第1回 21世紀新鋭詩文学グランド・チャンピオン決定戦


審査員選評



ピクルス

選評。

先ずは、当企画立案者の一人として、なによりも素晴らしい作品を応募してくださった方々、また、チラシ配布や誘導リンク等で企画をサポートしてくださった方々、そして、各々御多忙の中にありながら無償で真摯に選考の任にあたってくださった審査員諸氏、更に、文学極道と月刊 未詳24のシステム担当者、その全ての人々に感謝します。
認知度が限りなくゼロに近かった企画が、ある程度の結果を残せたのは、ひとえに皆さまのおかげです。
ありがとうございました。

それでは、僭越ながら受賞各作品、および、選外ではあったけれども印象に残った作品について、簡単にではありますが順次、触れさせていただきます。


「六月の雨に少女の祈る」森下ひよ子
(グランド・チャンピオン作品)

他の追随を許さないほどの圧倒的な筆力ですね。
初読ではテキストを読み解く猶予すら読み手に与えない跳躍速度、性急且つ錯綜する場面展開、暑苦しく情熱的な記述を避けた話者の冷徹な視線から紡がれていく不思議な熱量、これでもかとばかりに頻出する表記の妙のあざとさを兼ねた美しさ、
見事です。
タイトルからして友部正人を想起させ得るように随所に散らされ或いは隠されている読者サービス(挑戦、かもしれませんが)、親和力を含ませた導入部から、(たとえば「コマクサ」の意を繙くまでもなく)様々な世界観(距離と時間と言語と、あとひとつ)の越境を経て、吃音声が鮮やかに揺れるラストまで、ソツのない筆で描かれているといえるでしょう。

なお、当企画はインターネット公募が主であった性格上、本作に限らず、
1「一万字を越えるようなボリュームのあるテキストのword文書等による応募」
2「故意、または無用の予断を排する為であろうと推測される作者名義の変更」
等が応募作品に散見されましたが、
(もちろん、それらの意思ならびに行為は、応募規定違反になんら抵触するものではないですし、寧ろ、個人的には歓迎します)
それが応募作品の内実の審査に影響を及ぼした事実はありません。
特に2の場合ですと、所謂「書ける人」の筆致なり手癖は、熱心な詩の読者であればあるほど把握もしておりますでしょうから、(その正誤は、さておき)彼是と推測する楽しみもまたあります事、申し添えてさせていただきます。
また、1の場合、本作では「作者が、かく読ませたい漢字」にではなく「読み手が読みにくいであろうと思われる漢字」にこそルビが振られている事に、とりわけご注目いただきたい。読者と作品との間に無用の距離を作ることを潔しとしないこのような意識や態度は、意味もなく尊大になった数多くの著名な(或いは無名の)詩人が残念ながら失いつつある大切なものであるようにも私は感じます。

さて、本作をポイント付与作品とするか否か、随分と迷いました。
これほどの印象に残る作品を、狂ったように詩を読んでいる私でさえ、あまり読んだ記憶は無いです、これは正直な話。
ただ、惜しむらくは、稀有な筆を僅かに制御しきれていない印象があって、それはたとえば、技巧を尽くして導いた筈である漸くの最終着地点での結実が、(あくまでも個人的な)予感を越えるほどには豊穣なものではなかった、というところにもあります。そうしたある種の不満は、贅沢であるとは承知しつつも。
あとは、個人的事情として、携帯端末をメイン・プラウザとしてインターネット詩を読んでおり、また、所謂「携帯詩」界隈に身を置いているのですけれども、そうした場合に、PCで閲覧したテキストの姿よりも本作の魅力がある程度損なわれてしまうのは残念ながら否めないです(これは作品の内実ではなく、外観の問題ですので、作者サイドとしては不本意かもしれませんが御容赦ください)。
つまりは、その二点のみでポイント付与は思い留まりました。
しかしながら、「詩には、これだけのことができるんだ」というポジティブな認識を、より多くの(特に若年層の)書き手や読み手に与えることに成功している数少ない刺激的な作品なのではないでしょうか。
「詩は何でもありの自由な表現」と安直に考えがちですが、実際に詩に向き合うと、意外にも、かなり不自由なことがわかるはずです。
これは私見ですが、詩というメディアは「ある種、自閉した文学」ともいうべきものだからです。明瞭で簡潔な言語によってカテゴライズされていない(または少ない、或いはこじつけられている)が故に、書き手は言語化されない制約と如何に対峙するかを強いられる場面が少なくない、そして、そこには「教科書的現代詩の作品構造」云々といった類いの技巧等とは異なった次元での葛藤が生まれ易い気が私はするのですよ。尤も、そこに意識的であればあるほど傑作が書ける、というわけでは全然なくて、寧ろ「天然な人」の方が傑作をものにしがちな傾向があるとは思いますが。

シビアな話、存命なさっている詩人の詩作品で、手放しで称賛できるだけのものは、商業詩誌から個人詩集、同人誌、インターネット、それらのどこを懸命に探しても皆無に近いのが現況だという認識です。
(まぁ、現代詩であれポエムであれ、「より多くの読み手に読まれないド・マイナーな文学」という点では、同じですが。)
このあたりを書いてると三年くらい経ってしまいそうなので、はしょりますが、
「作品構造として現代詩的に立派であるかどうか」
を、私は、けしてなおざりにはしておりませんが、選考の主眼とはしませんでした。
それでもなお、本作の素晴らしさに、審査員特別賞として一票を入れさせていただいた次第です。
所謂「書けている」かどうか、と問われたら、本作は、あるいは厳しい意見にさらされてしまうかもしれません、プロフェッショナルな批評家に一顧だにされない可能性だってあるかもしれない、しかしながら「現代詩」という、ある意味、窮屈なタームでどのように評価されるか、については、殆ど興味の外にあります。
そして、栄えある初代グランド・チャンピオン作品とはいえ、優秀作品賞受賞作「水葬」と一票差という僅差であり、尚且つ過半数票の獲得にも及ばなかったこともまた事実です。
がしかし、寄り添いにくさを巧みな技量で補いつつ、様々な、おそらくは狙っているであろう跳躍と着地によって召喚されたり異化される言語イメージの広がるさま、および、そこここに遍在する傷付いているが故に美しく静かな熱量、等々は評価されて然るべきですし、また、私は、この作品に通底する「挙動不審なエクリチュール」に、単純に感銘するのです、その隙間にこそ惹かれ、そして未完の美に酔う、それは拙い筆では叶わなかったであろうはずだと知っているからでもありますが。

なお、インターネット詩に相当程度には造詣が深いと思われる、この書き手の筆による他の作品も読んでみたいものです。

ともあれ、初代グランド・チャンピオン、おめでとうございました!
「グランド・チャンピオン」は作品に冠されますが、私はあなたの名前を生涯忘れないでしょう。
伏しつつ。


追記。
本作は、個人的に「助詞」について深い考察を付与されたテキストでもありました。かくなる意図が作者にあったかどうかは、また違う話になりますけれども。

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ピクルス

「水葬」谷竜一
 (優秀作品賞)

先ずは、導入部から引き込まれます。
電子メールをイメージの召喚具として採用した作品は、さして珍しくないでしょうけれども、ここで着目するのは、人称代名詞の不在ですね。つまりは親近者宛のメールとは往々にして、そうしたものなのだけれども、そうしたものだと改めて認識する、させられる読み手。
また、その、ゴロンと置かれたメールの、気付きにくい異様さ。改行の単純な間違い、変換忘れ、「を」を押したつもりが「 」と表示されていた、という経験は、携帯ユーザーならあるはず(つまりは、これが所謂インターネット詩に散見される誤字・脱字・送り仮名間違い等にも繋がるのだけども、それはまた別の話)なのだが、かくして普遍的な、無意識による混濁の提示が、さりげなくあり(これは隠された主題でもある、かもしれない)、以後は、水の様々な描写を伴う「喪失」と「再生」が「母」というフィルターを濾しながら繰り返されていく。
過剰を排し、説明を放棄しつつ、ある種ストイックですらある淡々とした記述が、静けさの淵から異様な場面を次々と屹立させる仕掛けだけども、様々な読み方も出来るであろうテキストととしての懐の深さにこそ着目したい。
洪水で生還した、たった二人は既に死者である、とも読めるし、痴呆の介護の現実的な重さや、或いは、その水が今まさに溢れている、とも読める(その他にもあるが、それは各々の読み手に委ねて構わないのだろう)。
最終連はストンと落ちた断定で了となる、にもかかわらず、満ち足りた得心に殆ど導かれなかったままであろうはずの読み手は再度、最初から読もうとする意識が働く。
個人的には、ここがポイントでしたね、幾度も読んで、にもかかわらず、擦り切れて無くなるどころか、不思議な味わいにをもつ刺激的なテキストとして新たに登場する、その顕れ方にこそ本作の醍醐味があるのです。
読み手を、その読み方を問わず飽きさせない束縛しない、そうした素朴な味わいを持ちつつも、崩れる寸前のような輪郭の不確かさこそが魅力的な、不死のテキストという意味で、比類なき傑作であろうと思います。
説明の結果としてのイメージを限りなく排した、つまり、理解に依存して読み進めていくタイプの作品ではなく、タイトルと導入部のメール文と詩文との奇妙な乖離の隙間から次々と立ち上がる詩情が美しく揺らめく作品でしょう。
予め置かれたメールの持つ欠落や誤謬が、作品の内実にまでおよび、それを侵していくさまの、確たる像を結んだり言語化するには曖昧ではあるけれども凛とした諦念にも似た心象が、ぬるやかに浮かぶ。いたずらに「共感」を得ようとして書かれているのではない端正な筆致が、それをより際立たせているようにも感じます。

一つきりのポイント付与を、晴れてグランド・チャンピオンとなった「六月の雨に少女の祈る」と本作とで締め切り直前まで随分と迷いました。が、本作は携帯で読んでも、テキストとしての姿にさしたる遜色はなかった、その閲覧プラウザを選ばないユーティリティーさの差異は個人的に重要でした。
次々とイメージが炸裂する刺激的な「六月の雨に少女の祈る」、に対して、静やかな立ち振る舞いを保とうとしながらも溢れていく「水葬」、いずれも、一種の「(根源的な)どうしようもなさ」を抱えた、素晴らしい作品です。

にしても、「六月の雨に少女の祈る」、「水葬」、「無題(1)」、「水を捨てる」、「一杯」、これら別々の審査員によってポイント付与された五作品すべてが「水」絡みであったことも興味深いものがありますね。題材として使い勝手がよいだけではない、何かしらの因縁めいた引力を感じます。

ところで、いかなる形態であれ、それに付随する、または、せざるを得ない権威がどのようなものであれ、「賞」とは、ある程度、咨意的なものであり、またそうならざるを得ないでしょう。故に、その限りにおいては受賞作品もまた然りかもしれませんが、しかしながら、その対象が、こと文学であるのならば、それは掲載メディアを選んではならない、と私は考えます。
PCですら読み手の設定によってはテキストの姿が豹変する時代ですから、そうしたハードルを越える作品なくしては、詩の未来は果てしなく暗い、とも。
また、私(達)は当企画審査員として「選ばせていただいている」という謙虚な意識を忘れてはならない、と、これは自戒ですけれども。
本作に限らず、百回なりとも読ませていただく、それを以て誠実性を主張してもならないとは承知しつつ。


なお、蛇足ながら本作の作者はインターネット内外に於いては、けして無名ではないこと、付記させていただきます。もとより、詩作に如何なるキャリアも無縁かもしれませんが、様々な創作活動の過程で結実した、作者としても誇っても許されるべき傑作であることは確かですから。
往々にして「詩」とは、「何処に出しても恥ずかしい」ものでありがちですが、本作は、さにあらず。

優秀作品賞受賞、おめでとうございました。





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ピクルス

特段に感銘を受けた応募作品は上述させていただいた二作品に留まったのですけれども、巧みさや記述の妙、或いはそれ以外に関して、上記作品を部分的にではあっても凌いでいるのではないかと思われたり、個人的に感じ入ったり印象の強かった応募作品につきましても、簡単に触れていけたら、と思っております。
日数の御猶予はいただきたく存じますけれども、各受賞作品から惜しくも選外となった作品まで、取り上げて参ります。


「水を捨てる」宮下倉庫
 (優秀作品賞)

いかようにして「世界」を創るか、その筆の緻密な巧さには卓抜なものがあると感じますね。まずなによりも、これだけ「書ける」作者は、現役の詩人にもそうは居ないでしょうし、箱庭的な細密画のような心象を描かせたら日本で一番かもしれないです。とりわけ、インターネットで詩を読んでいる若い世代には、谷川俊太郎さんは知らなくても、宮下倉庫さん、吉田群青さん、中村かほりさんなど(それぞれ筆致は異なりますが)の名前は相当に浸透しているようです。
また、駄作を殆ど公開しない書き手としても広く知られていますね。

さて、「水を捨てる」、あらゆる有用ではない無駄を排し、隅々まで抑制の行き届いた(これもまた「美」です)詩文に仕上がっているのではないでしょうか。
谷竜一さんとはまた違った、殊更にストイックな筆で、こちらはどちらかといえば無為無用な熱量を嫌うタイプかと思われます。宮下倉庫さん独特の乾いた美学が薫る佳作ですね。

ただ、水イコール何か、たとえばそうした話者の説明が、読み手への問いとして渡される場面で、読み手が作品についていけなくなることも想定され得る。完成(適当な言葉ではないかもしれないですが)された作品が持つ宿命的なテーゼ、というと大風呂敷過ぎますけれど、破綻の欠片も無いが故の妙な白々しさが、作品から親和力を悉く奪っているように感じられてならないのです。もちろん、破綻があればそれでよい、という簡単な話ではなくて、おそらくは丹念に描かれたであろう隙の無い作品世界が読み手に対して開かれているかどうかに些細ではあるけれども疑義を挟む余地が見受けられる、これは(私見ですが)作品の構造云々や個人的嗜好とは離れたところでの、本末転倒ともいうべき作品の敗北のような気がしてならないのです(それはそれで構わない、ともいえますが)。
ダーザインさんが選評で述べておられた、読者を選ぶ詩、これは所謂「現代詩」と呼称されている詩作品の大半が陥っている自家中毒のようなものではないかと門外漢としての私はひそかに危惧しておりますけれども、本作もまた、その罠から完全には逃れおおせていないように感じられてならないのですね。
いや、これを読まれた作者や、その作品群の心酔者諸氏は相当に気を悪くなされるかもしれませんが、(たとえば)エクリチュールが内と外の何れに傾いているかどうかや、意味/反意味についてとか、表出と潜在の詩文や言語の差異や異化とか、まぁ、何でもいいですが、そうしたアカデミックな要件を以て本作を絶賛するのは容易いでしょうけれども、それよりも、読み手との距離感の方が気になりました。それを指して「クールな距離」と支持するには些か離れ過ぎているような印象がありますので。尤も、これはあくまで私見ですから偏向もあるでしょうし、実際、他の審査員の方々は、かなり好意的なコメントを付けておられるようです。

なお、この書き手は、どんな口煩い大詩人もそれを読めば黙る名作「スカンジナビア」の作者でもあることは周知の通りです。
そうした、才ある書き手が、評論家の称賛を浴びるよりも私ごときただのオッサンに「また読みたい」と思わせる方がはるかに難しいと知らないはずはないとも勝手ながら思っておりますけれども、作者自身、即興詩に振れてみたり異なったベクトルに寄り添ってみたり等々、様々な試行錯誤による実験や格闘を地道になされているさまを拝見しておりますので、今後どのようなものを発表されるのか注目してます。


最後に、宮下倉庫作品に通底する独特の薫り(これは本作にも顕著ですが)、それが実は、情緒的な湿度を排したところから漸く立ち上がるもののような印象が強くあり、であるからこそ「乾いている」ともいえるでしょう。水を題材として選び取りながら些かも濡れていない乾いた強度、そこにもまた(見過ごされがちな)美が磔にされたように直立している、百万回の鑑賞にも耐え得るであろう見事な作品ですので、審査員特別賞として挙げさせていただいた次第です。しかし、その長所が「距離」を生み、作品が読み手に称賛され敬われることはあっても愛されないのではないか、私にはそんな懸念が残りましたね。
なお、この作者の、もう一つの応募作品につきましては、それなりに書けてはいますが少しばかり足りない印象がありました(機会があれば触れたく存じます)。
過剰な期待の裏返し、かもしれませんが、まだまだお若いので様々な筆を試していただきたい、小器用に完成してほしくはない、そうした身勝手な読者の期待を良い意味で裏切ってくれそうな、そんな数少ない詩人の一人として、宮下倉庫、ぜひ皆さまにもその名前を記憶されたいと願います。

優秀作品賞受賞、おめでとうございました。


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ピクルス

「一杯」イエローのこねこ
 (優秀作品賞)

不思議な雰囲気を持つ小品ですね。
ありふれたポエム然とした外観と手触りのある作品ですけれども、(広田修さんの選評を御参照願えたら幸いです)そう限定しがちな濁った我の眼をこそ真摯に省みなくてはならない、そこのところで頻りに恐縮しつつ佇んでいる、というのが正直なところです。何故ならば、審査過程で私は本作を全く推さなかったからなのですが。
広田さんによる選評の切り口は読み方として非常に勉強にもなりましたけれども、それでなくても本作の発している自意識の声の微かさにもご注目いただきたい。
会話調のセンテンスはあまりに短く、雄弁さの欠片も無い、この小さなテキストは、しかし、であるが故に、広く人々の胸に届くポピュラリティーを自ずから獲得しているといえないだろうか。
とかく自称批評家は「商業詩VSインターネット詩」、「現代詩VSポエム」、なんでもかんでも対立させて、安易にその構図を論じがちな傾向があるようですが、読み手には殆ど無用な論に酔っているだけのような不様な印象があります(これは自戒も含めて、ですが)。
そこで、本作に立ち戻りますが、この、けして器用ではない、ある意味では凡庸との謗りを免れないかもしれないテキストの、では、何処に惹かれるかといいますと、先ずは、その平易極まりない語彙、ですね。作者は、JIS第一水準のものしか選択していないのではないかと思わせるほどに平易な語句とその活用、これ即ち、相当に年配の方から小学生までの幅広い年齢層が「読める」わけで、これはとりわけ重要でしょう。(狙った効果のほどはともかく)難解な漢字や造語に依りがちな一部の現代詩を一蹴するかのような清々しさをも感じます。
たとえば仮に「前衛」と名付けるなら、こちらの方がよほど前衛的ではないか、と。前衛的なスタイルに固執するのではなく、形骸化し類型的し果てているはずのスタイルをおそらくは故意に擬装として使うことによって現代詩の地平を切り開いて見せた、そこの狙いは成功しているように思うのです。
また、朴訥とした会話の柔らかさから浮かぶ、その微笑ましくもある情景に隠された得体の知れぬ違和感の表出。
或いはまた、気付きにくいけれども、二人の話者のやりとりはing形式として書かれ、過去完了形となるものは皆無であるという仕掛けが、この詩文を凡百のポエムから遠ざけるだけの効果を生んでいる。中と外を巡る切実な期待と願いを、これほどまでにささやかに可愛らしく描いた作品を、私は他に僅かしか知らない。
直近ではなくとも、この筆の需要は必ずや、ある、と何の根拠もなく確信するのです。

優秀作品賞、おめでとうございました。

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ピクルス

「無題(1)」たなか

 (優秀作品賞)

大胆なテーマ、召喚された語句の配置の妙、いや、なによりも不吉な想像力を喚起させられる、若い筆では到達出来ないであろう虚無世界が繚乱と広がる快作でしょう(作者たる、たなかさんが実際上お若いのかそうでないのか、私は存じませんけれども)。

作品世界、それがリアルであるかどうかには読み手の個人差があるかもしれませんが、予めリアリティー(なんだか恥ずかしい言葉です…)の獲得を第一義とした役割が与えられていないと思われる吟味のなされた言葉の常套ならざる連なりと、そこからどのような景色が浮かぶかは、読み手の想像力に準じるように作られていると感じます、ここが極めて巧くて、本作の肝ではないかとも思います。もとより何処に飛べるか、それは知識の蓄積などではなく、イマジネーションの領域の問題でしょうから。
故意に離されている語句と語句(意味と意味)を如何様に連結させるかによって、或いは、どの語句に主役を担わせるかによって、テキストの印象が随分と変わり得る柔らかさを備えた文学実験室のようでさえある。
例えば「ニガヨモギがどうした」なんていう文学的な奥ゆかしさ(詩文との相性はけして悪くはないけれども、結果、概して「つまらない」ことを多くの詩の読み手は既に学んでます)ではなく、敢えて俗な「原子炉」を選択しているのは、だから当為でもあり、さりとてOMDさながらに「チャイナ・シンドローム」と単純にアイロニーを謳う愚も犯していない、そうした一種の誠実さを伴った姿勢には共鳴しますね。
どちらかといえば私は「読めない」人ですけれども、それでもこの作品の「沈黙の叫び」ともいうべき声に耳を澄ませようとしてしまう。「会いたかったよ懐かしいね」と握手を求めてきたり、「わかるよ君の気持ち僕もそうなんだ」などと猫撫で声で近寄ろうとする、そのような詩文には問答無用の蹴りを入れたくもなりますが、こうした手管には抗い難いものがある。
よくわからないものに対峙した時に、より理解しようとする人間の習性を把握したうえで書かれている(かどうかは知らないが)、だからこそ、どれほど「読めない」読み手であっても、本作の(それこそ俗な形容を用いるなら)ドグラ・マグラ然とした、言い知れぬ不安や絶望といった衣装の端を望む望まざるにかかわらず掴んでしまうのです。
此処には、一切の「リアル」は(常に疲弊しているので)存在しない、あらゆる「理解」は(予め間違っているので)葬られている。ただ、哀しい予感だけが、申し訳なさそうに揺らいでいる。
刮目し、沈黙の声を聞け。

個人的嗜好には、見事なほどかすりもしませんが、秀逸な詩文として審査員特別賞に推挙させていただきました。
もう一作の応募作品も興味深く拝読致しました。

寡作な書き手ですが、新作品発表を心待ちにしているのは私だけではない筈の、日本有数の詩人であることは間違いないでしょう。

優秀作品賞受賞、おめでとうございました。

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ピクルス

さてそして、思うように筆の進まないままに選評公開の日を迎えようとしております。
自身の、語彙のひとかたならぬ貧しさに加えて、理路整然とした脈絡に乏しい文脈や構成力にうなだれつつも、これからも少しずつ書いていきたいと思っております。
明晰ではない、なんだかじれったい文章ばかりを読んでいただくことの失礼を改めて御詫びしつつ、以後は
審査員特別賞受賞作品へのコメント(私が一次選考で推挙させていただいた応募作品は含まれておりません)、
次いで、一次審査にて推挙させていただいた作品、
続いて、惜しくも選外としましたけれども忘れ難い印象を残したり、センスの良さに感じ入ったり、才の片鱗に心を奪われそうになった作品、などにも触れさせていただく所存です。
また、その後となるかもしれませんが、当企画の各審査員諸氏全員の(私見ですが)御紹介も致したく存じます。

あとは、この機会に、少しばかりの与太を申し上げます。
文学とは何か?または、詩とは何か?、といった問いを前にして、流暢に返答ができるほどには、私自身は未だ足りません。
(学業をリタイアし、ブルーカラーを生業としているのが実像のプロフィールです(ネガティブに卑下しているのではなく、誇りを抱いて仕事に従事しておりますけれども、つまり、知的な嗜みや訓練の不足は、指摘を待たずとも自覚しておる次第です)。そのような、けして知能が高いとは言い難い私は、素晴らしい作品と対峙して絶句している自分の、感謝にも似た想いを、それに限りなく近い言語に変換する能力の赤裸々なほどの欠如を自覚しつつ向かい合う日々は、なかなか辛いものでした。)
が、それでも尚、文学、ことに詩は、ある種の「救い」であってほしいと何らの根拠や正当性の如何もないままに願ってしまうのです。
以前にも何処かに書きましたけれども、巧いか否かだけではない、また、文学的なサロンで愛玩されるような詩や読み解くには特別な訓練なり知識なりの蓄積が必須であるかのような詩でもない、些細な事象や軋轢に苦しんだり哀しんだりしている脆弱であったり小利口であったりする鼻持ちならない大衆の、彼女や彼が他者からひたすら隠そうとしている柔らかな胸に届くような詩こそが、求められていると私は感じております。

疲れ果てて帰宅したサラリーマンが、
嫌な客に絡まれても笑顔を絶やさなかった風俗嬢が、
初めての失恋の渦中で世をはかなんで今まさに手首を切ろうとしている思春期の少女が、
余命を告げられ独り病床で静かに歌う老婆が、
(以下、中略)
大切にソッと抱きしめるような、たとえばそれが私にとっての「新しい詩文学」なのですよ。
書き手各々の事情や思惑はさておき、当企画に限らず「賞」と名付けられたものを幾ら得ても(それは素晴らしい仕事を為したことで報われた故の結果であるとは理解しますが)、なんとなく「名刺の肩書きが増えた」だけのような印象が拭いきれないでいます。もちろん、当企画は例外だ、と公言して憚らぬほど厚顔ではありません。が、しかし、感傷に流れたり主観に偏り過ぎていて誠に申し訳ありませんが、「詩人の靴を舐めるばかり」であるところのピクルスこと私の、あらゆる詩の選考基準の源泉は、そこにあり、そこにしかありません。
そして、さればこその「我が子にまで語り継ぐべき詩文」であり、それ故に、「21世紀新鋭詩文学」なる(失笑を買いそうな程度には大仰な)冠を付けているわけです。

「飢えた子に文学は有効か?」という有名な問いがありますけれども、では、今まさに手首を切ろうとしている少女にワン・ホールのボリュームあるケーキが果たしてどれほど有効でしょうか?
詩には、人を瀕死の淵から救う力すらある。私は、そう思っております、たとえそれが書き手の意図せざる力であったとしても。
そしてまた、願わくば自身のそう遠くはないであろう臨終の際にも、そうした(既にある、或いは未だ書かれていない)素晴らしい詩文と寄り添いながら(実際的に痛くても苦しくても構わないから)、心静かに逝きたい、それは極めてパーソナルな、ささやかな願いですけれど。

与太が過ぎました。

引き続き、選評を続けさせていただきます。



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ピクルス

「子供のこと」吉田群青

 (審査員特別賞/推挙・ダーザイン)

素朴な親和力を持つ筆には、なるほど、インターネットで人気があるのも頷ける、とする向きも少なくないであろうと思われます。
「インターネット詩界では谷川俊太郎よりも吉田群青の方が著名である」と私が言うのは、縁故ある故の贔屓などではなく、実際的な事実ですから(まぁ、そもそも「谷川俊太郎」が著名であるかどうかに、既に疑義があるかもしれません。「詩人村」は狭すぎますが、それは置くとして)。

さて、どちらかといえば日常茶飯事的な景色を起点とした異化を呈示することを得意とするこの作者の持つ、特異な他者性の発露には、一定の結実もうかがえます。
作品構造としては、先ずガイダンスがあり、次いで問い掛けがあり、最後に話者が答えて落とす、というオーソドックスな印象ですけれども、予めのテーマに集中しようと力を込めているので(実際にどうかは判りませんが)、脇道に逸れる誘惑を警戒するあまりに却って作者が意図せざる主題から外れた凡庸さに焦点があたりかねないカメラ・ワークとなっているようにも感じます。惜しいな、と思いましたね。
吉田群青なる作家は、技巧の類いを殆ど持たぬままに数々の傑作(神憑り的な大傑作を含みます)を発表している奇跡的なポジションにいると思っているのですが、それは同時に、ある種の「限界」をも抱えているのではないかという危惧もあります。
それはまた、読み手としての個人的な畏れでもあり、つまりは、彼女にとっての「詩」が、「作業としての無益なファンタジー」でしかなくなった時に、いともあっけなく創作を放棄するのではないか、といった畏れなのですが。
いや、応募作品そのものにあまり触れずしての埒外コメントは控えるべきなのでしょうけれども、本作には、さしたる留保なく読者を共感せしめたり、作者の狙ったイメージを追うことに徒労を感じさせない佳作ではあるのだけれど、「まるで吉田群青さんの詩みたいだな」という(そりゃそうです、が)、僅かではありますが確かな不足感が拭えないでおります。
微笑ましさを伴った不気味さや、他者が見向きもしないものに注がれる暖かな視線、欠点は見当たらないけれども冴えた技巧を凝らせないが故に物足りない情感を、それらが補ってはいますけれど、心を奪われる傑作と呼称するには未だ足りぬ味わいの作品でした。

多作の詩人としても知られておりますけれど、はらだまさるさんの応募作品への稲村つぐさんの選評のフレーズを拝借するなら、「もっと苦しんでほしい」作者だと思います。
大衆的ではあるけれども、ややもすると平面的になりがちな筆致、ここに技を凝らした奥行きが生まれた時こそ、吉田群青なる詩人が真に目覚めた時だ、と。

「詩を知らない」、そんな世の中の大多数の大衆が、彼女の作品の読後に「詩を読んだ(ような気がする)」と思わせる、幾多の大詩人が賞や名声や世辞よりも望んだであろうそんな魅力を、吉田群青は幸運にも既に持っているのです。
あとは、書くだけだ。


この作品は、けして「悪くはない」ですが、推敲の余地がかなりあると私には感じられた次第ですので、一次選考の際に選ばせていただくにはいたりませんでした。
個人的には、誰にも負けない程度には彼女の作品のファンではありますけれど、その信仰によって作品の出来を見誤るような愚を犯すほどには安いファンではないのです。
それから、吉田群青さんの筆は、詩文よりも寧ろエッセイに適性があると感じますが、ある意味では「貧しい文学」でもある詩を、大衆の手に取り戻すことの出来るであろう若く美しき筆を持つ旗手として大いに期待しております。

審査員特別賞受賞、おめでとうございました。


追記。
どうにも主観的な情緒に偏り過ぎたきらいはありますので、そこは反省しつつ今少しだけ。
別の言い方をするならば、素晴らしい「器」は既にある、そこに他者の心を奪うであろう「水」すらある。ですから、「何を注ぐか」ではなく「どのように注ぐか」の方法、つまり技巧にこそ毀損が見受けられるのです(技巧にしか毀損が無い、ともいえますが)。
そこに(たとえ時間がかかっても)味のある工夫が凝らされた場合に、作品の奥行きや幅、深度、それらは確実に良化し、万人に「愛される」作品が現出するであろうと予言したく存じます。
また、この書き手が持たぬものとしてもう一つは、尖鋭な言葉のボキャブラリーだと考えられますけれど、こちらは気に病むにあたらないでしょう。といいますか、そこを激変させると、作風そのものが壊れかねない、そしてそれは誰も望まぬ事態でもあるのではないかな、と。
以上です。
失礼しました。

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ピクルス

「でたらめ」泉ムジ
 (審査員特別賞/推挙・ダーザイン)

軽妙な流れとチャーミングな空気の小品ですね。
吉田群青さんとは逆に、この書き手は、それと悟られぬように技巧を凝らして読み手を楽しませてくださるエンターテイナーでもあり、その才には注目すべきでしょう(予めそれに恵まれておられたとは思えません。それは他ならぬ「努力」によってこそ彼に備わったものであると推測しておりますが)。

さて、泉ムジさんが一連の作品に忍ばせている「犯罪」シリーズともいうべき仮テーマ、家庭内暴力や強姦などに続く本作は、多少、射程を短くした「のぞき」、ディテクティヴ、です。
執拗に覗く側の話者を「猫」として召喚することにより、下世話なあざとさが立ち現れるかもしれない作品強度の傷を犠牲にしてまで、親和力のある空気を漂わせることには成功しているといえるでしょう(これは、生理的欲求を犠牲にして見張りを続ける猫が抱いている強迫観念、という図式にもリンクしますね)。
過去への不満と受容、それと対比させた現在であるが故の過去とは色の異なった不満の記述と、それに向けられるパラノイア的な拘りの表明が、「ポエム」へのひとかたならぬ憎悪として(単に、書き手の自虐であるかもしれないが)語られる、その話者が猫であることにより、また、その口調が推測と断定の狭間で揺れ動きながらも、浅はかで飄々とした口調が用意されていることにより、さほどの質量も湿度も感じさせない、この辺りは実に巧いですね。テキストを俯瞰した場合にも実際に触れた場合にも、読み手に圧迫感のような抑圧を与えない、濃いものを淡く読ませる、そこに泉ムジ作品の人気の秘密があるのです。
ただ、本作につきまして、主客の視点が入れ替わる際に、わざわざ「ラベンダー」を持って来たところに興醒めするのは否めませんでした。
実際には丁寧に施されたであろう仮構の場に、柔らかく連れて行かれた筈の読み手が醒めるに充分なほどにイメージ喚起力が強過ぎる不用意な言葉ではないかな、と。おそらく狙った効果には筒井康隆の名作があるように思いますが、伏線としては効き過ぎて却って作品を傷付けている印象が強い上に、更にまた、SS的な雰囲気が好感されるであろう作品なので筒井康隆を連想させた時点で、ある意味では敗北しているともいえないでしょうか。もちろん、これは私の印象でしかありませんが、その点が気になったので、一次選考の際に残せなかった次第です、御容赦ください。


まだまだ触れたい箇所はありますが、「簡単に」と前置きした筈の選評が長くなるのもいかがなものかと思いますので、最後に。
所謂、詩的な緊張よりも、(適当な表現かどうかわかりませんが)「ノリ」に重心の置かれた本作は、重い主題を軽く読ませることに関しては、ある程度、成功している重要な作品として記憶されて然るべきでしょう。
知的な快楽を伴わない、必要以上に脳ミソの皺が減ったが如くの疲労を読後に感じさせるテキストは大概の読者に再読されることはあり得ないのですから。
みずみずしい実存の開示を敢えて愉しく読ませる、それは誰にでも叶う業ではありません。その筆の次なる行方は不明ですが、楽しみに待ち続ける甲斐はあると思わせるには充分に足りる詩文であり作者でしょう。

審査員特別賞受賞、おめでとうございました。

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ピクルス

「ラストモニュメント」いとうかなめ

 (審査員特別賞/推挙・ケムリ)

実に個性的なテキストです。
戦争をモチーフとしながらも、暑苦しいアジテーションの一切を避けて記述されている(もとより、ヒューマニズムに訴求するように書かれた例えば「戦争反対」は、冷徹なる他者の失笑を買うか、かのスネークマン・ショーを持ち出す迄もなく「ネタにしかならない」のが関の山でしょうから)ところに着目するべきでしょう。

情緒に流れることなく、寧ろそれを揺らせながら顕して、「予言」と名付けられた恰も追悼や鎮魂の存在を指差しているとさえ感じさせるその先にあるものが如何なるものであるかは、これだけ「説明(のみ)」によって話者から語られている形式にもかかわらず全く明示的ではない、そうした優しくない導きは、漠然とした景色や曖昧な意味付けがコミカルに堕ちる寸前で、さながら求道者のような風貌をしたテキストであることに気付かされる、妙味ある作品ですね。

ところで、余談ながら、詩作に向かい合う若い方々の陥りやすい罠の一つとして、「説明に過ぎてしまいがち」な側面が数年来、特段に散見されますけれども、私(達)は「詩を読もう」としている(その熱心・不熱心さの別はさておき)読み手であって、電気製品の取扱い説明文を読みたいわけではけしてない、そこのところを心得違いしないでいただきたいと望みますね。もちろん、「詩は何を書いても自由だ」という主張に対して、その姿勢の根拠にかかわらず私は全く否定はしません(賛同もしませんが)、かくいう私とて苦言を呈するほどには足りないと承知してもおります、しかしながら、「何を書いても自由だ」と自我の頭を撫でながら凱歌をあげる以上は、その(形態を問わず)テキストに対してどのようなコメントが告げられようとも甘受せねばならないでしょう。さもないとスジ論的にアンフェアであるばかりではなく、一切のクレームを拒否する悪徳電気メーカー然とした人物であるというあまり喜ばしくない作者評価が待っているのみでしょうから。特にインターネットに於いて、(全てがそうであるという断定は避けますが)その作品に向けられていた筈の印象批評が、作者自身に対する誹謗へと変容しがちな主因は(私怨を除外すれば)、作者サイドの応対の誤りや不遜な態度からしか発生していないと感じます。

余談が長くなりました。本作に立ち戻ります。
「説明」が、説明として機能しないが故に、わけのわからなさに焦点が絞られていくように造られた構造とその円環、これもまた技法ではありますが、この書き手の筆は「常識に汚染されていない美」を備えている、ここが素晴らしいのではないでしょうか。
だからこそ、読み手が結ぶ像も卑近な「悩み事相談室」とは、遥かにかけ離れた詩情豊かな地平へと苦もなく招かれるのです。
内部であれ外部であれ、それを「気分」として取り込んで、共感を得易い言葉に変換する作業は、「(例えば思春期特有の)不安を支える装置」としては機能するかもしれないが、一度書かれたら死ぬことで、日々、他の誰かしらに同じ作品を百万回書かれるであろうし、また、一度読まれたら(その作者に好意を抱いている読み手でない限りにおいては)再び読まれないであろう、そのような詩ではないゾンビのような何かしらである、という認識を改めて抱かされるに充分な示唆に満ちたテキストでもありました。
「さっぱりわからない」ことが面白いのではなく、「とてもよくわかる」ことが面白いのでもなく、「わかりにくい」ことこそが面白さに繋がるのではないかな、と私は思いますね。
ただ、いかんせん、昔語り口調の柔らかさとは裏腹の若干の堅苦しさと、やや抑揚に欠けるきらいがあって、そのあたりが読み手に邪険にされかねない(予め読まれない)懸念がありますので、私自身は一次選考で推挙させていただくのを見送りました。
なお、この作者の、もう一作の応募作品は推挙しておりますので、それにつきましては後日(年を跨ぐことになりそうですけれども)、触れさせていただきます。

審査員特別賞受賞、おめでとうございました。


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ピクルス

少しばかり暴走気味ですので、簡潔を心掛けながら続けさせていただきます。


「終息」藤本哲明

 (審査員特別賞/推挙・広田修)

この作者は、作品発表媒体をインターネットよりも商業誌投稿欄等で御活動なされている方ですね。読み手たる私個人にとっては何処で読もうと詩は詩ですけれども、傾向として紙媒体での活動を主となされている方々に(ある程度)特有の、テキストに無駄な装飾を施すことを是としない、或いは、必要以上に読者に媚びない、その真摯さ故に、(特に詩に馴染みの浅い読み手の)初読では些か近寄り難い印象を与えかねない空気が本作にも漂います(それの良否が問題なのではありませんし、逆に、殆どわけの解らない装飾が好きな作者も少なくないと承知してはおりますが)。

死に至ったのちの経緯を経て最終連で余韻を揺らせながらも再びその結果である初連へと遡上することになる、いわば絡まったメビウス然とした構造。手法としては幾分常套的ではあるかもしれませんけれども、さして長くもないテキストであるにもかかわらず、その経緯をスムーズに辿れない、もどかしさの仕組みが興味深い作品です。ここにある、(詩に慣れない)読み手が、届きそうで届かない感じ、これをもう少しだけ親切に導いていてくだされば、と惜しまれました。このもやもやとした焦れったさは、つまり、作品の奥行きに向かう扉でもあるわけですけれども、それを開ける開けない以前に、そこに扉があると気付かないであろう読み手の方が多数を占めるのではないかな、と推測されますから。

>ギシャリ
というオノマトペ、当初はテキストに馴染みきれていない奇妙に浮いた感じがあるかもしれませんが、再読を重ねると意外なほどに座りのよい擬音であることに気付く筈です。作者の意図や思惑は存じませんが、私は、「少なくとも濁音から始まる擬音であり尚且つ幽霊のような足音であってはならなかった」という縛りからの選択肢を考えた場合に、「ギシャリ」とは悪くないチョイスだと思いましたね(後出しジャンケン的に言うべきではないのかもしれませんが)。
また、蛸のくだりを挙げるまでもなく、そこここに詩情を立ち上げる記述が散見されます。が、しかし、それらが果たして読み手に咀嚼されて感銘を与え得るには、少しばかり無理があるといいますか遠いのではないでしょうか。書き込まれている内実が外観によって阻害されている、所謂「難しい詩」として最後まで読まれることなく棄てられかねない懸念を感じました(あくまで、私は、ですけれども)。そして、それは作者の本意でもない筈でしょうから。
本作に限りませんし、詩に限らないですが、「とりあえず全部読んでもらわないと話にもならない」わけですアタリマエですけど。そこのところで、あと少しの工夫が欲しかったな、と。
あとは、
>蛾の死んだのが
この表記がベストなのか、どうか(やや醒めました。導入部近くなので、読み手によっては作品の致命傷になりかねないかもしれません)。
>言張り
おそらくは投稿慣れしているであろう作者の誤字であるとは考えにくいので、何らかの効果を狙ったものか、或いは私の無学故であるかもしれませんが、戸惑いと躊躇いで、ここでも醒めてしまいました。パロールとしてもこの箇所に置かれるには相応しくない印象もあります。
二箇所も醒めると厳しいです個人的には。ですので、私は、一次選考には残せませんでした、申し訳ありません。
しかし、こうした「作り込まれた作品」は、けして嫌いではありませんし、どちらかといいますと、「需要」よりも「供給」の方が勝っているのではないかな、というのが実感です。ただ、文学的に硬派な薫りのする筆は、なかなか魅力的です。願わくば、ある一定の時期を経た「書ける」男性詩人が陥りがちなマニアックな方向には進んでいただきたくないな、と強く感じた次第です。


審査員特別賞受賞、おめでとうございました。


追記。
あまり「簡潔」になってませんね…。
項垂れつつ、続きます。

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