おれは忘れない





真夜中の商店街を駆け抜けている
冷蔵庫は打ち棄てられている
シャッターは固く閉ざされ
しかも長い経年の跡を示している
陽射しを避けた春の雪道のようにぬかるんで
足元は白い粘質へと変わりつつある
そのとき
鼻面をひっぱたかれて
後ろのめりにぶっ倒れたのは
ひとりのホモ・エレクトスだ




そして
背中から
落下していく
傾眠を妨げる
内耳の痛み
やがて角ばった
しかし無抵抗な
固さの海へと
おれは着水する
そこは乱切りの
野菜だった




火にかけると取っ手まで
熱くなる鍋を作ったやつは
バカだと思う
悪態を吐きながらおれは
流水で指先を冷やしている
貼ったばかりの安物の絆創膏が
たちまち水にふやけていく
せめてと冷蔵庫を開ける
その内実の空虚に
おれはまた落下しそうになる





食卓の上の皿はまだ
若水取りの厳粛さに満たされている
おまえはレオンでジャン・レノがしてたみたいな
鍋つかみで用意周到
熱い料理を運んでくる
ホワイトシチューはごはんのおかずではない
おれはふやけて痛がゆい指先に
安物の絆創膏を貼り直している
鼻腔の奥の
さらに奥にひしめく経年の跡を示す襞
をくすぐる煮えた内実
のためにいまは


Yeah


Oh


Yeah



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夏至
 腰越広茂

夕暮ころがる銀小鈴
にじみしたたる青さと船頭

サイレンの歌に死する。
真砂の青貝に覚めない潜伏

みじか夜 みじか夜
つっと向こうへ鎮座して

さざなみこなみ生むわらべ
みかんの涙雨岸に沈黙

ああ、したらば
いけないいけないカモメの群星



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アンダンテ
 えあ
 

群泳するいきものが
空の胎動をとおって


わたしは朝がうまれる地点に
ゆこうとしている
すれ違ったいきものの影は
わたしがなくしたものの形に似ていて
そのことを
気にしている
月の律動に寄せられて
ゆらゆらと
流れつく
影だけが肌にふれる



手の平で覆えるほどの
ちいさな影は
透かしてみるとやはり
過不足なく、わたしで
それをぜったい
うたがったりしない
上手に自分の足元にはりつけて
朝にむかう準備を
ていねいにして
思いだしたい人をおもう



かみさまに呼ばれなくても
わたしは泣くように
また心を乞うと、
淡い明けない真夜中に
誓いの印をあげる
だからくりかえし
くりかえし
正確な基準じゃなくていいから
せかいの
上から下までを量って
むぼうびに、息をついていって。
そうやって
なくしてみて



熱を乞う
そういう姿勢で
貝殻みたいにかたく閉ざした
あたたかい睫の重なりを
そおっとなぞらせて
さかのぼるけつえきに
わたしだけの呼び名をつけさせてさよならをおおく含みすぎてはいけないから
丁度よい加減で
おしはかっては、くれないかしら


くみあわさるからだを持って
朝まではとおいんだ
解かれたら(ユメの、終り)
行き来していた熱量は
信じる人へ向かって。
高くのぼって
または、おりてこないよ
しっているから、教えてあげない


したたるひかりのその多さ
ここまで来たよ
言われなくても来たよ
(うん、ひとりで帰れるよ)
浅瀬の、鮮やかには届かない
けれども、うんと新しい
そんな分け隔てない
いきもののかよう地点に
あなたが愛したかたちを持って
着地する

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行方
 及川三貴

玄関に乱雑に置かれた
靴の形や方角を見つめていた
声が掛かってやっと靴を脱ぐ
冷たい床の歩数を数え
贈り物を掴んだ手が他人の様に
中の輪郭を酷く失わせる
飲めないコーヒーを玩びながら
エル・トポなんて観ていたら
眠りが押し寄せてきた
瞼の隙間からやって来る
固まった紫煙 
薄暗い片隅から
歯を磨く音が聞こえる
静謐なあなたの生きている証
頭痛 冴えない頭痛
横になって投げ出すと
窓の外の深夜 今にも
踊りだしそうに
髪を避けて額に触れてくる手 
目も観ずに影の後ろ 玄関の
靴の形や方角ばかり気にしている




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sayonara.com
 ma-ya
 
東京へ行くと
あの人が云うので
私はついてゆかない

まとめられた段ボールを
清々しい人たちが持ち去って
部屋には
私と犬が残された
からんからんと
容器に餌をいれる
指を差して
よし、と云う
あの人がやっていたように云う
なあ犬よ
お前は春がすきだろうか
きゃつきゃつ音をたてる歯を
膝を抱えながら
眺めて

近所のスーパーに
夕飯の買い物へ行く
今日はお鍋にしようと決めていた
白菜と大根、挽き肉
それから春菊 それから
 、買い物かごが重くなり
ふと覗く
かごには私が放り込んだものだけが
きちんといた

台所が
IHでなくてよかった
炎を点火する音が
なければ、きっと
嗚咽していたに違いないから

テレビをつけると
人が笑っていた
私もつられて少し、笑う

窓辺の植物を撫でる
毛羽立った葉のぬくもり
ぬくもる指先
指先はもうとっくに
私のものではないような気がして、



駆けて 高架下
仕事へ向かう道の途中
スプレーで書き殴られた文字
“sayonara.com”
目の端にとらえたけれど
私はついてゆかない


 

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