第1回 21世紀新鋭詩文学グランド・チャンピオン決定戦


審査員選評


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ピクルス

選評。

先ずは、当企画立案者の一人として、なによりも素晴らしい作品を応募してくださった方々、また、チラシ配布や誘導リンク等で企画をサポートしてくださった方々、そして、各々御多忙の中にありながら無償で真摯に選考の任にあたってくださった審査員諸氏、更に、文学極道と月刊 未詳24のシステム担当者、その全ての人々に感謝します。
認知度が限りなくゼロに近かった企画が、ある程度の結果を残せたのは、ひとえに皆さまのおかげです。
ありがとうございました。

それでは、僭越ながら受賞各作品、および、選外ではあったけれども印象に残った作品について、簡単にではありますが順次、触れさせていただきます。


「六月の雨に少女の祈る」森下ひよ子
(グランド・チャンピオン作品)

他の追随を許さないほどの圧倒的な筆力ですね。
初読ではテキストを読み解く猶予すら読み手に与えない跳躍速度、性急且つ錯綜する場面展開、暑苦しく情熱的な記述を避けた話者の冷徹な視線から紡がれていく不思議な熱量、これでもかとばかりに頻出する表記の妙のあざとさを兼ねた美しさ、
見事です。
タイトルからして友部正人を想起させ得るように随所に散らされ或いは隠されている読者サービス(挑戦、かもしれませんが)、親和力を含ませた導入部から、(たとえば「コマクサ」の意を繙くまでもなく)様々な世界観(距離と時間と言語と、あとひとつ)の越境を経て、吃音声が鮮やかに揺れるラストまで、ソツのない筆で描かれているといえるでしょう。

なお、当企画はインターネット公募が主であった性格上、本作に限らず、
1「一万字を越えるようなボリュームのあるテキストのword文書等による応募」
2「故意、または無用の予断を排する為であろうと推測される作者名義の変更」
等が応募作品に散見されましたが、
(もちろん、それらの意思ならびに行為は、応募規定違反になんら抵触するものではないですし、寧ろ、個人的には歓迎します)
それが応募作品の内実の審査に影響を及ぼした事実はありません。
特に2の場合ですと、所謂「書ける人」の筆致なり手癖は、熱心な詩の読者であればあるほど把握もしておりますでしょうから、(その正誤は、さておき)彼是と推測する楽しみもまたあります事、申し添えてさせていただきます。
また、1の場合、本作では「作者が、かく読ませたい漢字」にではなく「読み手が読みにくいであろうと思われる漢字」にこそルビが振られている事に、とりわけご注目いただきたい。読者と作品との間に無用の距離を作ることを潔しとしないこのような意識や態度は、意味もなく尊大になった数多くの著名な(或いは無名の)詩人が残念ながら失いつつある大切なものであるようにも私は感じます。

さて、本作をポイント付与作品とするか否か、随分と迷いました。
これほどの印象に残る作品を、狂ったように詩を読んでいる私でさえ、あまり読んだ記憶は無いです、これは正直な話。
ただ、惜しむらくは、稀有な筆を僅かに制御しきれていない印象があって、それはたとえば、技巧を尽くして導いた筈である漸くの最終着地点での結実が、(あくまでも個人的な)予感を越えるほどには豊穣なものではなかった、というところにもあります。そうしたある種の不満は、贅沢であるとは承知しつつも。
あとは、個人的事情として、携帯端末をメイン・プラウザとしてインターネット詩を読んでおり、また、所謂「携帯詩」界隈に身を置いているのですけれども、そうした場合に、PCで閲覧したテキストの姿よりも本作の魅力がある程度損なわれてしまうのは残念ながら否めないです(これは作品の内実ではなく、外観の問題ですので、作者サイドとしては不本意かもしれませんが御容赦ください)。
つまりは、その二点のみでポイント付与は思い留まりました。
しかしながら、「詩には、これだけのことができるんだ」というポジティブな認識を、より多くの(特に若年層の)書き手や読み手に与えることに成功している数少ない刺激的な作品なのではないでしょうか。
「詩は何でもありの自由な表現」と安直に考えがちですが、実際に詩に向き合うと、意外にも、かなり不自由なことがわかるはずです。
これは私見ですが、詩というメディアは「ある種、自閉した文学」ともいうべきものだからです。明瞭で簡潔な言語によってカテゴライズされていない(または少ない、或いはこじつけられている)が故に、書き手は言語化されない制約と如何に対峙するかを強いられる場面が少なくない、そして、そこには「教科書的現代詩の作品構造」云々といった類いの技巧等とは異なった次元での葛藤が生まれ易い気が私はするのですよ。尤も、そこに意識的であればあるほど傑作が書ける、というわけでは全然なくて、寧ろ「天然な人」の方が傑作をものにしがちな傾向があるとは思いますが。

シビアな話、存命なさっている詩人の詩作品で、手放しで称賛できるだけのものは、商業詩誌から個人詩集、同人誌、インターネット、それらのどこを懸命に探しても皆無に近いのが現況だという認識です。
(まぁ、現代詩であれポエムであれ、「より多くの読み手に読まれないド・マイナーな文学」という点では、同じですが。)
このあたりを書いてると三年くらい経ってしまいそうなので、はしょりますが、
「作品構造として現代詩的に立派であるかどうか」
を、私は、けしてなおざりにはしておりませんが、選考の主眼とはしませんでした。
それでもなお、本作の素晴らしさに、審査員特別賞として一票を入れさせていただいた次第です。
所謂「書けている」かどうか、と問われたら、本作は、あるいは厳しい意見にさらされてしまうかもしれません、プロフェッショナルな批評家に一顧だにされない可能性だってあるかもしれない、しかしながら「現代詩」という、ある意味、窮屈なタームでどのように評価されるか、については、殆ど興味の外にあります。
そして、栄えある初代グランド・チャンピオン作品とはいえ、優秀作品賞受賞作「水葬」と一票差という僅差であり、尚且つ過半数票の獲得にも及ばなかったこともまた事実です。
がしかし、寄り添いにくさを巧みな技量で補いつつ、様々な、おそらくは狙っているであろう跳躍と着地によって召喚されたり異化される言語イメージの広がるさま、および、そこここに遍在する傷付いているが故に美しく静かな熱量、等々は評価されて然るべきですし、また、私は、この作品に通底する「挙動不審なエクリチュール」に、単純に感銘するのです、その隙間にこそ惹かれ、そして未完の美に酔う、それは拙い筆では叶わなかったであろうはずだと知っているからでもありますが。

なお、インターネット詩に相当程度には造詣が深いと思われる、この書き手の筆による他の作品も読んでみたいものです。

ともあれ、初代グランド・チャンピオン、おめでとうございました!
「グランド・チャンピオン」は作品に冠されますが、私はあなたの名前を生涯忘れないでしょう。
伏しつつ。


追記。
本作は、個人的に「助詞」について深い考察を付与されたテキストでもありました。かくなる意図が作者にあったかどうかは、また違う話になりますけれども。

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ピクルス

先ず、私が一次審査で推薦した作品は、以下の通りでした。

「水を捨てる」宮下倉庫
「六月を雨に少女の祈る」森下ひよ子
「マッスル・ドッグ」七瀬俚音
「[私たちは素晴らしい箱の箱の箱の箱の箱の箱の箱の中にいる。]」香瀬行鵜
「いくつかの夜」Ar
「before dark,before daylight」いとうかなめ
「君は害虫」しもつき、七
「ららら」七瀬俚音
「Soundscape」はらだまさる
「無題(1)」たなか
「無題(2)」たなか
「木陰」田崎智基
「水葬」谷竜一
「蟻」淡島

このうち、「水を捨てる」、「六月を雨に少女の祈る」、「無題(1)」、「水葬」は、受賞作品に選ばれておりますので、既に言及させていただきました。
引き続き、その他の応募作品について触れていきます。
私が一次審査に選ばなかった、選べなかった、応募作品にも簡単にではありますが、コメントを述べさせていただきたく存じます。

また、受賞に及ばなかった、或いは一次審査を通過しなかった事を以て、ダメな作品であるとか、ではありませんことは申し添えておきます。
審査員諸氏が、どれだけ労力や時間を費やし、心を砕いて真摯に読もうとも、主観や嗜好もあるでしょう、僅かの差で選外となった作品もあります、胸を痛めながら首を振った作品もあるはずです、それを御容赦いただきたいわけではなく、つまり、その、ダーザインさんも選評でおっしゃっておられますが、文学極道や未詳24で、または、でなくても、そうした素晴らしい作品を、より多くの方々に読ませてほしいな、と強く願います。
どうか、どうぞ、宜しくお願い申し上げます。

それでは選評を続けます。

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ピクルス

「ららら」七瀬俚音

どちらかといえば、まとまりに欠け、俯瞰した姿もやや乱雑かもしれません。しかし、重い語彙を選択しながらも、その軽妙ではあるけれども覚束ない流れには惹かれるものがありました。
説明して説明して少し戻って進んでいく、その説明がやがて問い掛けに変わり、それなりのオチが付く、というスタイルは類型的ですし、テーマもありきたりですが、乾いた記述や素人じみた発想からの内実は、けして悪くない。狭い世界観から窮屈さや疎外感を訴求しがちな視線を、アイロニカルな道具を使って素直に書いた作品だと感じました。その率直さに好感した、というとミもフタもありませんが、ファースト・インプレッションから選んだ数作品の中から、この作者の応募作品を二作共に選んだのは偶然ではない気がします。

繰り返しますが、悪くはないです。が、逆に良くもない。「惜しい」というよりは「勿体ないな」といいますか、寒い駄洒落(地口)は「イタい」だけで浮いている邪魔な印象ですし、あと少し推敲して全体を整理してラストを工夫すれば、もっともっと深みのある作品になったであろうと思われてなりません。
押韻せずしてのリズムの良さ、拙いけれども憎めない親和力を宿した大衆に向けて開かれている筆、個人的には可能性を感じた作品でしたね。

複雑であったり綿密であったりする事が、(個人的には)詩の必要充分条件であるとは全く考えておりません。その外観は、可能であるならば、出来るだけ軽く、更に読み易く、さればこそ、作品はより多くの人に届くであろう筈なのですから。この作品は、そこをクリアしてます。斜めに構えながらも人の良い作者像が浮かんでくるような(まぁ、これはオマケのようなものですが、ファン・クラブの出来る詩人と、そうでない詩人との埋め難い「差」について考えてしまいましたね)、テキストの内実とのギャップも楽しめました。

あとは構造の微調整というか、他の審査員も触れてらっしゃいましたが、やはり、このタイプの作品として、オチに予想がついてしまうのは苦しいです。読み手に先回りされないクエスチョンや罠が欲しかったところですね。読者は他愛もない(或いは難解な)謎解きが好きなわけでは必ずしもありませんが、潜在的に見事に騙されたがっているものですから。

御応募、ありがとうございました。


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ピクルス

「[私たちは素晴らしい箱の箱の箱の箱の箱の箱の箱の中にいる。]」香瀬行鵜

個人的に、今回の応募作品の中で「最も楽しめた」作品です。
一万字をかるく越えるテキスト、そのボリュームに見合うだけの独特の濃い質感もあり、(マニアックな)詩の読者に向けた「くすぐり」を随所に配置するなどした旺盛なサービス精神も感じました。また、この作者の一連の作品群を知る読み手に対しての、更にきめの細かい仕掛けも抜かりなく施してあり、作者が本作に費やした(あるいは辛辣や真摯であったかもしれない)労力や時間を、瞬時に見事なカラアゲにして、私は素で大爆笑してしまいました。自虐ネタ(ではないのでしょうけれども)、かくあるべし、と断定したくなります。審査員特別賞に推すべきかどうかギリギリまで迷いましたね。

この作者の手による、まど・みちおの小論から閃いて導かれたのかどうかは判りませんが、敷居の低い導入部(伏線にもなってます)の意外性や、舞城王太郎(へのオマージュではなく)を茶化したようなタイトルといい、これでもかと繰り出される手練手管の、いわば詩的なスラップスティックぶりは特筆ものではないでしょうか。
ただ、かなり計算された構造が、どこまで「あまり考えず、飽き易く、欲張りで、疲れている」であろう読み手に受けてもらえるかどうか、となると疑問符を付けざるを得ない。その、あまりの長さ、いや、単に長いだけならば、はらだまさるさんや森下ひよ子さんの応募作品も同様に長いわけですが、なんといいますか、やや跳躍に無理がある箇所が多過ぎやしないか?という自問が読み手に発生するのを抑えきるだけの着地が為されていない感があるのです。テキストで指し示された(順序というよりも)方向が多岐に渡り、(それらが呼応したりはしてますけれども)距離があるので、なかなか厳しいのではないか、読み手を無用の混乱へと導き、中途でテキストを放り投げさせかねない、そんな危惧を抱きました。
そのあたりの、筆達者故にケアしきれなかった構造が、本来ならテキストが持っている筈のダイナミズムをも奪っている気もします。けして冗長ではなく、相当な工夫はされている、にもかかわらず、読み手は読後に少なからぬ疲労を感じ、再読に向かう労を惜しみかねない懸念が拭えません。跳躍の痕跡ばかりに眼を奪われがちになり、テキストを俯瞰する為に注がれるべき視線が塞がれてしまっている、(適切な形容ではないかもしれませんけれども)報われにくい詩文ではないかな、と。

なお、本作はワード文書による応募でしたが、携帯端末で読んだ場合、外観に損傷はありますけれども、却って読み易い印象はあります。そこは、不思議でした。

作風には、ただならぬ才を感じます。失礼な言い方ですが、珍しい筆、でしょうか。この筆の需要、その多寡は定かでないにせよ、供給は、この作者オンリーだという、ある種のパテントのようなものは強く感じた次第です。一代屋号、というと野暮ったくなりますが、まずリレイヤーも現れないでしょうから。
多くの読者は、想定なされておられるよりは、もっと未熟なものであると考えて作品に向かってくださると、必ずや需要は増えると推測します。いずれは何処かで大きな賞を取るような、そんな予感、というよりは期待もあります。

御応募、ありがとうございました。

追記。
この作品は、どこかで開示していただきたい、と個人的には願っております。

更なる追記。
既に(僅かに外観は異なりますが)開示されておられました。御詫びして訂正させていただきます。
以下、urlです(鍵は掛けられておりますが公開されてます)、どうぞお楽しみくださいませ。
link:caseko.blog90.fc2.com

また、この書き手のブログは興味深い論考が少なくなく、お薦めです。

なお、「ネット詩選」などは、初読の方もいらっしゃるのではないかと思われる素晴らしい作品が並んでいますので、ぜひ御一読を。
これらは「素晴らしいインターネット詩」の、ほんの僅かな一部ですけれども、それでも溜息の出るような作品に出会えるであろうこと、御約束致します(私の個人的なネット詩選にも半数以上を選ばせていただいております)。書き手によっては、サイトが削除されたり、サーバー自体が消滅したりしているものも相当数、含まれておりますので、所謂「投稿詩サイト」の残存ログや顕彰によるテキストの保存の意義は、今後もあるのではないかな、と感じました)。
読み手の一人としても、香瀬さんに深い感謝を。 ありがとうございました。


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ピクルス

あまり「簡潔」になりませんね…。少しばかり駆け足で参ります。


「蟻」淡島

これは香瀬さんとは逆に、とても短いテキストで、短いならではの「足りなさ加減」が、個人的な嗜好とも巧く重なった小品です。
即興なのか、それとも削り過ぎた経過(結果、というよりは、経過である印象を受けました)なのか、わかりませんが、着地してないのに飛んでいるような奇妙な味わいは、(構造としての「なっちゃいない感」を無効にしかねない程度には)捨て難いものがあると思います。
足りない、のではなく、足りな過ぎるが故に、または、その素っ気ない不親切さにこそ導かれて、読み手は(少なくとも私は)再読を進んで重ねざるを得ない、そこが興味深かった。「足りている」ことが必ずしも素晴らしい詩の条件ではなくて、「書かれなかったこと」や「書かれていたもの」を補完する、しようとする能動的な楽しみを教えてもくれるユニークな作品ですかね。短い記述にもかかわらず、それなりの質量に対する語られていない(または隠されている)ものが何なのかを照らそうとする謎があることにより、知的好奇心が刺激されるように周到に計算をされていないとは思われますが。

演歌的に濡れてはいないけれども、「ニッポン的なさみしさとおかしみ」を少し抱えて、しかしながら、それらが「重くない」ところにも惹かれます。
説明過剰なテキストに食傷気味な個人的読者環境も作用したかもしれないにせよ、忘れがたい空気のある作品でしょうか。所謂「評価」は為されにくい、これまた報われにくい作品でもありますし、ある程度は「読み手を選ぶ」作品とも呼べるかもしれませんけれども、私は、読んで、そして読み返して、楽しかった。
ただ消費されていくだけの詩文には無い、微かではありますが浮力、これは同じ作者の筆による応募作品「国道沿い」にも感じましたけれども、比較的好きな本作を一次審査に残させていただいた次第です。
この作者の詩集は、きっとビックリするくらい売れないとは推測されますが、欲しいですね。実に「くだらない」、でも「すごく楽しい」、そんな詩集になるのではないでしょうか。
応募作品に限っては、「脱力の詩人」なる称号を恭しく授与さしあげたく存じます(いや、御迷惑であるとは承知ですが)。

なお、この作者は(名義こそ違えど)文学極道の常連投稿者でもあります。どうか、息の長い活動を、と望みつつ。

御応募、ありがとうございました。



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ピクルス

「いくつかの夜」Ar

Arさんは、いとうかなめさんや吉田群青さんなどと同様に、以前のHNや別名義で既に数年前から携帯詩界隈ではかなり著名ですけれども、ある意味で閉鎖的な携帯詩の世界は所謂「詩人村」には殆ど知られていない、ということは否めません。
だからどうした、というよりも、一概にはくくれないにせよ、ある程度の支持を受けている携帯詩人(という呼称も、フル・プラウザ等の携帯端末の進化により、パソコン詩界との閲覧の制限や格差の消滅により死語と化しつつあるのかもしれませんが)に特有の、現代詩の洗礼も受けずポエムにも汚染されていない、不思議な親和力を備えた空気が、この作品にも遍在します。
下敷きになっているのは、終末か絶滅のing形式という、ありふれた題材ではあるけれども、SF的な説明に堕ちてしまうことなく、余韻に満ちたポエジーが随所に浮かぶ佳作ですね。
個人的嗜好のみで主観的に選ぶなら、私は本作にポイントを付与したでしょう。
ただ、詩文としての美しさには、やや欠け、読み手に豊穣な結実を手渡すには不全なテキストという印象があり、それよりもなによりも明らかな送り仮名の単純なミステイクであろうと思われる箇所があったのは致命的でした。
例えば、怪しい造語や日本語表記的に疑義がある記述の場合でも、作品構成上、ある程度の必然性があると判断可能である限りにおいては、誤字や脱字も了とするに吝かではないのが読者層の主流ではあるのでしょうけれども、それは「醒めない」ことが大前提で、そこに工夫の見受けられない作品の誤字・脱字は、明らかな書き手の怠慢でしかないと、(私が、というよりは)普通に読む人なら誰でも思いますから。これはArさんに向けて、というよりも、全ての書き手に対して、切にお願いしたいですね、特にインターネット詩に於ける「校正」は作者のみに委ねられているのですから。
また、当企画は(各審査員に個人差はあれども)比較的、誤字等には寛容ではあるかもしれませんが、市井のコンテストでは誤字を含んだ(その判断は、書き手の主張などでは当然なく、読み手によります)テキストは、(「詩」に限らず)審査の俎上にも昇ることなく破棄されるのが常です。それに付随する権威その他にかかわりなく、他者に選ばれる、ということはつまり、そういう事でしょうしね。
作品そのものに触れるよりも与太ばかりになりましたけれども、シビア云々とかではなく、作品に向かう人は「文句を言われて半人前」くらいの認識は抱いていてほしいと願ってやみません。誉められて伸びた作家は、有史以来、存在しないでしょうし、文句を言われる境遇は、ある程度「他者に認められている」が故なのですから。大概の他者、つまり読み手は、書き手の想像以上に、冷淡であり、殆どのテキストは、予め読まれないか、無視されるか、陰でクソミソな言われようをされていると思ってくださって間違いありません。作品を「公開する」という行為には、そうした重い事実が例外なく横たわっていることを改めて書き手の皆さまに御認識いただきたく存じます(ギャランティー発生の有無など、読み手には無縁の切実さです。或いは、自己慰安や趣味で書いていることを免罪符にするのは卑怯、とまではいいませんが、言い訳としては成立しないでしょうから)。
与太が過ぎました。

どんな筆が欲しいか?なる問いに、私は私の心酔する詩人達ではなく、この作者の名を挙げたくなる理由は、ただ一つ、
より多くの人に読んでもらえそうだから、です。
携帯詩界隈では何万もの詩のサイトがあり、10代の方々が日々、詩を書いて、それ以上の方々が詩を読んでいる。そして彼女や彼は、「現代詩手帖」や「びーぐる」は知らないけれども、Arさんや吉田群青さんは知っていて、憧れたり真似たりしているわけです。「ビジネスとして詩」であるとか「方法論としての詩」を考えないなら、その新しい可能性や領域は、漸くその緒についたばかりではないか、と私は思ってしまう時もありますね。

御応募、ありがとうございました。


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ピクルス

「木陰」田崎智基

タイトルからスムーズに作品に入っていける導入部の造り、それ自体は珍しいものではないかもしれませんが、文脈が恰も複雑骨折しているかのような錯覚にも陥りそうなテキストから翻った時に、読み手を意識した(或いは、せざるを得なかった)作者の(言葉が適当かどうかわかりませんが)「譲歩」は、一先ず成功していると感じましたね(読者に寄り添おうとする意識や姿勢、それが実際上の作者にあったかどうかは置きますけれども、それが必ずしも迎合や堕落に繋がるわけではない、と私は思っております)。

直接的な欲望や概念、まぁ色恋でも何でもいいですが、そうした主題から一歩も千歩も退いたところから書かれている、奇妙に折り畳まれた実存についての作品でしょうか。俯瞰した場合に、さしたる長尺でもないテキストは、辿って初めて平坦ではないと気付きますが、巧妙に隠されているわけでもない視線の持ち主であるところの発話者の表情や手足がおぼろ気ながら掴めそうになった瞬間に、異なった方向からの(意味をすり替えられたかのような)新たなる示唆が邪魔をする、これを面白いと感じるかどうかには個人差があるでしょうけれど、例えば不可知のものを、その輪郭だけによって実在たらしめようとする試み(かどうかは、もちろんわかりませんが)には興味深いものがあります。
「現代詩が好きな読み手」、というよりは「現代詩しか好きではない読み手」にのみ支持を受けそうではある(これは藤本さんの応募作品にも同様の印象をもちました)にせよ、少し待避したところから主題を限りなく婉曲に対象化しようとするようなユニークな筆であることには間違いありません。また、誰にも似ていない、そして、テーマを全く選ばない、そこも評価されて然るべきといいますか、現代詩の領域にあっても浮きかねない筆、その先行きは楽しみです。
しかしながら、みずみずしい情感を描けもした筈の痕跡は逆に醒めてしまう。そのバランスの配分に苦心したであろうと窺える箇所もあり、そこはもっと徹底した擬態でもよかったのではないかな、と私は感じました。
あとは、
>複雑系の音
やや安直に置かれてある言葉で、テキスト自体の質量を損ねているような気がします、もっと練れたのではないかというか、意味を過信しないこの作者らしからぬ不手際のように感じた次第です。直前のセンテンスにも「複雑」は登場するので、ちょっと脇役が煩い感じもあります。いや、何らかの効果を期待していたにせよ、それは少なくとも私には無効でした、外観として美しくないという意味でも。

不明瞭な文脈で、(何を伝えるか、ではなく)いかにして不鮮明に伝えるか、そこにこそ労力を注ぎ、結果として、なにやら不穏な空気を漂わせている本作は、さながら読み解く喜びを満たす機能が劣化しているかのような印象もありますが、実は、それが擬態の詩人たる作者の企みであり狙いでもあるのかもしれません。テキストの孵化は、或る日、唐突に閃くかもしれないし、生涯わけのわからない置いてきぼりをくらった気分のままかもしれませんが、それは読み手各々の事情でしかないですから。
故意に伏せられた意味は、けして隠匿されているのではなく、ユーリカと共に在る。詩を読むことは、何かを理解したり納得したり共感したり(であっても構わないですが)するだけではないのだ、と。

御応募、ありがとうございました。


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ピクルス

「きみは害虫」しもつき、七

ご存知の通り、若い書き手である。
彼女が私達の前に登場したのは12歳であった。一部では年齢詐称疑惑(苦笑)もあったようですが、私は実際にお会いしておりますので、そこは否定しておきます。
さて、現在、中学二年生、所謂「中二病」とやらが「いつまで経っても思春期のつもりでいる、恥ずかしい大人」であるとするなら、作品に向き合う彼女の葛藤は、既に大人であろう。
当然ながら、中学生の書き手だから云々よりも、特筆すべきは、その無防備な筆による、故意にわかりにくくされた苦い世界にある。
題材にかかわらず、幼いであるが故にではなく、人であり女であるが故の、形容し難い喪失感、綻びて盛りを迎えんとする花がどうしても得られない達成感、などが(言葉は適当ではないかもしれないが)変態的に描かれた佳作でしょうか。

無理に背伸びをしていない工夫には粗さも散見されます、実直に作品に向き合ったと褒められたりもしないでしょう。が、此処にあるのは、エピゴーネンを、それと認めながらも蹴りあげるかのような、根源的な戦意のように感じました。
よく知り、より経験する、例えばそうしたことによって諦めていく、または、武装していく、いや、そうではないんだよ、と、彼女は口先で説くよりも作品の向こうで渋い顔をしているかのように。
恋愛の、仕事の、まぁ、なんでもいいですが、そうした局面で、私(達)は経験則として用心深くなってしまう場合がある。そこに彼女の言葉は軽やかに、しかし質量をもって侵食していくのです。
なに躊躇してんの?
とでも言いたげに。

あれこれと足りない、とも感じます、たしかに。
ただ、この、現代詩に汚染されていない筆は、現代詩とポエムの何れにも少しばかり馴染めないでいる私の欠落部分に、呆れるほどに丁度収まってしまう、そんな嬉しい驚きの方が勝ります。
休筆宣言をなされている御様子ですけれども、その復帰を望むのは、けして私だけではない筈です。

御応募、ありがとうございました。

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ピクルス

「Soundscape」はらだまさる

ボリュームのある力作です。
冒頭からの刺激的な筆致は、詩の読者以外にも、というよりは、詩の読者以外にアピールするような印象もありますね。そこを、どう評価するか、されるか、については個人的には置きますが、これだけの長文を外観的な破綻なく書ききれるだけのタフで繊細な力量は素晴らしいと感じた次第です。
記述に工夫を凝らし、強弱や様々な仕掛けもあるので、作品の質量自体は、かなりヘヴィなものに仕上がってもいますが、しかし、再読に再読を繰り返しているうちに、どうしても中途の冗長さが気になる。
変な表現かもしれませんが、さながら書き込めば書き込むほどに何かしらが足りなくなったり喪われていくような、それが良いとか悪いとかではなくて、もっと作品世界に寄り添いたいと願う身勝手な読み手から、ある意味では職人気質の筆が、無用な距離を築いているようにも感じて、少し淋しい気持ちにもなりますね。
もっとも、中途を抜いて、最初と最後だけにした場合、作品として成立する事すら危うくなるでしょうし、そんな乱暴な話をしたいわけではけしてありませんが、その方が個人的には寧ろ(未完ではあるにせよ)魅力的なテキストになったのでは、とも。

また、「Sound」とは、作者の隠された意図なり、或いは何かに賭けていらっしゃる姿勢のテーマでもあるのかもしれません。
本作は、意欲的なテキストであり、挑戦や実験の、そこから派生するかもしれない滑稽さや凡庸さをも引き受けてお書きになられた真摯な態度も感じた次第です。くさい言い方をするなら、(卑俗な野心を伴わない)詩人の魂を最も感じた応募作品でした。
初読では、かなり佳かったです。ただ、読むほどに、読み手としての自分の中で優先順位のようなものが下がっていく、これって何なんだろう?とか、どうしてなのかな?とか、自問し続けております。

御応募、ありがとうございました。

追記。
リライトなされて、何処かにあげていただけると嬉しいですね。
本作に限りませんが、読み手として、より多くの人に読まれてほしい、また、そうなるべき作品でしょうし、書き手としても勉強や刺激になります。
選外とはなりましたが、無為に埋もれるには惜しまれる佳作ですから。
ありがとうございました。

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ピクルス

「マッスル・ドッグ」七瀬俚音

比較的長いテキストですが、個別の連を読んでいてもあまり苦には感じない、そこはやはりリズムの軽妙さ故ではないでしょうか。
>ような
が少しばかり煩いですけれど。
しかしながら、個々の連のジョイントに濃淡や強弱はありますけれども、(全体的に所謂現代詩的な巧さではなく歌詞的な筆致がある程度は効果的に作用しています)ただ、バランスが必ずしも良くはないので、平坦さや凡庸さへと収斂してしまいがちなギリギリのラインではないかな、とも。
>ゴツゴツしている
なる評が他の審査員からありましたが、なるほどといいますか、テンションの低い部分でのスムーズさを欠いているきらいがなくもない。
惜しいな、と思いましたね。

あとは、この作者の手癖だとは思いますが、どうしても無用に遊ばずにはいられない箇所が「ららら」同様に散見されます。これは読み手の嗜好の問題なのかもしれませんが、跳んだり連れていかれたりするテキスト自体の魅力を作者の予想以上に削ぎかねないので、悶着を告げたくなる。審査員として、というよりは一人の読者としては醒めてしまう、そこもかなり残念でした。もちろん、読み手によっては「ウケる」かもしれませんけれども、それならそれで徹底した方が、テキストの新しい表情が楽しい旗の如く翻った筈です。やや中途な具合が、双方に不満足感を与えるのでは、と私は感じました。

筆は、ユニークです。親和力もある。それなりの世界観も感じます。
いろいろと惜しい佳作です。でした。

御応募、ありがとうございました。



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ピクルス

「before dark,before daylight」いとうかなめ

個人的に、外観的に「書けてはいる」けれども中身の薄い現代詩が苦手です。
例えば「現代詩の作り方」、それがどれほど達者になろうとも、(或いは、達者になればなるほど、と言ってもいいかもしれませんが)ある程度の書き手の作品群は驚くほどに似てくるような傾向があると感じるのです。つまり早い話が「臭い」んですね。ここで学術的に現代詩を云々しても始まりませんし、もとより意味無いですが。
というか、あとは、暑苦しい論議の俎上よりは、ぶっちゃけ嗜好のレベルでしかないでしょう、その「匂い」が好きかそうでないかという、ね。

さて、本作は美しい殺伐さの滲む詩文です。
もう一つの応募作品である「ラストモニュメント」同様に、現代詩に汚染されていないが故の筆、その奔放な運びがテキストを魅力的なものに在らしめている印象がありますね。
拙さをも味方にするその筆は、読み手の想定を越えたところから言葉を召喚している。その、所謂「技法」ではない筆運びが、僅かな違和感を伴いつつも読み手のイマジネーションを刺激してやまない、これが実に良い。
情景にすり替えられた心象が、予想していなかった方角や時間から斬り込んでくる、その刹那、個としての作者の想いに侵食されてしまう、快・不快や共感云々ではなく、もっと深いところで(こんな自分でさえ)躊躇なく頷かざるをえない肯定的な何者かが静かに蠢いている。
なにやらわけわかりませんが、個人的にはかなり連れていかれました、日常が困る程度には。
しかし、例えば「西瓜」を「西瓜」としか読めない読み手は少なくはないだろうと思われる、その辺りに本作の「限界」と「可能性」が同居しているようにも感じた次第です。
テーマによっては射程も変わるでしょうけれど、その遠近や長短にかかわりなく、読者を選んでしまう筆ですが、潜在的な需要はかなりあるようにも思います。
リトル・メジャーではなく、ビッグ・マイナーな詩人となるべく定められた書き手かもしれません。

御応募、ありがとうございました。

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